ろく 里穂Side
膝に絆創膏を貼り付けて、私は優斗の眠っている部屋に足を踏み入れた。
お父さんとお母さんがちらり、と私を見て、小さく微笑んだ。
「優斗ね、今寝たところなのよ」
「ふうん」
私は出来るだけ抑揚をつけず言ってみたけれど、心の中ではすごく安心した。優斗に、どんな顔で、どんな言葉をかけるべきなのか、分かんなかったから。
「私のせい、だと思う」
私がぽつり、と呟くと、お父さんが小さく顎を引いた。
「そうかもしれないな」
ちょっと、とお母さんの咎める声がしたけれど、お父さんは目を瞑って聞き流した。
「お前は、優斗が好きか」
お父さんの言葉がずん、と胸に落ちてきた。お母さんもお父さんの反応を見てそれ以上は何も言わなかった。きっと、二人とも知ってるんだな、と雰囲気で感じた。
「……わかんない」
「そうか」
お父さんも、それ以上は言わなかった。
「優斗、明日、学校休むからね」
お母さんの声に「うん」と返事をした声が、少し掠れた。
――「あのときのお前に戻れよ。俺がすげえって思った、あのときのお前に」
坂本くんの声を心の中で反芻する。学校に行ったら、みんなの視線、痛いだろうなあ。また、あのときに逆戻りだ。ため息を吐きたくなったけれど、そこまで憂鬱ではなかった。
「もう仕事に戻らないとな」
お父さんは腕時計をみて、優斗をみた。
「いってらっしゃい。優斗の面倒、私が見るから」
「ああ」
お父さんはお母さんの言葉に小さく頷く。そして、優斗のほうに近寄り、優しく撫でた。優斗の眠っている顔が幸せそうで、切ない気分になった。
「じゃあな。里穂」
ぽんぽん、と私の肩を叩くと、片手を挙げる。叩く手は優しかったけれど、どっしりしていた。私も、つられて片手を挙げると、お父さんは小さく笑った。
お父さんが病室を去ったあと、お母さんはりんごと果物ナイフを私に渡した。
「これ。女の人から、お詫びにってもらったの」
ふうん、と呟いて私は手の中でりんごを玩ぶ。全体的に丸くって剥きやすそうだ。
「私に剥いてほしいの?」
「ええ。優斗、里穂が皮を剥いたりんごは、おいしそうに食べるから」
お母さんは口元をほころばせた。私とお母さんだったら、お母さんのほうが上手に剥けるし、私が出来ないウサギさんも、綺麗に完成させる。でも、お母さんが頼んだのは、上手い下手の問題ではないのだろうな、と思った。
「ちょっと、トイレに行ってくるわね。優斗、見ていてくれる?」
「うん、分かった」
私が頷くと、お母さんは優斗のほうに近寄り、優しく撫でた。そして、
「早く元気になあれ」
とびっきり優しい声で、優斗の額にキスをした。チュッ、と小さく音がする。私は吃驚してパチパチと目を瞬かせ、お母さんを見た。お母さんは優しく笑って「早く元気になるおまじない」と少しだけ恥ずかしそうに言った。
私は、何だか胸が温かくなった。
*
りんごの皮むきの練習、いつから始めたんだろう。いつから、出来るようになったんだっけ。最初は包丁の少し手前で親指を添える、ということが怖くて出来なかった。そんなことをすれば、手が切れてしまうではないか、と。でも、やってしまえば、包丁は指ではなく、皮とりんごの実の丁度間をするりと抜けた。添えないでやるよりもずっとやりやすかった。
いつも通り皮を剥いていると、包丁が滑り、添えていた親指を擦った。
「あ」
擦った場所はピンク色になり、やがて赤くなった。本当はあまり痛くなかったんだけれど、りんごの白い部分に赤い血が染みていくのを見るうちに、痺れるように痛くなり、涙がぽたぽた落ちた。
「痛い」
血は親指の付け根まで垂れてきた。妙に生生しくて、思わず、親指をしゃぶるように舐めた。
鉄の味が舌に突き刺さる。親指しか切ってないのに、体全体が痺れるように痛かった。
私、今日、怪我してばっかりだなあ。それに、泣いてばっかりだ。
「里穂ちゃんって、ブラコンなんでしょう? 気持ち悪い」
「ほんとだよねえ。里穂ちゃん、弟のこと、ゆーくんとか言ってるもんね」
「うわあ。私だったら絶対いえなーい」
口の中の鉄の味が苦く感じた。
私は、あのときの私とは違う。そう思っていた。でも、今の方が、ずっと滑稽だって気づかされた。
私は、耐えないといけない。もう、優斗を傷つけないように。