第四十一話
「名はなんという?」
定盛は酒を飲みながら問うた。
少女は畳に額をつけたまま小刻みに震えていた。
ここにきてようやく悟ったのだ。
己がこれから何をすべきか。
つきのは現実を直視することができなかった。
最下層で生きている己が上等な布の着物を纏い、一生することのないと思っていた化粧をし、畳の上にこうして座している。
そして目の前には将軍がいて名を問うているのだ。
「つ、つきのと、申します」
「つきのか、よい名じゃ」
定盛は笑った。
「つきの、苦しゅうない。面を上げよ」
彼女にとって将軍とは畏怖の対象以外のなにものでもない、恐怖そのものである。
つきのは思いきって顔を上げた。
定盛は息をのんだ。
雪洞に照らしだされた少女は天女を思わせる清雅さを備えていた。
大きく見開かれた瞳は小鹿のように大きく潤っている。
肌はこわいほど白く、その滑らかさは白磁を思わせる。
髪は豊かでどこまでも黒い。
定盛はつきのの美しさに酔いしれた。
そして不幸と言うべきか光栄と言うべきか、つきのはこのたった一夜で身籠もったのだった。
六月も終わりに近づいたこの日、小暑を過ぎたこともあって暑かった。
風はなまあたたかく、汗がしっとりと肌を湿らす。
定路は池に面した離れに居た。
何をするともなしに壁に寄り掛かり、池の鯉の泳ぐ様を眺めている。
彼の心中を占めるのは憂え以外の何ものでもなかった。
人の口に戸は立てられずとはよく言ったものだ。
将軍定盛が穢多の娘にうつつを抜かしているという噂は正室のお柊の方にまで伝わっていた。
彼の女はたいへん嫉妬深く将軍の正妻という自負もあったので、穢多ごときの卑しい娘に懸想することが許せなかった。
定路にとっても気分のよい話しではない。
己が初めて憧れを抱いた少女はもはや父の情婦なのだ。
だが、今彼が悩んでいるのはそんなことではない。
今年の雨期は思ったよりも長引き、あちらこちらで水害が多発したのだ。
川の氾濫により農村での被害は甚大である。
そして被差別部落の人々もこういった害を被り、住んでいた場所を追われるといった事態になっていた。
もちろん、つきのの部落とて例外ではなかった。
定路は居ても立ってもいられなかった。
肝心な時に何もしない父が歯痒かった。
父の想い人だろうが関係ない。
定路自身気付いてはいないが、これは愛の感情以外の何ものでもない。彼は身分違いの少女を愛していたのだ。己の感情に気付かない者の行動ほど突飛なものはない。
彼は自ら朝に日に馬を飛ばし少女を捜した。
彼はまだ、己の少女に対する感情は単なる羨望だと思っていた。
二人とない美しさへの。そして、けして穢れることのない清らかさへの―――