ご 優斗Side
「ゆぅくんの悪口言わないでっ!」
小さい背中。懐かしくて見慣れた背中だった。
「あんたは、ゆぅくんの頑張りを知らないから、そんなこと、言えるんだ。ゆぅくんは、一生懸命、家でも勉強、ずっと、してるんだから……」
両手を広げて、ふるふる、と小刻みに震えていた。声もちょっと震えていた。
「りぃちゃん」
僕がつぶやくと、今よりもずっと幼い顔のりぃちゃんが涙目で振り返った。
僕が手を伸ばそうとすると、りぃちゃんはいつのまにか、溶けて、消えた。
「優斗……」
暗闇のなかで、何かがもぞ、と動いた。
暗闇に溶けていたソレは徐々に輪郭を帯びて、お父さんになった。
「お父さん……?」
「優斗」
お父さんは最近夜勤ばっかりで、一週間近くあってなかった。お父さんの顔はすごく疲れているように見える。どうしたんだろう。
「優斗、大丈夫? 痛くない?」
お母さんの顔も見えた。
「うん、だいじょうぶ」
そう言って起き上がろうとすると、体がぴりぴり痛んだ。
僕が顔を顰めると、ああ、無理しなくていいのよ、と言って、布団をかけなおしてくれた。
何だか、体中が痛くて、右手で左手の甲を触れてみるとガーゼが貼ってあるのを感じた。車のクラクション、運転していた人の驚いた目、衝撃。断片的な記憶がぽつ、ぽつ、と頭の中に投下される。ああ、僕、そういえば車にぶつかったんだっけ。
「りぃちゃんは?」
「里穂もね、膝、すりむいちゃっててね、先生に手当てしてもらってるのよ」
「ふうん」
僕は天井を見た。真っ白だ。カーテンも壁も布団もシーツも枕も、真っ白で遠近感がおかしくなりそうだ。普段の僕なら、りぃちゃんが心配になって気が気でなかっただろう。でも、今の僕は、なんとも思わない。りぃちゃん、大丈夫かな、という不安は白で塗りつぶされた部屋に溶けて消えてしまう。
うざい、とつぶやいたりぃちゃんの声、りぃちゃんの傷ついた目、また、断片的に記憶が落っこちてきて、思い出すたびに泣きそうになった。
「どうして学校を飛び出したの? ……友達に意地悪されたの?」
僕は首を横に振った。
「友達と、りぃちゃん」
と掠れる声で答えた。すると、お父さんもお母さんも心底驚いていた。
「里穂ほど、優しいお姉ちゃんは居ないと思うぞ」
僕もそう思う。りぃちゃんは、学校では冷たいけど、家では本当に優しい。クッキーが五個あったとすると、三個は絶対僕にくれる。テレビ番組だって、「優斗の好きなのを見て」と譲ってくれる。だから、よっぽどのことが無い限り、喧嘩なんてしないのだ。
僕は今まであったことを話した。お父さんとお母さんは、時々驚きながら、それでも、最後までうんうん、と頷きながら聞いてくれた。
「ブラコンの次はシスコンか」
話し終えた時のお父さんが初めにいった言葉。
「え?」
「結構前だけどな。里穂が丁度、お前ぐらいのときに、お前と同じようなことを言って泣いてたよ。『ブラコンじゃないもん。私の好きは、結婚したいほうの好きじゃないもん』ってな」
りぃちゃんが泣いてた……?
僕が、小学入ったばかりのころ、わめいて暴れて、りぃちゃんにすごく迷惑をかけた。そのころのりぃちゃんは学校でもずっと優しくて、僕がどんなに我侭を言っても、「ゆぅくん、学校ではちゃんと座って勉強しなきゃなんだよ」と言ってたしなめてくれた。
――「ゆぅくんの悪口、言わないでっ!」
ふと、その声が頭の中で鮮明にリピートされた。その時のりぃちゃんの表情も、その時の僕も、なんで思い出せなかったのかが不思議になるくらい、鮮明だった。僕が、坂本と喧嘩したのだ。坂本が僕に対して、すごくムカつくこと言ったんだ。「馬鹿」とか「邪魔だから、学校くんな」とか、そんな感じだ。
僕のそのときの担任の先生は、まだ先生になったばかりの若い先生で、僕みたいな授業についていけない生徒にいちいち授業の時間を割いてまで教えるのだ。そのせいで、僕はかろうじて授業についていってたけど、授業は他のクラスよりも、ずっと遅れてた。
それが、坂本の気に障ったのだろう。
僕もそれに言い返した。
どんどん、どんどん、エスカレートして、「死ね」とか「この世から消えちゃえ」みたいな、冗談でも言っちゃいけないようなことも言ったんだ。
その時、りぃちゃんは、僕だけを庇った。「ゆぅくんの悪口は言わないで」と。
僕と、坂本だけじゃなくて、他にもいっぱい居た。その中には、りぃちゃんと同級生の人も居たかもしれない。
りぃちゃんは、僕と同じことを言われたんだろうか。りぃちゃんの言われたことを想像するのは、とても簡単だった。言い方も、目線も、くすくす笑う声も。
ほんとうは、気づいてた。
りぃちゃんは震えてた。僕を睨んでいたけど、睨まなければ、何かが崩れてしまいそうな。睨んだ目の奥の奥は、僕よりもずっと傷ついているようで、今にも泣きそうだった。
「お父さん」
「何だ?」
「りぃちゃんの真似、気持ち悪い」
「え? そっくりだろう?」
「全然違うよ」
自然と笑いが零れた。
「今日一日は、病院に泊まるからね。宿題はいいから、ゆっくり休みなさい」
お母さんが柔らかく微笑んで、優しく僕の額を撫でた。僕はすごく安心して、まるで催眠術にかかったかのように瞼をゆっくり閉じた。