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Used  作者: 百円
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よん 里穂Side

「あ」


 私が声をあげたときには、優斗は走り出していた。階段を駆け下りていくのが見えた。

 教室は、さっきとは打って変わって、沈黙が流れていた。「え、どうするの」「あのまま、家に帰っちゃうのかな」「俺のせいじゃないもん」「え、何だよ、俺のせい?」自分本位な小声が聞こえてきて、やがて喧騒に変わる。何もかもが灰色にくすんで見えて、思わず、リコーダーをぎり、と音がするぐらい強く握っていた。


 そのとき、突然、ぐいっと肩を掴まれる。わたしがよろけた隙間から、誰かがすり抜けた。その人はずかずかと教室に入りこみ、一番真ん中で囃し立てていた男の子の頬を引っぱたいた。

 手の動きは綺麗に曲線を描き、ぱしん、と気持ちの良い音がした。男の子は少しふらつき、近くの机に手をついて、信じられないという表情で見上げた。


「どうすんだよ」


 聞こえてきた声に、心臓がびくん、と跳ね上がった。いつものようにふざけた口調じゃなかった。冷たく凍った声だった。


「追いかけねえのかよ」


 振り返ったときに、黒い髪がさらりと揺れて、ああ、坂本くんだ、と心の中で呟いた。坂本くんがこっちを見ている。黒く、刺すような目で。坂本くんの眉は上品に吊り上がっていた。目がぎらぎら光っていて、私の気持ちをどんどん萎縮させていく。


「坂本く……」

「最低だ」


 誰に対して言っているのだろう。分かっているくせに、私は心の中で問う。私の、最後の逃げだった。

 坂本くんの弟に対して? 一緒になって囃し立てていた、この教室に居る人に対して? それとも、私に対して?


「最低だよ」


 坂本くんはもう一度呟いて、力を無くしたように目を逸らす。安堵感ではない、何かが抜け落ちて肩の力が抜けた。

 りぃちゃんって呼んでよ。いつものように、慣れ慣れしく。

 そう望んだとき、気づいた。


 私は、矛盾してる。


 「僕を利用しないでよっ」。心の中で優斗の声が響く。“利用”という言葉が、ぐん、と胸に迫ってきた。今までうっすらと感じていた罪悪感がせり上がってくる。

 私は、利用していた。最低だ。

 場の空気を無視した、能天気なチャイムが響く。私は、目の行き場に戸惑って最終的に廊下を睨んだ。何故か、先生はまだ来ていない。早く来てよ。私は、また、自分本位なことを考えている。早く、この異様な雰囲気を変えてほしい。

 吐いた息が震えた。私が視線を恐る恐る坂本くんに戻すと、彼は床を見つめていて、私の視線とぶつからなかった。


「俺は、お前を、尊敬してたんだよ」


 「してた」という過去形を、坂本くんは強調する。


「仲良くなりたいって思った」


 淡々とあまり抑揚をつけずに話す彼の言葉の意味に気づいたとき、私は耳を塞ぎたくなった。自分の勘違いにも、気がついてしまったから。




 坂本くんに話した、最初の話題が優斗の悪口だった。

 優斗が私の作ったプリンを全部食べてしまって、私の食べる分が一口も無くて、それで、思いっきり喧嘩した。優斗なんて大嫌い。

 全部作り話だった。


 ――「お前って、結構話しやすいんだな」


 坂本くんが笑顔でいってくれたその日から、私は坂本くんのことが好きになった。私はあの時、クラスで悪い意味で浮いている存在で、坂本くんの笑顔がなかったら、学校に行かなくなっていたかもしれない。私は坂本くんに救われたんだ。坂本くんに嫌われたくない。それじゃあ、もっと優斗の悪口を言わなくちゃ。そんな使命感に縛られていた。

 でも、違ったんだ。坂本くんは、優斗の悪口なんて、期待してなかったんだ。


 馬鹿だなあ。


 そう思って、胸の内に毒つく。毒つきながら涙が出そうになって、目を擦った。

 坂本くんが、す、と息を吸う。


「あのときのお前に戻れよ。俺がすげえって思った、あのときのお前に」


 私は、前を向いて、坂本くんを見る。坂本くんの強い視線が、私の心の背中を押した。


 ――優斗。


 私は走り出していた。思い切り。

 きゅっきゅっと鳴るシューズの音と自分の息遣いの音が調和して、もう、二度と止まれないような心地がした。ブレーキが効かなくなった自転車みたいだ。もっと早く、と、思いっきり足を伸ばしたとき、後ろ足が付いていけず、前のめりに倒れた。

 こけた。痛い。ジンジンする。

 声が漏れそうになるのを、喉の手前で飲み込み、また起き上がって、走る。一歩一歩を踏み出すたび、涙が出そうになって、鼻水が出そうになって、でも、息をめいいっぱい吸って、無理やり引っ込ませた。

 誰かにぶつかる。痺れたように痛む足は、思わぬ衝突に耐えられず、ふらふらとよろけて尻餅をついた。


「ごめんなさっ……」


 そう言いかけて、やめた。担任の先生だった。

 ああ、怒られる。どうしよう。優斗は先生に見つかったんだ。それで、優斗が全部話したんだ。


 どうしよう、どうしよう、どうしよう……。


 こんなときでも咄嗟に言い訳を考えてしまう自分が嫌だ。自分は最低なんだ。


 耳の中で優斗と坂本くんの声が反響して、涙腺に直接訴えた。嗚咽を出しそうになって、必死に堪えた時、先生が少ししゃがんで、私の腕を優しく撫でる。私の視線と同じぐらいになった先生の視線が、何故か、怒りを含んだ目じゃなくて、哀れみを含んだ目だった。そして、ひどく深刻味を帯びている目だった。


「優斗くんが、事故に遭ったわ。学校の、すぐ近くの交差点で。今、救急車で病院に運ばれたの」


 私は言っている意味が分からなかった。ふえ、と間抜けな音が口から漏れた。


「さ、今すぐ、病院に行きましょう」


 先生に手を引かれるまま、私は人形のように足を動かした。手が震えて、足が震えて、顔が震えて、心が震えた。

 いまさら後悔したって遅いんだよ。

 神様がそう言ってるように聞こえた。そんなの、ひどい。



*



 病院に着くと、消毒液のツンとくる臭いが鼻を掠めた。


「本当に、申し訳ありませんでしたっ」


 大きな声が聞こえて、その声の主を探すと、深々と礼をしている女の人が視界に入った。謝られている主は、お父さんとお母さんだった。その雰囲気から、あの女の人が交通事故を起こしたんだな、と容易に想像できる。お母さんは、女の人の肩を優しく撫でて、いいのよ、と首を振っていた。


「里穂……」


 私の顔を見て、お父さんが、力なく、そう言った。女の人は私のほうに顔を向けた。


「ごめんなさい……」


 女の人は、まだ、若い人だった。目にいっぱいの涙を溜めていた。


「ごめんなさいっ」


 小学生の私にさえ、深々と礼をして、大きな声を響かせた。

 私は、ふるふると首を振った。もし、私が、優斗を傷つける言葉を吐かなかったら、優斗は学校を飛び出して事故に遭わなかったかもしれない。女の人が大きな声で頭を下げることもなかったかもしれない。お父さんやお母さんに心配をかけることもなかったかもしれない。取り返しのつかない後悔をして、原因はすべて自分にあるんだ、と再認識させられた。そう思うと、今まで堪えていた涙がぽろぽろと頬を伝った。

 女の人はそれを違う意味で受け取ったのか、顔を歪ませ、さっきよりもずっと大きい声で「ごめんなさい」と言った。女の人の声が何回も何回も、耳を劈いて痛かった。私はその痛みに顔を歪ませ、嗚咽を漏らしながら、泣いた。



*



「打ち所が良かったですね。軽症で済みましたよ。ただ、一週間は安静にしておいたほうが良いでしょう」


 お医者さんの声で、お父さんもお母さんも女の人も、安心した無防備な笑顔を見せた。私は、長い椅子に座って、ふと、下を向くと、赤いものが足に伝っていた。長いスカートを履いているから気づかなかったけれど、膝を擦りむいていたのだ。今まで全く気づかなかったのが不思議だった。治まっていた痺れるような痛みがまた、膝の真ん中で疼いた。

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