冷酷公爵の小さな毒味役
わたしは二度、厨房で死ぬところだった。
一度目は前世。「毒見」の異名で呼ばれた菓子職人だったわたしは、二十八の春、自分の店の厨房で死んだ。妬んだ同業者が、わたしの焼いたばかりのタルトに毒を仕込んだのだ。一番好きな場所で、一番嫌いな死に方をした。舌の上で最後に広がったのは、砂糖の甘さと、金属みたいな毒の苦さ。
二度目は、たった今になりかけている。
「おい毒味役。ぐずぐずするな」
背中を小突かれて、わたし――ネリは、つんのめりそうになった。体が六歳だと、大人の指一本でよろける。ここは辺境の名門、ヴェスグレイ公爵家。その正門前で、わたしは他の子どもたちと一緒に、荷車から降ろされたところだった。
いや、「降ろされた」というより「納品された」が正しい。
「味読の才を持つ子ですよ。孤児院で一番の上物だ」
わたしを連れてきた男が、門番にそう言って羊皮紙を渡す。上物。菓子なら褒め言葉だけど、人間に使う言葉じゃない。この国では、味読――口にしたものから毒も産地も、作り手の想いまで読み取る才能――を持つ子どもは、こうして貴族に売られる。毒味役として。
毒を、代わりに食べて死ぬための、盾として。
(前世で毒に殺されて、来世で毒を食べる仕事に就くとか。神様、悪趣味にもほどがある)
わたしは胸の内で毒づいた。ちなみに毒づくのは得意だ。舌が良く回る。前世からずっと。
門をくぐると、屋敷は寒々しいほど美しかった。磨き抜かれた大理石。塵ひとつない廊下。なのに、どこにも生活の匂いがしない。花瓶に花はなく、暖炉に火はなく、笑い声の残り香もない。まるで、時間そのものが凍りついた家。
案内された先は、大広間だった。
そして、そこにいた男を見た瞬間――わたしの背筋が、ぴんと伸びた。
窓を背に、一人の男が立っていた。銀に近い金の髪。氷を削り出したような、整いすぎて怖いくらいの顔。感情という感情を、根こそぎ抜き取ったみたいな無表情。年の頃は二十九か三十か。それが、この家の主。
「アルヴィス・レン・ヴェスグレイ公爵閣下であらせられる」
執事らしき老人が、わたしたち子どもに向かって言った。声が緊張で少し震えている。ああ、この人が噂の。笑うと国が凍る、と使用人たちが門前で囁いていた、氷の公爵。
公爵は、並んだ子どもたちを一瞥した。値踏みするでも、憐れむでもなく。ただ「そこに物がある」というだけの目で。
「毒味役は一人でいい。残りは下がらせろ」
声まで冷たい。真冬の井戸水みたいだ。
執事が数人を選び、残りを下がらせる。選ばれたのは――わたしを含めて三人。年上の男の子が二人と、わたし。三人は横一列に並ばされ、目の前に銀の盆が運ばれてきた。
盆の上には、白い皿。皿の上には、ひと口ぶんのスープ。
「これを飲め。順に」
公爵の言葉に、隣の男の子が青ざめた。毒味役の“試験”だ。この中に毒が入っているかもしれない。入っていなければ、ただの試験。入っていれば――誰かが倒れる。それで才能の有無を測る。ひどい話だけど、この国ではまかり通っている。
一人目の男の子が、震える手でスプーンを取った。ひと口飲んで、しばらく待つ。何も起きない。二人目も飲む。何も起きない。
そして、わたしの番。
わたしはスプーンを手に取り――ふと、動きを止めた。
匂い、じゃない。もっと奥。前世で何万回と繰り返した、あの感覚。ひと匙を口に含む前から、舌がもう“読んで”いた。
(このスープ……ん?)
ひと口、含む。とたんに、味が洪水みたいに押し寄せてきた。骨から丁寧に取った鶏の出汁。よく育った根菜の甘み。塩は岩塩、産地は東の……いや、それはどうでもいい。問題は、その奥。舌の付け根に、ちりっと引っかかる、かすかな苦み。
毒だ。ごく微量の。おそらく、致死量には遠く及ばない、“試験用”の量。
でも、それ以上に、わたしは別のことに気づいてしまった。
「……これ、作った人、泣きながら作りましたね」
言葉が、口から勝手にこぼれた。
大広間が、しんと静まった。子どもたちも、執事も、ぽかんとわたしを見ている。公爵の眉が、ほんの一ミリ、動いた気がした。
「なんだと」
「だから、このスープ。腕はすごくいいです。宮廷でも通用する。でも作った人、手が震えてました。塩の落とし方にムラがある。それに――」
わたしはもうひと口、味を確かめる。ああ、やっぱり。
「毒を入れたこと、この人、嫌がってます。味に“ためらい”が残ってる。命じられて、仕方なく、ほんのちょっとだけ入れた。致死量にしなかったのは、優しさじゃなくて、良心の呵責です。……作った人を責めないであげてください。悪いのはたぶん、命じた人だ」
沈黙。
長い、長い沈黙。
わたしは(あ、しゃべりすぎた)と我に返った。六歳児が言うことじゃない。毒味役は、黙って毒を食べて死ぬのが仕事だ。余計なことを言えば、生意気だと切り捨てられる。前世の悪い癖――思ったことを舌に乗せてしまう癖――が、また出た。
でも。
公爵は、しばらくわたしを見つめたあと、静かに執事へ言った。
「……厨房長を呼べ。それと、このスープを作った下働きを罰するな。俺の指示だ」
「は……はっ」
「この子を残せ。他の二人は、待遇のいい別室へ。毒味役ではなく、雑用として雇う」
執事が目を丸くした。毒味役として買われた子を、雑用に? それは、つまり――死なせない、ということだ。
わたしは、ぽかんとした。この氷みたいな人が、なんで。
公爵は、もうこちらを見ていなかった。窓の外へ視線を戻し、独り言のように、けれど確かにわたしの耳に届く声で、こう言った。
「作り手の心まで読む舌か。……昔、そういう味を出す人間を、一人だけ知っていた」
その横顔が、一瞬だけ、ひどく寂しそうに見えた。氷が、内側からひび割れるみたいに。
でも、それは本当に一瞬で。次の瞬間には、もとの無表情に戻っていた。
「名前は」
「え?」
「お前の名前だ」
毒味役の名前を訊く貴族なんて、いない。使い捨ての盾に、名前はいらないから。わたしは面食らいながら、答えた。
「……ネリ、です」
「ネリ」
公爵は、その名を一度だけ、確かめるように口の中で転がした。そして、背を向けたまま言った。
「今日からお前は、この家の毒味役だ。だが――ひとつ命じる」
「はい」
「毒で、死ぬな」
それだけ言って、公爵は大広間を出ていった。氷みたいに冷たい声で、氷みたいに冷たい人が、どうしてか、まるで祈るみたいな言葉を残して。
――ふん。
やがて、わたしの口元が、ゆっくりと持ち上がった。
(面白いじゃないの、この家)
前世で毒に殺されたわたしが、来世で毒を食べる仕事に就いた。それは呪いだと思っていた。でも、違うかもしれない。毒を一番よく知っているわたしなら、毒に殺されずにすむ方法だって、一番よく知っている。
そして、この凍った家には――どうやら、溶かしがいのある氷が、一つ。
*
その日の夜、わたしはさっそく問題を起こした。厨房に、無断で突撃したのだ。
「ちょっとあんたたち、この出汁の取り方は何! 灰汁を引きすぎ! 旨味まで捨ててどうすんの!」
厨房の料理人たちが、ぎょっとしてわたしを見た。そりゃそうだ。六歳の毒味役が、腰に手を当てて説教してるんだから。
でも、我慢できなかった。だって、この家の料理は――美味しくないのだ。腕は悪くない。素材もいい。なのに、全部が“怯えて”いる。味が縮こまっている。まるで、料理をすることに罪悪感を持っているみたいに。
「……お嬢ちゃん、あんたねえ」
厨房長らしき大男が、困り顔で近づいてきた。
「気持ちはわかるが、この家じゃ、うまいもんを作っちゃいけねえんだ」
「はい?」
「奥様が――三年前、亡くなった。晩餐の毒でな。それ以来、旦那様は食事を“味わう”のをおやめになった。ただ生きるために口に入れるだけ。だから俺たちも、旨いもんを作らねえ。作ったところで、あの方は味なんか感じちゃいねえ。……いや、感じないようにしてなさるんだ」
わたしは、言葉を失った。さっきの、寂しそうな横顔。「そういう味を出す人間を、一人だけ知っていた」という独り言。全部、繋がった。
この家が凍っているのは、主人が凍っているからだ。そして主人が凍っているのは――大切な人を、食卓で、毒で喪ったから。もう二度と、食べることを楽しめないように、自分の心に鍵をかけたから。
(……そっか)
わたしは、しばらく黙って、それから、厨房長を見上げて言った。
「ねえ、おじさん。小麦粉と、バターと、卵、あと蜂蜜、借りていい?」
「あ? 何をする気だ」
「決まってるでしょ」
わたしは腕まくりをした。六歳の、細い腕を。
「あの氷を、溶かすの」
*
焼き菓子を作るのは、前世ぶりだった。体が小さいから、踏み台がいる。力が弱いから、生地を混ぜるのに倍の時間がかかる。それでも、手は覚えていた。粉をふるう感覚。バターを刷り込む温度。蜂蜜の一滴が、生地に落ちる瞬間の音。
わたしが作ったのは、素朴な蜂蜜のマドレーヌだった。飾りも何もない、貝殻の形をした、ただの焼き菓子。でも、これがいい。これじゃなきゃいけない。だって――味読で、わかってしまったから。
この厨房の食器棚の奥に、古い菓子の型が、一つだけ、大事にしまってあった。誰かがよく使い込んだ、貝殻の型。厨房長に訊いたら、声を落として教えてくれた。「奥様のだ」と。亡くなった夫人が、生前、よく焼いていた菓子の型だと。
平民出身だったという公爵夫人。格式ばった公爵家に、菓子を焼くという庶民の幸せを持ち込んだ人。わたしは、その型で、マドレーヌを焼いた。
焼きたての、まだ湯気の立つそれを皿に乗せて、わたしは公爵の書斎へ向かった。執事に止められ、料理人に止められ、それでも「毒味です」と言い張って。だって嘘じゃない。ちゃんと毒味は済ませてある。毒なんか、あるわけない。あるのは、蜂蜜の甘さと、ほんの少しの、わたしのおせっかいだけ。
書斎の扉を、小さな手でノックする。
「入れ」
冷たい声。わたしは扉を開けた。公爵は書き物机に向かっていて、顔も上げずに言った。
「毒味役が何の用だ」
「お夜食です」
わたしは、机の上に、そっと皿を置いた。貝殻の形をした、焼きたてのマドレーヌ。
公爵の手が、ぴたりと止まった。
ペンを持ったまま、その人は、皿を見つめていた。長い、長い間。無表情の奥で、何かが、激しく揺れているのがわかった。氷の下で、閉じ込められた水が、暴れているみたいに。
「……これは」
声が、かすれていた。
「どこで、この型を」
「厨房の、棚の奥にありました」
わたしは、まっすぐに公爵を見上げて、言った。
「毒味は済ませました。……閣下。これには、毒は入っていません。断言します。わたしの舌が、そう言ってます。だから――安心して、召し上がってください」
公爵は、ゆっくりと、マドレーヌに手を伸ばした。氷の指が、焼きたての菓子に触れて、その温かさに、わずかに震えた。
そして、ひと口。
三年ぶりに、この人はきっと、“味わう”ために食べた。
その瞬間、わたしは見た。氷の公爵の、鋼のような無表情の――目尻に、透明なものが、ひとしずく、盛り上がるのを。
「……甘い」
絞り出すような、声だった。
「甘い、な。……ばかみたいに、甘い」
それは、たぶん、三年間ずっと言えなかった言葉だった。溢れて、こぼれて、止まらなくなる前に、この人は片手で顔を覆った。わたしは、何も言わなかった。ただ、静かに、その隣に立っていた。六歳の体で、二十八年ぶんの人生を抱えたまま。
(大丈夫。ゆっくりでいいよ)
*
その夜、わたしは自分にあてがわれた小さな部屋のベッドで、天井を見上げていた。
毒味役の部屋にしては、良すぎる。暖炉に火が入っていて、毛布は清潔で、枕元には水差しまで置いてある。使い捨ての盾に、こんな待遇はありえない。きっと、あの人が指示したんだろう。「毒で、死ぬな」と言った、あの人が。
わたしは、ふふ、と笑った。
(前途多難だけどね)
この家には、まだたくさんの氷が残っている。凍った使用人たち。凍った食卓。そして、公爵の心の一番奥、まだ溶けていない、一番硬い氷――夫人を殺した犯人が、まだ、捕まっていないという事実。
実はさっき、あのスープを味読したとき、わたしはもう一つ、気づいてしまったことがあった。言わなかったけれど。
試験のスープに仕込まれていた、あのごく微量の毒。あの独特の、舌の付け根に糸を引くような苦み。あれには、覚えがあった。この体の、味読の才が、警鐘を鳴らしていた。
あれは――たぶん、三年前、公爵夫人を殺した毒と、同じ“作り手”の味がした。
つまり、夫人を殺した毒物商は、まだ、この国のどこかにいる。それどころか、こうして今も、公爵家の厨房に、毒を流し込める距離にいる。
(……冗談じゃない)
前世のわたしは、毒に殺された。何もできずに、自分の一番好きな厨房で、無念のまま死んだ。でも、今のわたしは違う。毒を、誰よりも知っている。味で、追える。作り手の“想い”まで、読める。
だったら。もう二度と――わたしの目の前で、誰かの大切な食卓を、毒なんかに奪わせてやるものか。あの人が、また笑って、甘いものを食べられるように。この凍った家に、もう一度、湯気の立つ食卓が戻るように。
「見てなさいよ。この家の氷、ぜんぶ溶かして――」
言いかけて、大きなあくびが出た。六歳の体は、すぐに眠くなる。
「……溶かして、やるん、だから……」
まぶたが落ちる。その直前、わたしはふと、枕元の水差しの横に、見覚えのないものがあることに気づいた。
白い、貝殻の形をした――マドレーヌが、一つ。
わたしが焼いた、あのお菓子。公爵が、一つだけ食べずに残して、わざわざここへ届けさせたのだ。「毒味役に」ではなく、たぶん、「ネリに」。
その皿の下に、小さな紙切れが挟まっていた。氷みたいに端正な、けれど少しだけ震えた字で、こう書いてあった。
『美味かった。――また、焼いてくれ』
わたしは、その紙を、ぎゅっと胸に抱いた。
なんだ。もう、溶け始めてるじゃないの。
(……おやすみなさい、閣下)
その夜、この凍った家の片隅で、六歳の毒味役は、二十八年ぶりに、心から幸せな気持ちで眠りについた。これが、わたしの二度目の人生の――本当の、はじまりだった。
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