第三十二話
史家の邸宅に弦之介一行はいた。
お礼をしたいという槐の申し出を弦之介は辞退したが、彼女がそれをゆるさなかった。
矢には毒が塗られていた。即効性のものだ。
なぜこの女性が狙われるのか。
「旦那様に知らせるべきなのでは?」
奉公人の一人が言った。
「旦那様に迷惑はかけられぬ。私はこの通り無事だったのです。知らせるまでもないでしょう」
「失礼ながら奥方様。わたくしは史殿に知らせるべきかと思いますが」
黒田であった。
「城の者に手を出すならいざ知らず、無関係な奥方様の命を狙うとはよほどのこと。知らせるべきです」
槐はしばし黙ったのち、「わかりました」と言い家人の一人を城に走らせた。
「弦之介様」
槐は弦之介の方に向き直ると深々と頭を下げた。
「奥方・・・」
「何とお礼を申し上げたらよいのでしょう。感謝の言葉を何万回言ったとて足りませぬ」
「礼など無用です。それより、奥方は今回のようなことに度々遭われるのですか」
「いいえ、命を狙われるなど初めてのことでございます。それ程までに世は乱れているのでしょうか?」
彼女の顔が暗く曇った。
弦之介がさらに何か言いかけた時、廊下で人の声がした。
「何です、騒々しい」
「申しわけございません。坊ちゃまが・・・」
下女の一人が赤子を抱き姿を現した。
上座にいる弦之介たちに気付き、慌てて辞宜をする。
「信太郎」
槐は息子を呼んだ。
先程までぐずっていた赤子は母の存在を認めるや、顔をほころばせた。
「奥方の、お子にございますか」
「ええ、今年で二つになります。甘えん坊の盛りでして」
そう言って赤子をあやす姿は母であった。
控えめな蘇芳色の紋付小袖に豊かな黒髪を丸髷に結ったその姿は、娘にはない美しさがある。




