表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蒼天英雄  作者: 小波
41/73

第四十一話

「名はなんという?」

 定盛は酒を飲みながら問うた。

 少女は畳に額をつけたまま小刻みに震えていた。

 ここにきてようやく悟ったのだ。

 己がこれから何をすべきか。

 つきのは現実を直視することができなかった。

 最下層で生きている己が上等な布の着物を纏い、一生することのないと思っていた化粧をし、畳の上にこうして座している。

 そして目の前には将軍がいて名を問うているのだ。

「つ、つきのと、申します」

「つきのか、よい名じゃ」

 定盛は笑った。

「つきの、苦しゅうない。面を上げよ」

 彼女にとって将軍とは畏怖の対象以外のなにものでもない、恐怖そのものである。

 つきのは思いきって顔を上げた。

 定盛は息をのんだ。

 雪洞に照らしだされた少女は天女を思わせる清雅さを備えていた。

 大きく見開かれた瞳は小鹿のように大きく潤っている。

 肌はこわいほど白く、その滑らかさは白磁を思わせる。

 髪は豊かでどこまでも黒い。

 定盛はつきのの美しさに酔いしれた。

 そして不幸と言うべきか光栄と言うべきか、つきのはこのたった一夜で身籠もったのだった。



 六月も終わりに近づいたこの日、小暑を過ぎたこともあって暑かった。

 風はなまあたたかく、汗がしっとりと肌を湿らす。

 定路は池に面した離れに居た。

 何をするともなしに壁に寄り掛かり、池の鯉の泳ぐ様を眺めている。

 彼の心中を占めるのは憂え以外の何ものでもなかった。

 人の口に戸は立てられずとはよく言ったものだ。

 将軍定盛が穢多の娘にうつつを抜かしているという噂は正室のお(しゅう)の方にまで伝わっていた。

 彼の女はたいへん嫉妬深く将軍の正妻という自負もあったので、穢多ごときの卑しい娘に懸想することが許せなかった。

 定路にとっても気分のよい話しではない。

 己が初めて憧れを抱いた少女はもはや父の情婦なのだ。

 だが、今彼が悩んでいるのはそんなことではない。

 今年の雨期は思ったよりも長引き、あちらこちらで水害が多発したのだ。

 川の氾濫により農村での被害は甚大である。

 そして被差別部落の人々もこういった害を被り、住んでいた場所を追われるといった事態になっていた。

 もちろん、つきのの部落とて例外ではなかった。

 定路は居ても立ってもいられなかった。

 肝心な時に何もしない父が歯痒かった。

 父の想い人だろうが関係ない。

 定路自身気付いてはいないが、これは愛の感情以外の何ものでもない。彼は身分違いの少女を愛していたのだ。己の感情に気付かない者の行動ほど突飛なものはない。

 彼は自ら朝に日に馬を飛ばし少女を捜した。

 彼はまだ、己の少女に対する感情は単なる羨望だと思っていた。

 二人とない美しさへの。そして、けして穢れることのない清らかさへの―――

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ