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Used  作者: 百円
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に 里穂Side

 学校の窓は外の寒さと中の温もりに耐えることが出来なかったのか、汗のように水滴を貼り付けている。何気なく、水滴の曇りを左手で拭うと、中途半端な温さの手に水滴の冷たさが染みた。窓の外には申し訳程度の小さな雪がちらちら舞っている。


「りーちゃんっ」


 坂本くんが馴れ馴れしくそう呼んで、私の肩を叩いた。私は、思わず、顔を顰める。


「その呼び方、やめてって言ってるじゃん」


 嘘だ。本当は嬉しくて、たまらない。

 坂本くんがそう私を呼ぶたびに、心が弾む。温かくなって、何故か顔が熱くなる。

 坂本くんの顔立ちは涼しげに整っていて、爽やかで格好良い。特に好きなのは髪だ。女の子並みに細くてサラサラな黒い髪。私は、風で優しく靡く彼の髪を見るたびに、思わず触れたいと思う衝動に駆られる。実際に触ったことはないのだけれど。

 その坂本くんに、親しくしてもらえるのは、嬉しいし、ちょっとした優越感を感じる。私の友達のアヤちゃんやミチルちゃんも、坂本くんに、此処まで優しくはしてもらってはいないだろう。

 “里穂ちゃんはいいなあ。坂本くんと仲良くて”。アヤちゃんとミチルちゃんは、本当に羨ましげに言う。羨望の裏に隠された、嫉妬心が垣間見えたとき、私は、妙な満足感を覚えてしまう。


「今日さあ、朝からイライラしちゃって、弟殴って来ちゃったあ」

「うっわー、かわいそー」

「えへ」

「えへ、じゃねーよ。もっと仲良くしろよな」


 坂本くんは呆れたように笑った。その笑い方もからっとしていて爽やかだ。細くて綺麗な髪がさらり、と頬にかかる。

 殴ってきた、なんて嘘。でも、そう言ったら、坂本くんが喜んでくれる。もっと、仲良くなれる。

 「弟なんだから、優しくしなきゃ」なんて台詞、友達に何回も言われた。最初のうちは、言われるたびに、胸が針で突っつかれるようにちくちく痛んだけれど、最近は「だってムカつくじゃん?」と明るく返せるようになった。罪悪感も麻痺してしまったのか、あまり感じない。良いこととは思っていない。寧ろ、悪いことだってことも分かっている。

 嘘は悪いことだ。でも、嘘を吐いて、皆が喜んでくれるんなら、それでいい。

 それに、優斗に冷たく当たるのは学校だけ。家ではいつもどおり、優しくしてるし。

 弟が大好きなんて、すごく格好悪いことなんだ。「優しくしなきゃ」なんて、どうせみんな、表向きに言っているだけだ。

 私は、二年前、それを知った。

 だから、優斗が嫌いなフリをしている。


*


「今日ねえ、坂本くんに声かけられたんだあ」


 えへへ、と声が漏れる。


「へえ。良かったわねえ」

「うん、良かったの」


 私が坂本くんのことが好きなんだ、ということは、お母さんは知っている。お母さんは私がニコニコ笑っていると「坂本くんと何かあったの?」と聞いてくる。私の喜びの中心はいつも坂本くんだ。だから、その問いは毎回当たっている。

 今、お母さんはナポリタンを作っていた。ケチャップの良い匂いが鼻をくすぐり、お腹にこれから食べるものだよ、と教える。すると、お腹はそれに答えるようにぐー、と鳴った。お母さんは、私のお腹の音を聞いて「お腹が空くのは良いことよ、料理のおいしさが二倍になるからね」とくすくす笑った。

 その後、ふん、と力んだ顔をして、ケチャップを搾り出す。ぐじゅぐじゅ、と変な音がしたけれど、ケチャップはあまり出なかった。お母さんは小さくため息をついて、殆ど残っていないケチャップを少しだけ寂しそうに見れば、それを近くのゴミ箱に捨てる。


「ケチャップが切れちゃったわ。里穂、ちょっと買ってきてくれない?」

「えー」


 私は思わず、不服そうな声が出た。スーパーはそれほど遠いところじゃないけれど、やっぱり面倒くさい。お母さんは私の反応を予想していたのか、


「お釣りでお菓子買ってもいいから」


 と、すかさず言った。


「え。……いいの?」

「食いついたね」

「あ」


 してやったり、という顔をするお母さんを見て、思わず間抜けな声が出た。くそう。だまされた。

 でも、お菓子を買えるという条件付き、というのは悪くない。


「んー。一番安いので良いんだよね?」

「うん。はい、これ」


 お母さんの差し出す五百円を、仕方ないなあ、という顔をしながら、受け取る。

 玄関の一番端に揃えてあったスニーカーに足を入れ、とんとん、とつま先をつけて履き慣らせば、


「里穂が帰ってくる間に、里穂が好きなポテトサラダも作っといてあげるからね」


 お母さんの声が聞こえ、片手を挙げて、ありがとう、という意思表示をした。


「いってきまーす」


 五百円を手に私は自転車を走らせた。五百円だと、少なくとも、お釣りでスナック菓子が一個は買える。それに、家に帰ればナポリタンとポテトサラダが待っている。思わず涎が出そうになって、手の甲で拭った。


「お姉ちゃん」


 家のすぐ近くのドブ川に枝を流して遊んでいた優斗がしゃがんだまま、こちらを見た。色素の薄い白い肌の鼻や頬が冷たさで赤みを帯びている。

 自転車のブレーキをかけると、きゅ、と短い音がして止まった。

 優斗は私のことを“お姉ちゃん”と呼ぶ。優斗はいつも純粋に、私の言うことを聞いてくれる。私が「りぃちゃんじゃなくて、お姉ちゃんって呼んで」と頼んだら、少しだけ戸惑ったものの「お姉ちゃん」と呼ぶようになった。


「何処行くの」

「おつかい」

「僕も行く。自転車とってくるから、ちょっと待ってて」


 あ、ちょっと。と言う前には優斗は駆け出していた。

 まあ、いっか。

 無意識に自転車のベルを鳴らした。ちりん、と軽やかな音がして、すると、後ろから、ちりん、と音が返ってくる。後ろを見ると、優斗がまだ乗り慣れない自転車をふらふらと危なげにこいでいた。


*


 外は凍ったように冷たかったけれど、店内は人の体温の分だけぬるくなっていた。


「お菓子、一個だけだかんね」

「分かってるー」


 優斗はお菓子売り場に向かって、元気に走りだした。主婦が子供を連れて歩く姿が目に留まり、何だか自分が主婦で優斗が子供みたいだ、と連想してしまう。

 とりあえず、ケチャップを買った。ケチャップは二百円もしなかったから、あと三百円で何を買おうか、と考えていると、


「お姉ちゃん、こーれっ」


 優斗は全力疾走で私の籠の中にチョコを投げ入れた。パッケージには私も読めない横文字が並び、見た目だけでも高級そうな雰囲気を漂わせている。

 はあはあ、と肩で息をしながら、優斗は私の腕にしがみついてきた。


「これ、何円だった?」

「三百円」

「うわー。高いな」


 私は思わず顔をしかめる。ケチャップのほうが重くて色々な料理に使えるのに、薄っぺらいチョコレートに負けてしまうのか。勝負しているわけでもないのに、何だかケチャップが可哀想に思えた。


「……駄目?」


 優斗が上目遣いでこちらを見る。大きな黒い目は、少し潤んでいて、ほっぺも薄いピンク色で、しがみついてくる手も温かくて。私は思わずため息を吐きたくなった。

 あーあ。こんなことされちゃったら、駄目って言えないじゃん。


「ううん。良いよ。欲しいんでしょう?」

「やったあ」 


 優斗は思いっきり嬉しそうに笑った。

 自分の分のお菓子は買えないけれど、優斗の笑顔を見ると、不思議な満足感を覚えてしまう。


「あれえ? 里穂ちゃん?」


 聞き慣れた声。私は声さえ上げなかったけれど、心臓をいきなりつかまれたような気がした。

 振り返ると、アヤちゃんが居た。彼女も買い物籠を持っている。


「やっぱり里穂ちゃんだあ。私さあ、お母さんにおつかい頼まれちゃってねえ」


 アヤちゃんは、にこにこと笑顔を浮かべる。

 “里穂ちゃんってやっぱりブラコンなんだあ”。笑顔の裏でそう思われてる気がして、思わず、優斗の手を振りほどいた。


「えと。私、本当は一人で来たかったんだけど、コイツがどうしてもって言うから、仕方なく連れてきちゃったんだ」


 私は自然と口がぱくぱく動いて、言い終わったあと、アヤちゃんがきょとんとした表情で私を見ていたとき、しまった、と思った。顔がどんどん火照ってくる。体中の体温が顔に集中してしまうような心地がした。


「優斗、行くよ」


 私は無意識の内に優斗の手を引き、レジに向かった。アヤちゃんの顔なんて見れなかったし、「お姉ちゃん」と小さく心配気に聞く優斗の声も無視した。


「ねえ、お姉ちゃん」


 レジが終わって、自転車に乗るときも、何回も、何回も、お姉ちゃん、と呼んだ。

 全部無視して、レジ袋を乱暴に自転車籠に入れれば、支えているスタンドを思いっきり蹴る。がしゃん、と大きな音がした。支えの無くした自転車はずっしりと私にのしかかってくる。


「……りぃちゃん」


 私は驚いて咄嗟に優斗の方を見た。一瞬だけ泣きそうになって、すぐ引っ込めた。


「お姉ちゃん、でしょう」


 視線を逸らしてそう言えば、自転車に飛び乗り、ゆっくりこいだ。

 交差点を抜ければ、ブレーキをかけて、振り返る。優斗はもたもたしながらも、横断歩道を抜けた。私は、ほっ、と胸を撫で下ろす。良かった。事故にならなくて。事故に遭う確率なんて、千分の一にも満たないだろう。でも、優斗が横断歩道を通るときには、つい、ブレーキをかけて止まってしまう。優斗が事故にあって、もし気づかずに家に帰っちゃったらいやだから、なんて、杞憂に過ぎない心配が理由なんだけれど。

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