義妹の方がふさわしいそうですので、婚約者は譲りますが、この家の鍵は渡しません
「君の義妹の方が、僕の妻にふさわしいと思うんだ」
そう言ったユベール様の前には、私の名前を記した持参財産の目録が広げられていた。
母から受け継いだ邸宅と、その維持費を賄うための貸店舗。銀器や絵画の一覧には目を通した印が付き、あとは結納の証人である伯母様の前で、取り決めに署名するだけになっている。
私の席の横には、結婚祝いの品を載せた小卓もあった。その一番手前に置かれた鍵を見ながら、私は今聞いた言葉を考えた。
「コレットと、結婚なさりたいということでしょうか」
「そうだ。こんな日に言い出して申し訳ないが、気持ちを偽ったまま君と結婚する方が不誠実だろう」
義妹は継母の隣でうつむいていた。頬を染めたまま、膝の上に重ねた指を握り直している。
少し前から二人で話すことが増えたとは思っていた。私がそばへ行くと話をやめるので、聞いてはいけないことなのだろうと離れるようにしていた。
どうして一度も聞かなかったのか、今になって自分でも分からない。
「あなたも、そうしたいの?」
コレットは私を見てから、ユベール様へ目を移した。彼がうなずくと、ほっとしたように微笑んだ。
「ええ。ごめんなさい、お姉様」
謝るときの声は小さかったけれど、その前の返事はよく聞こえた。
何か答えなくてはと思うのに、声が出てこなかった。ユベール様は私の返事を待ちながら、コレットの方へ一度微笑んだ。
私もあんなふうに笑いかけてもらったことがある。まだ二人で会うのに慣れず、父が席を外すと話題に困っていた頃だった。私だけが緊張していたのではないと嬉しくなった、その気持ちまで今の顔で思い出してしまった。
向かいの父は驚かず、継母も義妹の背を撫でている。先ほどから口数の少ない伯母様だけが、私の顔を見ていた。
私は小卓の鍵を取った。
頭の部分に蔦を彫った、少し重い真鍮の鍵だ。席札も持って立つと、ユベール様が初めて安心した顔になった。
「分かってくれてよかった。君なら、コレットの幸せも考えてくれると思っていたよ」
私は伯母様の隣にある空席へ移った。コレットは継母に促され、私のいた椅子へ座る。裾の広がりを整える仕草までいつもどおりで、私だけが手に持つ物の置き場を決められずにいた。
「では、イレーヌの名を直せばいいな」
父が目録へ手を伸ばしたので、私は鍵から顔を上げた。
「目録の名前は、変えないでください」
父の指が止まる。コレットも私の手元を見た。
その視線でようやく、自分が鍵を握ったまま座ったことに気づいた。
「あの家は、私が使います」
ユベール様の笑顔が消えた。
彼の肘の下から、新居のための注文控えがはみ出していた。つい先ほど、食堂に合わせた大きな卓と食器棚を誇らしげに説明してくださった紙だ。改装の職人の手配も済んでいて、注文主の欄には彼の名前がある。
家具は製作に入ったら全額を支払うという但し書きにも、彼は承諾の印を付けていた。
取消料の額を見て私が心配すると、取り消すことなどないから大丈夫だとおっしゃった。
そのときには、もう私と結婚しないつもりでいらしたのだ。
◇
「お前は、二人の結婚を認めたのではなかったのか」
父に聞かれ、私は膝の上へ鍵を置いた。握りすぎて、掌に蔦の模様が残っている。
「結婚には反対しません。でも、私の家までお渡しするとは言っていません」
「元は両家の縁組のために用意した家だろう。嫁ぐ娘が替わっても、話は同じではないか」
それは違うと思ったけれど、すぐには言葉にならなかった。
あの家を持って嫁ぐならよい縁談がまとまると、父は以前から言っていた。私も結婚したら夫と住むつもりでいたので、何の異議も挟まなかった。
同じ話をしているようで、私たちは違うことを考えていたらしい。
「あの家は、母が私に残したものです」
「知っている。だからお前に頼んでいるんだ」
父の隣で継母もうなずいた。
「コレットに譲ったって、よそへ渡るわけではないのよ。姉妹でしょう。あなたも遊びに行けばいいのだから」
私がそこに暮らすことは、もう誰の話にも出てこなかった。
母が亡くなり、父が再婚したとき、コレットはまだ幼かった。知らない家の寝台では眠れないと泣いた夜、私が使っていた部屋へ連れていくと泣きやんだ。
朝まで手を握っていて、父にも継母にも礼を言われた。妹ができてよかったと思ったのを覚えている。
コレットは翌晩も来た。その次は、自分の人形を持ってきた。
やがて私が別の部屋へ移ることになったが、夜中に起こされなくなって楽でしょうと言われれば、そういう気もした。
私は二十一歳になり、コレットは十九歳になった。
義妹は今でも、私に何かをもらうと嬉しそうに笑う。その顔を見るのが好きだったから、欲しい物を譲ってきたことを、全部嫌だったとは思わない。
ただ、返してと言うと悲しそうな顔をするので、言わなくなってしまった。
「お姉様、あの部屋を一緒に見たでしょう」
コレットは椅子から少し身を乗り出した。
「南向きの、庭が見える部屋。私が好きだと言ったら、似合うっておっしゃったじゃない。壁紙も一緒に選んだわ」
覚えている。
母の家は私が成人するまで伯母様が管理してくださり、その後もしばらく空けてあった。結婚が決まって、手入れの必要な部屋を見て回った日にコレットもついてきたのだ。
南の部屋は窓が低く、長椅子に座ったまま庭を眺められた。コレットはそこに寝転んで、小花模様の壁紙を選んだ。
似合うわねと言ったのは、確かに私だった。
「あの窓辺、居心地がいいものね」
つい普段のように答えると、義妹は顔を明るくした。
私はその続きを、今度こそ言おうと思った。
「母がそこで本を読んでくれたの。私も、あそこで本を読みたいと思っていたのよ」
「だったら、時々いらっしゃればいいわ」
これ以上ないほどよいことを思いついた顔だった。
幼い頃のように一緒に座りたかったのかもしれない。けれど結婚した義妹を訪ね、ユベール様と暮らす家の客として、あの部屋へ通してもらう自分を想像すると、何も言えなくなった。
「イレーヌ、ここで意地を張るものではない」
父の声が少し強くなる。
「気持ちの整理がつかないのは分かるが、二人を困らせても仕方がないだろう」
いつもなら、ここでうなずいていた。後で一人になれば落ち着くし、皆の機嫌も戻ると考えていたからだ。
でも今日は、うなずいた後に自分がどこへ帰るのかを考えた。
今の部屋で、妹の婚礼の支度を聞きながら暮らすのだろう。お姉様も一緒に選んでと呼ばれれば、衣装も花も見に行ってしまう気がした。
そのたびに平気な顔をするのは、もう難しかった。
◇
「私、あの家へ移りたいのです」
言ってから、父が眉を寄せるのを待った。叱られると思うと、それだけで理由を足したくなる。
けれど、ユベール様が先に口を開いた。
「一人で住むには広すぎるだろう。あの家は、僕たちの暮らしにちょうどいいんだ」
「私と住むお話でしたから、そう思っていました」
「だから、そこは事情が変わったんだよ」
彼は困ったように両手を広げた。
以前から人に説明するのがお上手で、私が分からないことを聞いても嫌な顔をなさらなかった。貸店舗の管理や、将来始めたい事業の話を聞いたこともある。
そのときは、頼りになる方だと思っていた。
「君だって、僕たちが路頭に迷うのを望んでいるわけじゃないだろう?」
コレットにはこの家があり、ユベール様もご実家の男爵邸にお住まいだった。どちらも今すぐ行き場を失うわけではないので、私は返事に迷って彼を見た。
ユベール様は答えを待たず、注文控えをこちらへ滑らせた。
「改装の日程も組んである。職人に断れば金がかかるし、家具はもう作り始めている。僕にも引けない事情があるんだ」
卓の脚には家紋を彫り、食器棚は食堂の壁のくぼみに合わせて作るという。そんな大きな家具を頼んだ覚えはなく、私は見本を見せられただけだった。
コレットが選んだという椅子の張り地を褒めたら、ユベール様が嬉しそうになさった。私には色の区別もつかないだろうと、二人で笑っていたことまで思い出した。
「家具は、お二人の新しいお住まいで使えば……」
「あの広さの食堂がどこにでもあると思うのかい」
彼の声が高くなって、私は口を閉じた。
すると伯母様が、ユベール様の前に置かれたままの目録を取り上げた。
「この家と貸店舗は、私の妹からイレーヌへ相続された財産です。その確認は、皆様お済みでしたね」
父がうなずき、ユベール様も渋々同じことをした。
「今日用意したのは、イレーヌが結婚後に持ち込む財産の取り決めです。本人の同意なしに、花嫁の名前だけを替えることはできません」
伯母様は目録を私の前に伏せた。それ以上は何も言わず、ご自分の椅子へ深く座り直した。
紙の端を押さえると、私の名前が少し透けて見えた。
「では、貸してくれればいい」
ユベール様が声を和らげた。
「所有まで求めているわけじゃない。僕たちが住めるなら、それで」
「私が住みたいのです」
「それは分かったよ。だが、少し考えてくれないか。コレットにはあれだけの持参財産がないんだ。この話が変わるなら、結婚だって簡単には進められない」
コレットが彼を見た。
「家がなければ、私とは結婚しないの?」
「そういう言い方をするなよ。暮らしには金が要るんだ」
「さっきは、私とならどこでも幸せになれるって」
父が咳払いをしたけれど、二人ともそちらを見なかった。
コレットの唇が震え始めた。私より愛されていることには少しも疑いがなかったのだと、その顔を見て分かった。
「好きなのは君だ。だから、君からもお姉さんに頼んでくれ」
ユベール様は義妹の手に触れようとした。コレットは手を膝へ引っ込め、継母の方へ顔を向けた。
「私、そんなのは嫌よ。お姉様にお願いしなければ結婚してくださらない方なんて」
継母は義妹を自分の隣へ呼び戻した。私が空けた椅子が、また空席になった。
コレットが泣き出すと、私はいつものように手巾を探しかけた。けれど継母がもう渡していたので、膝に戻した手で鍵を包んだ。
「二人とも、今日のところは落ち着きなさい」
父は椅子を引いて立ち上がりかけた。私もつられて動きそうになったが、まだ終わっていないと思い直した。
「お父様。私との婚約は、解消してください」
ユベール様が口を開き、父の顔を見てやめた。
父は私の前にある目録と、空の椅子を順に見た。しばらくして伯母様へ、結納を取りやめる旨を先方へ伝えてほしいと頼んだ。
ユベール様には、家の側からも改めて返事を出すように告げた。
「イレーヌ、私の書いた手紙に、お前の意思も添えておきましょう。それでよいですね」
伯母様に確かめられ、私はうなずいた。
お茶も菓子もほとんど手つかずだった。朝、継母と相談して選んだ皿の模様を見ていると、もう少しで涙が出そうになった。
目録を折り畳み、席札と一緒に手袋の下へ入れた。
「あの注文を無駄にするつもりか」
椅子を立ったユベール様が、注文控えを丸めた。
「君が家を貸すだけで、丸く収まる話なのに」
私は鍵を握ったまま、伯母様と部屋を出た。
◇
翌週、私は母の家へ移った。
父は早すぎると言ったが、伯母様から家の管理を任されていた夫婦がそのまま住み込んでくれると聞くと、それ以上は反対しなかった。
自分で選んだ敷物を南の部屋へ運び、本を並べると、空いていたときより少し狭く見えた。それでも窓辺の長椅子には、脚を伸ばせるだけの場所があった。
婚約解消への同意書は、その家で受け取った。
コレットとの縁談も進めないと記されていて、ユベール様の家からの手紙はそれきりだった。
その十日後、父に呼ばれた。
新居の注文について最後に話し合いたいという。行きたくはなかったが、私のいない席で決められる方が怖く、手紙を持って実家へ出向いた。
応接室にコレットも継母もおらず、父とユベール様のほかには、家具商の主人が座っていた。
改装の職人には取消料を払い、こちらはもう終わっているという。残っているのは特注の卓と食器棚の代金で、注文を取り消すことはできなかった。
「ほかの客へ売ればいいだろう。値は多少下げても構わない」
ユベール様が言うと、家具商は手元の図面を広げた。
「こちらの食器棚は壁に合わせて左右の幅を変えております。卓も家紋を彫りましたので、お約束どおりお引き取りをお願いしております」
最初に見せられた注文控えと同じ紙だった。
提示された残額は、ユベール様が事業を始めるために用意していると話していた金に近かった。結婚したらその話も進めようと、春には楽しそうにおっしゃっていた。
「これを払えば、商売どころではなくなる」
「ご注文の前に、その点もお確かめいただいております」
家具商が署名の場所を指した。ユベール様はそこを見ず、私へ顔を向けた。
「せめて君が引き取ってくれないか。あの家なら使える。無駄にはならないだろう」
父も、もっともな話だというようにうなずいた。
「お前もいずれは家具が要る。これを引き取って払えば、双方のためになるではないか」
あの食堂には母の使っていた丸い卓がある。新しい大きな卓を入れるなら、それを運び出さなければならなかった。
家の手入れをする場所はまだ多いし、家具にも傷はある。でも今のところ、食事にも暮らしにも困っていない。
「あの家には、今ある物を使います」
「意地になっているんだろう。僕たちを許せないから」
そう聞かれると、許しているとは言えなかった。
婚約を喜んだ日のことを思い出せばまだ悲しいし、コレットの泣き顔も頭に浮かぶ。私に彼を取り戻す気がなくても、すぐに何も感じなくなるわけではなかった。
だからといって、あの家具を買えば悲しくなくなるとも思えなかった。
「買いません」
家具商は図面を畳み、ユベール様の前へ請求書を置いた。
長い沈黙の後、彼は残額を支払う日付を書き入れた。家具は男爵邸の倉へ納めてほしいと頼み、主人はその住所を控えた。
父は最後まで、私を見なかった。
話が済むと、私は手袋をはめた。父に帰る挨拶をしたが、返事はなく、もう一言何か言わなければと思ってしまう。
いつもなら私の方から謝っていた。その代わりに鞄を確かめ、母の家の鍵を取り出した。
来るときも、自分で戸締まりをしてきた鍵だった。
私はそれを手に持って、席を立った。




