私と公爵様の甘々な日常
公爵様と結婚した翌朝、私たちの朝食の卓に、何十年も使い込まれたようなティーカップが二客置かれていた。
白い陶器に、淡い金色の蔦模様。
片方の縁には小さな欠けがあり、二つとも取っ手に細かな傷がいくつもついている。
けれど、不思議とみすぼらしくは見えなかった。
むしろ、誰かに大切にされながら日々を重ねてきたような、温かな佇まいのカップだった。
「こちらを用意したのは、あなたですか?」
向かいの席に座るエメリック・フォン・グランシェール公爵が、私に尋ねた。
昨日から、私の夫になった人である。
黒に近い灰色の髪は、朝から一筋の乱れもない。濃紺の上着のボタンも、一番上まできちんと留められている。
結婚初夜の翌朝だというのに、隙というものがまったくなかった。
もっとも、私たちは昨夜、それぞれ別の寝室で眠った。
結婚前に顔を合わせたのは三度だけ。
初日から無理に夫婦らしく振る舞う必要はないと、エメリック様が申し出てくれたのだ。
「いいえ。私はてっきり、エメリック様がご用意されたものかと」
「私も知りません」
エメリック様が給仕長を見る。
給仕長も、食卓を整えた侍女も、揃って首を横へ振った。
今朝、銀の覆いを取ったときには、既に二客のカップが置かれていたらしい。
「警備上、見過ごせませんね」
エメリック様は真剣な顔で言い、手袋をはめようとした。
「少々お待ちください」
「どうしました?」
「持ち主を示す印がないか、底を確かめてもよろしいでしょうか」
私は布越しにカップを持ち上げた。
底には、小さな文字が刻まれていた。
【Rosalie & Emeric】
その下には、私たちが結婚した日から、ちょうど五十年後の日付。
「私たちの名前ですね」
「そうですね」
「結婚五十周年の記念品でしょうか」
「昨日結婚したばかりですが」
「存じております」
そこまで話したところで、二人同時に黙った。
昨日結婚したばかりの私たちのもとへ、五十年間使われたらしいカップが届いた。
あまりにも筋が通らない。
けれど私は、なぜだかそのカップから目を離せなかった。
私は生まれたときから、この人生が二度目なのだと知っていた。
一度目の名前も、暮らしていた場所も、今ではほとんど思い出せない。
覚えているのは、一人分の食器が置かれた静かな卓と、いつか誰かと「おはよう」を言い合う暮らしができたらいいと願っていたことだけ。
だから、同じ年月を過ごした二客のカップが、私には宝石よりも美しく見えた。
「毒物の検査をさせます」
エメリック様の現実的な一言で、私の感傷はきれいに途切れた。
「そうしてくださいませ」
「残念そうですね」
「そんな顔をしていましたか?」
「ほんの少し」
夫になってまだ一日だというのに、思ったよりよく見られているらしい。
検査の結果、カップから毒も、害を及ぼす魔法も見つからなかった。
ただし、現在の魔術では再現できない、強い時間魔法の痕跡が残っているという。
「では、これは五十年後の私たちが使っていた物なのでしょうか」
「その可能性はあります。まだ断定はできませんが」
エメリック様はしばらく考えた末、給仕長へ新しい茶を用意するよう命じた。
「お使いになるのですか?」
「私たちの名が刻まれた物を、いつまでも他人に調べさせておくのも落ち着きません」
随分と公爵らしい理由である。
二客のカップに紅茶が注がれた。
私は縁の欠けた方へ手を伸ばした。
けれど、エメリック様の手がわずかに早く、そのカップを取り上げる。
「そちらでよろしいのですか?」
「あなたの唇を傷つけるわけにはいきませんから」
澄ました顔で言われ、私は思わず固まった。
この方は、妻へ何を言っているのか分かっているのだろうか。
おそらく、分かっていない。
エメリック様は紅茶を一口飲むと、今度は取っ手をじっと見つめた。
「この傷は、私がつけたのでしょうか」
「未来のエメリック様は少しそそっかしいのかもしれませんね」
「それは考えにくいです」
「五十年あれば、一度くらいはカップを落とすこともあります」
「一度落としたなら、買い替えるべきです」
「けれど、未来の私たちは買い替えなかったようです」
私がそう言うと、エメリック様は傷のついたカップを見下ろした。
「では、捨てたくない理由があったのでしょうね」
低い声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
その朝、私たちは結婚してから初めて、向かい合ってゆっくりと紅茶を飲んだ。
会話は途切れがちだったし、互いに何を話せばよいのかも分かっていなかった。
それでも、一人で食事をするより、ずっと短い朝に感じられた。
◇◆◇
二日目の朝には、一冊の料理帳が届いた。
表紙は柔らかく擦れ、何度も開かれた頁には、二種類の筆跡でたくさんの書き込みが残されている。
【エメリックは疲れると甘い物を欲しがる。若い頃は、三つ目まで食べても甘党だと認めなかった】
私がその一文を読み上げると、エメリック様は眉を寄せた。
「事実ではありません」
「未来の私たちが書いておりますけれど」
「未来のあなたが誤解している可能性があります」
「もう一つの筆跡は、エメリック様のものでは?」
「未来の私は、妻の誤解を訂正しなかったのでしょう」
「では、試してみましょうか」
私は料理長に頼み、小さな蜂蜜菓子を作ってもらった。
その日の夕方、執務室から戻ってきたエメリック様の前へ、何も言わずに一皿置く。
「これは?」
「お茶請けです」
「夕食前ですが」
「召し上がらないのでしたら、私がいただきます」
私が手を伸ばすと、エメリック様は一拍遅れて皿を自分の側へ引いた。
「毒見が必要です」
「今朝から厨房に置いてありましたよ」
「念のためです」
一つ食べた。
それから書類へ目を落としたまま、二つ目も口に入れた。
三つ目へ指を伸ばしたところで、私の視線に気づいたらしい。
ぴたりと手が止まる。
「これは、疲労時の栄養補給です」
「本当に、三つ目まで召し上がりましたね」
「偶然です」
「五十年後にも同じ言い訳をなさるのでしょうか」
「その頃には、もう少し説得力のある理由を考えておきます」
結局、蜂蜜菓子は一つも残らなかった。
「甘かったでしょう?」
「疲労回復に適した味でした」
「美味しかったかを尋ねたのですが」
「……美味しかったです」
随分と小さな声だった。
「では、またお作りします」
私が言うと、エメリック様の手が止まった。
「私のために?」
「来客用になさりたいのでしたら、それでも構いませんけれど」
「いえ。私のためにお願いします」
今度は、はっきりとした声だった。
翌日から、執務室の机には小さな菓子箱が常備されるようになった。
本人は「来客用です」と説明している。
来客が一人もいない日にも、中身だけは減っていた。
◇◆◇
三日目に届いたのは、柔らかな毛糸の膝掛けだった。
淡い青と薄桃色の糸が、少し不揃いな編み目を作りながら、交互に編み込まれている。
端には、小さな布札が縫いつけられていた。
【読書をするときの膝掛け。エメリックは自分の分を用意しても、最後には必ずこちらへ入ってくる。若い頃の私たちは、肩が触れただけで一時間も緊張していた。かわいい】
「この記述には異議があります」
エメリック様は未来から届いた品を見るたび、まず異議を申し立てるようになった。
「どの部分でしょう」
「すべてです」
「未来のご自分へお伝えください」
「一人用の膝掛けに、大人二人で入るのは合理的ではありません」
「だからこそ、狭くて温かいのではありませんか」
「狭いことを長所として扱うのですか?」
「未来のエメリック様は、気に入っていらしたようですよ」
その夜、私たちは居間で同じ本を読むことになった。
別々の長椅子に座るつもりだったのだが、暖炉の前に用意されていたのは一つだけ。
どうやら侍女たちは、未来の布札を読んだらしい。
仕事が早い。
「別の椅子を運ばせましょう」
「せっかくですから、未来の記録が正しいか確かめませんか?」
「あなたは検証がお好きですね」
「エメリック様ほどではありません」
長椅子の端と端へ腰掛け、膝掛けを二人で使った。
思ったとおり狭い。
私たちの肩は触れそうで触れず、そのわずかな隙間ばかりが気になった。
私は本を読んでいるふりをしながら、同じ行を三度眺めた。
隣のエメリック様は、頁を一度もめくっていない。
「エメリック様」
「はい」
「お読みになっていますか?」
「もちろんです」
「今の頁には、何が書かれていました?」
「……主人公が旅立ちました」
「十頁前に戻っております」
エメリック様が静かに本を閉じた。
「集中できません」
「膝掛けが狭いからですか?」
「あなたが近いからです」
あまりにも率直に言われ、今度は私が黙る番だった。
「不快という意味ではありません」
エメリック様がすぐに付け足す。
「分かっております」
「本当に?」
「不快な相手のために、背中へクッションを置いたりなさらないでしょう?」
いつの間にか、私の背中と長椅子の間には小さなクッションが挟まれていた。
エメリック様は目を逸らした。
「姿勢がつらそうでしたので」
「ありがとうございます」
しばらくして、私は膝掛けの中央を少しだけ引いた。
空いていた隙間がなくなり、彼の腕と私の肩が触れる。
エメリック様の身体が、わずかに固くなった。
「こちらの方が温かいです」
「……そうですね」
それから一時間ほど、私たちはほとんど話さずに本を読んだ。
読んだ内容は半分も頭に入っていなかったけれど、とても満ち足りた時間だった。
本を閉じたあと、エメリック様が布札を見つめる。
「未来の私たちは、随分と余計なことを書くようですね」
「かわいい、とまで書かれております」
「その部分は忘れてください」
「五十年後まで覚えておかないと、ここへ書けませんよ」
エメリック様はしばらく考えた。
「では、未来のあなたへ抗議します」
真顔で五十年後の妻へ抗議しようとする夫が面白くて、私は声を上げて笑った。
エメリック様は驚いたように私を見る。
「どうしました?」
「いえ」
そう答えた彼は、なぜか少し嬉しそうだった。
そのあと紅茶に砂糖を二匙も入れたので、やはり疲れていると甘い物が欲しくなるらしい。
◇◆◇
四日目には、小さな手帳が届いた。
表紙には【二人でしたいこと】と書かれている。
中には、特別でも何でもない願いが並んでいた。
【春になったら庭へ花を植える】
【雨の日には一冊の本を交代で読む】
【眠れない夜は、相手が眠るまで隣にいる】
【年に一度は、知らない町へ出かける】
【朝食を一緒に取れない日は、必ず理由を伝える】
【最後の苺は半分ずつ食べる】
ほとんどの項目に、何度も印がつけられていた。
大きな屋敷も、立派な舞踏会も、高価な宝石も書かれていない。
それが私は嬉しかった。
一度目の人生で欲しかったのも、きっとこういうことだった。
誰かと同じ季節を待ち、同じ本を読み、一つしかない苺を分ける。
それだけで、きっと十分だった。
「最初に、どれを試しますか?」
私が尋ねると、エメリック様は真剣に手帳を読み始めた。
「実行に必要な日数と準備を確認します」
「遊びの予定にも計画表が必要なのですか?」
「失敗したくありませんから」
「失敗してもよろしいのでは?」
「あなたとの思い出になることです。できる限り良いものにしたい」
その言葉は嬉しかった。
けれど、その日から三日間、エメリック様は少しおかしくなった。
春に植える花を決めるため、王都中の園芸書を取り寄せる。
雨の日に読む本を選ぶため、書庫の目録を三冊作らせる。
知らない町へ出かけるため、治安、宿、景観、食事、移動時間を一覧表にする。
最後の苺を美しく半分に切るため、厨房へ同じ大きさの苺を用意させる。
「エメリック様」
「はい」
「私たちは、国家事業を始めるのでしょうか」
「休日の計画です」
「計画書が六十頁ございます」
「まだ概要です」
甘い日常を作るために、夫が疲れ果てている。
これは何かが違う。
私は手帳を閉じ、エメリック様が持っていたペンを取り上げた。
「今日は予定を立てるのをやめましょう」
「しかし、未来の私たちはこれらをすべて実行しています」
「未来の私たちは、六十頁の計画書を作ったのでしょうか」
「記録にはありません」
「では、作っていないと思います」
「根拠は?」
「五十年後の私なら、こんなに分厚いものを保管しておく場所に困るからです」
エメリック様は納得していない顔をしている。
私は机の上にあった苺を一つ取り、果物用の小さなナイフを入れた。
見事に斜めになった。
片方がかなり大きい。
「失敗しました」
「切り直せませんね」
「大きい方を差し上げます」
「平等ではありません」
「では、半分ずつかじりましょうか」
言ったあとで、少し大胆すぎたかもしれないと思った。
ところがエメリック様は、苺の両端を見比べてから、ごく真面目に頷いた。
「それが最も公平です」
私が片側を一口かじる。
エメリック様も、反対側から一口食べた。
残った苺はほんの少しで、もう一度分けるほどでもない。
「残りはどうしましょう」
「あなたがどうぞ」
「公平ではないのでしょう?」
「今の一口で、十分に満足しました」
平然とそんなことを言う。
私は苺より先に、顔が赤くなってしまった。
誤魔化すように、残った苺を口へ入れる。
「ロザリー」
「はい」
「もう一つ、同じように切り損ねていただけますか」
「わざとでしたら、失敗とは呼べませんよ」
「では、今度は成功ということにしましょう」
エメリック様は何でもないことのように、新しい苺を一つ選んだ。
けれど、耳だけが少し赤い。
甘い物を欲しがっているのか、それとも別の理由なのか。
今はまだ、尋ねないでおくことにした。
「未来と同じ一日を作らなくてもいいのです」
私は苺を切りながら言った。
「同じ品物を受け取っても、今日の私たちが何をするかは、今日の私たちが決めましょう」
「未来が変わるかもしれません」
「変わったら、別の甘い日常を作ればいいのではありませんか?」
エメリック様はしばらく黙っていた。
やがて六十頁の計画書を閉じる。
「では、明日は何をしますか?」
「明日のことは、明日考えます」
「落ち着きません」
「慣れてくださいませ」
「難しい要求ですね」
そう言いながら、エメリック様は少し笑った。
整いすぎていた表情が崩れると、思っていたよりずっと若く見える。
私はその顔を、未来の記録ではなく、今日の自分の記憶に残したいと思った。
◇◆◇
その間、五日目の朝にも、六日目の朝にも、未来からの贈り物は届かなかった。
そして七日目の朝。
食卓には、やはり何も置かれていなかった。
「今日もありませんね」
私は空いた場所を見つめた。
寂しくないと言えば、嘘になる。
毎朝何が届くのか、楽しみになっていた。
品物を通して、五十年後の私たちに会えるような気がしていたのだ。
「未来が変わってしまったのでしょうか」
思わずこぼすと、エメリック様は紅茶を置いた。
「変わってもよいとおっしゃったのは、あなたです」
「そうなのですが、実際になくなると少し心細くて」
「私もです」
エメリック様があっさり認めた。
「エメリック様も?」
「毎朝、あなたと品物について話す時間が気に入っていました」
「品物がなくても、お話ししてくださればよいのですよ」
「何を話せばよいのか、まだ考えている途中です」
「考えてから話していらしたのですか?」
「昨夜も、朝食で使えそうな話題を十二個用意しました」
「十二個も」
「一つ目は、東の果樹園の収穫量についてです」
「それは朝から伺いたくありませんね」
「私もそう思い、候補から外しました」
私は笑った。
エメリック様も、ほんのわずかに口元を緩める。
「それで、十二個のうち何を選ばれたのですか?」
「すべてやめました」
「まあ」
「代わりに、あなたへ見せたい物があります」
エメリック様は未来から届いたカップを一客手に取り、私を屋敷の南側にある小さな工房へ案内した。
作業台の上に、真新しいティーカップが二客並んでいる。
白い陶器に、淡い金色の蔦模様。
未来から届いた物と、まったく同じ形だった。
ただし、傷も欠けもない。
底には、未来から届いたカップと同じように、私たちの名前と、結婚からちょうど五十年後の日付が刻まれていた。
「職人へ、未来のカップと同じ物を作らせました」
エメリック様が真新しい一客を手に取る。
「未来から贈られるのを待つだけでは、私たちの日常が始まらないと思いまして」
「こちらは、まだ何の思い出もありませんね」
「これから作ればよいでしょう」
「傷がついてしまうかもしれません」
「あなたは、五十年あれば一度くらい落とすと言ったでしょう」
「エメリック様が落とすのでは?」
「その点は譲れません」
「では、私が落としたことにしておきます」
私はもう一客を持ち上げた。
まだ軽く、手になじまない。
未来から届いた物とは違う。
だからこそ、これから私たちの物になるのだ。
作業台の端には、湯気の立つポットと二人分の茶菓子まで用意されていた。
どうやらエメリック様は、見せるだけで終えるつもりではなかったらしい。
「未来の証拠がなくても、明日の朝も私と食事をしてくださいますか?」
エメリック様が尋ねた。
「もちろんです。私は公爵夫人ですもの」
「義務ではなく」
今日の彼は、引き下がらなかった。
私はカップを両手で包み、少し考える。
「では、エメリック様と朝を過ごしたいから、とお答えします」
「明後日も?」
「明後日も」
「その次の日も?」
「毎朝確認なさるおつもりですか?」
「しばらくは」
真面目な顔なので、冗談かどうか分からない。
けれど、きっと半分は本気なのだろう。
「それなら、そのたびにお答えします」
私が言うと、エメリック様は安心したように息を吐いた。
「私の人生が二度目だと申し上げたら、驚かれますか?」
なぜその話をしたくなったのか、自分でもよく分からなかった。
ただ、新しいカップを一緒に古くしていく人には、知っていてもらいたかった。
「一度目のことは、ほとんど覚えておりません。ただ、誰かと同じ食卓を囲む暮らしに憧れていたことだけは覚えています」
エメリック様は、驚いているようには見えなかった。
考えるときの癖で、カップの取っ手を親指でなぞっている。
「一度目のあなたも、蜂蜜菓子がお好きでしたか?」
「そこを尋ねるのですか?」
「重要なことです。二度分のお好みを把握しなければなりませんから」
あまりにも彼らしい返事だった。
私は肩の力を抜いた。
「覚えておりません」
「では、これから調べましょう」
「何をですか?」
「あなたが好きな菓子も、本も、花も、朝の過ごし方も。五十年では足りないかもしれませんね」
「エメリック様は、また計画書を作るおつもりでしょう」
「反省しました。五頁までにします」
「一頁にしてください」
「交渉の余地は?」
「ございません」
「厳しい妻ですね」
「そんな妻との五十年が、未来のエメリック様にはお気に召したようです」
エメリック様は、未来から届いた古いカップと、私が持つ新しいカップを見比べた。
「未来の私に負けたくありません」
「ご自分なのに?」
「あちらは、あなたを五十年分知っています」
彼は、古びたカップへ視線を落とした。
「あなたが何を好み、どんなときに笑い、眠れない夜には何をしてほしいのか。五十年後の私は、そのすべてを知っているのでしょう」
「エメリック様」
「そのうえ、あなたを五十年分好きでいる。結婚して七日目の私では、まだ敵いそうにありません」
あまりにも真剣な顔で言うものだから、私は笑うこともできなかった。
胸の奥が、蜂蜜を落とした紅茶のように、じんわりと甘くなる。
「ですが、今日のエメリック様を好きになったのは、五十年後の私ではありません」
彼が顔を上げる。
「今、ここにいる私です」
「それでは、今日の分だけは、私のものだと思っても?」
「ええ」
「明日の分も予約できますか?」
「明日の朝、きちんとお尋ねください」
「五十年分を、一度に予約することは?」
「欲張りですね」
「未来の私が持っているものは、すべて欲しいので」
エメリック様が、私の手を取った。
指先へ触れた唇は、驚くほど慎重だった。
たったそれだけなのに、持っていたカップを落としそうになる。
私は慌ててカップを作業台へ戻した。
「こちらのカップは、私が落とすことになりそうです」
「構いません」
「先ほどまで、どちらが落とすかで争っていたでしょう?」
「今、捨てたくない理由ができましたから」
私はとうとう耐えきれず、俯いた。
「それから、二人きりのときだけでも、様をつけずに呼んでいただけますか」
「何とお呼びすれば?」
「エメリックでは長いでしょう。エメと」
「では、私もローズとお呼びしてよろしいですか?」
「お好きにどうぞ」
「ローズ」
呼ばれただけなのに、先ほど口づけられた指先まで熱くなる。
エメリック様はポットを取り、私のカップに静かに紅茶を注いだ。
私は平気な顔を作り、カップに口をつけた。
「どうしました、ローズ」
「何でもありません、エメ」
彼は目に見えて嬉しそうな顔をした。
「もう一度、お願いできますか?」
「明日の朝にいたします」
「では、必ず来てください」
「毎朝来ます」
「義務ではなく?」
「エメと一緒に過ごしたいからです」
今度は彼が黙る番だった。
どうやら、未来のエメリックにも見せてやりたい顔が、早くも一つ増えたらしい。
未来から品物が届かなくても、私たちには話すことがいくらでもあった。
◇◆◇
私たちが結婚した日から、ちょうど五十年後。
私とエメリックは、古びた二客のティーカップを前に座っていた。
片方の縁には、予想どおり小さな欠けがある。
結婚十三年目に、私が落としてしまったのだ。
エメリックはすぐに新しい物を用意しようとしたけれど、私は欠けた部分だけを滑らかに整えてもらい、そのまま大切に使い続けたいと言った。
取っ手の細かな傷は、結婚二十七年目に彼がつけた。
だから最初の予想どおり、カップを傷つけたのは二人ともだった。
「本当に送るのですか、ローズ」
「ええ。若い私たちは、きっと困りながら喜びます」
私たちの前には、グランシェール家に古くから伝わる、背の高い大時計がある。
結婚してから何年も経った頃、書庫の奥で見つけた古文書によって、その力を知った時計だ。
五十年に一度、四日間だけ針に時間魔法が宿り、一晩にひと品、五十年前の翌朝、私たちの朝食の卓へ送ることができる。
今夜はカップを。
明日は料理帳、その次の夜には膝掛けを。
最後に、二人でしたいことを書いた手帳を送る予定だった。
「料理帳に、甘党のことを書いたのはローズでしょう」
「事実でしたから」
「三つ目のことまで書く必要はなかったと思います」
「若いエメリックは、随分恥ずかしがっていましたよ」
「覚えています。未来の自分を無礼な老人だと思いました」
「今は?」
「正しい評価だったと思っています」
「まあ」
エメリックが私の手を取る。
五十年を過ごした手は、若い頃とは違っている。
それでも、触れられたときの安心だけは変わらなかった。
「四つ目を送り終えれば、若い私たちのもとには、もう何も届きませんね」
「ええ。あの朝は、少し寂しかったです」
「今も?」
「いいえ」
私は窓の外を見る。
若い頃に二人で植えた花が、今年も庭いっぱいに咲いている。
雨の日に読んだ本も、旅先で買った置物も、半分ずつ食べた苺の味も、思い出となってこの家に残っていた。
私たちは大時計の引き出しの底に柔らかな布を敷き、二客のカップをそっと収めた。
席へ戻ると、私は向かいに座るエメリックへ尋ねた。
「明日の朝も、エメが向かいに座ってくださるでしょう?」
「もちろんです。ただ、一つお願いがあります」
「何でしょう」
「明日からは、向かいではなく隣へ座っても?」
私は思わず笑った。
「五十年も経ってからですか?」
「五十年経っても、あなたとの距離には欲が出ます」
「では、明日からと言わず、今からどうぞ」
エメリックは自分の椅子を、私のすぐ隣へ引き寄せた。
肩が触れる。
あの膝掛けを初めて使った夜には、それだけで一時間も緊張していた。
「近すぎませんか?」
「五十年そばにいても、まだ足りない気がします」
「欲張りですね、エメ」
「あなたのことに関しては、ずっとそうです」
大時計の針が重なり、引き出しの隙間から淡い光がこぼれた。
二客のカップが、五十年前の私たちのもとへ旅立っていく。
未来から届いた幸福を、私たちはただなぞったのではない。
失敗して、笑って、予定を変えながら、一日ずつ二人で作った。
そして五十年経った今も、私たちは明日の朝を一緒に過ごす約束をしている。
「おやすみなさい、ローズ。また明日の朝に」
「ええ。おやすみなさい、エメ」
私と公爵様の日常は、どうしようもなく甘い。
今日も、明日も。
たまには、ざまぁのない甘々もいいですよね。




