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物語集

世界で一番苦くて甘い香りを振りまいている貴方へ

作者: 辻堂安古市
掲載日:2026/02/26





 ◇1◇


 三月の雨は、まだ冬が残っているような冷たさを感じる。

 それは、私の今の心の温度を写し取っているのかもしれない。


 大学の卒業式を目前に控えた私は、社会生活への希望よりも「自分が本当にこれで良かったのか」という不安の方が勝っていた。内定先の研修は厳しく、慣れないヒールで歩く街は、確かに見知ったはずの場所なのに、どこか異世界のように感じてしまう。


 降りしきる雨から逃げ込むように入ったのは、アーケードから外れた路地裏にある喫茶店。真鍮の小さな看板には、『Bitter & Bloom』という文字が刻まれている。アンティークな木製の扉を開けると、「カランコロン」と乾いた鐘の音が鳴った。


「いらっしゃい、咲楽(さくら)さん。おや、濡れてしまいましたね」


 カウンターの奥から穏やかな声を響かせたのは、店主の蓮見さんだ。

 私より十歳上で、いつも糊のきいた白いシャツに、深い紺色のエプロンを身に着けている。眼鏡の奥にある少し垂れた目が印象的な彼が、タオルを差し出しながら優しく微笑む。


「ひどい雨ですね。風邪を引かないうちに、温かいものでも淹れましょうか?『いつもの』でいいですか?」


 私は「はい。ありがとうございます」と笑顔を返し、いつものカウンターの隅に座った。

 右側をむけばお店の中を見渡せるこの席は、私のお気に入りの場所だ。


 蓮見さんが丁寧に豆を挽く音が、店内に心地よく響く。そして店内を満たすのは、コーヒー豆が持つ本来の苦味と、その奥に潜むかすかな甘やかな香り。それは、この店の空気そのものだった。



 初めてここへ来たとき、その名前の由来を店主の蓮見さんに尋ねたことがあった。彼は丁寧に豆を挽きながら、「コーヒー豆は深く煎るほど苦味(Bitter)を増しますが、新鮮な豆にお湯を注ぐと、花が開くようにぷくっと膨らむんです。それを私たちは『咲く(Bloom)』と呼ぶんですよ」と教えてくれた。


「苦さ」と「咲く」。その言葉が、その時の自分の境遇にひどく刺さったのを覚えている。「学割」が効くこの喫茶店は、それ以来自分の気持ちを落ち着かせたいときに、ずいぶんとお世話になった。


「はい、お疲れ様。今日は少し深煎りにしておきましたよ、咲楽さん」


 差し出されたブレンドは、冷え切った指先から心臓まで熱を届けてくれる。と同時に、研修中にミスをして仲間に迷惑をかけてしまったことや、自分が本当に社会でやっていけるのかという思いが焦りとなって、胸からこみあげてくる。


「……蓮見さん。私、明日もまた研修なんですけど……なんだか、うまくやれる自信がなくて」


 本当は、二十二歳にもなって泣き言を言うのは格好悪いと思っていたけれど、ついポツリとこぼした言葉に、蓮見さんは棚を拭いていた手を止め、私をじっと見つめた。こんな時、彼は説教をするわけでもなく、安易な励ましを投げたりしない。いつもゆっくりと「そうですねぇ……」と呟いて、コーヒーやちょっとした「おまけ」を、そっと出してくれる。それが私にとっては心地よい間であり、自分を見つめ直すきっかけになっていた。



 今日も蓮見さんは少しだけ考え、それから「そうだ」と何かを思い出したようにキッチンの一角から何かを取り出してきた。


「これ、新作の試作品なんです。まだメニューには載せていないんですが、感想をもらえませんか?」


 目の前に置かれたのは、小さなガラスの器に盛られたデザートだった。

 コーヒーゼリーの上に、淡いピンク色のムースが重なっている。


「桜のムースと、エチオピアの豆を使ったゼリーです。三月ですから、咲楽さんの名前にちなんで、少しだけ春を先取りしたくて」


 スプーンを差し入れると、ぷるんとしたゼリーの弾力と、ふわっとしたムースの感触が手に伝わってくる。一口食べると、まず鮮やかなコーヒーの苦味が舌の上を走った。けれど、その直後に桜の塩気と、驚くほど繊細な甘みが追いかけてきた。


「どうです?甘すぎませんでしたか?」


「……おいしい。すごく優しい味がします」


 そう答えると、蓮見さんは「それはよかった」と言って、子供をあやすような手つきで私の頭をぽん、と触れた。


「力は抜けましたか?頑張っている人には、これくらいの甘さが必要でしょう。君は少し、自分に厳しすぎるところがありますから」


 彼の大きな掌が頭に触れた瞬間、胸の奥がトクン、と不規則に跳ねた。


(今の、何だろう……?)


 彼に褒められたから嬉しいのか、それとも、この温もりに安堵したからなのか。彼にとって、私は「よく来る近所の大学生」に過ぎない。十歳の年の差は、彼にとっては「子供」を慈しむようなものなのかもしれない。彼の手はすぐに離れてしまったけれど、撫でられた場所だけが、いつまでも熱を持って残っていた。


「……これ、名前は決まったんですか?」


 動悸を悟られないよう、私は努めて冷静に尋ねた。

 蓮見さんは少しだけ首を傾け、窓の外を流れる雨を見つめる。


「そうですね。『雨宿りのご褒美』……なんて、少し気取りすぎかな」


 彼はそう言って照れくさそうに笑った。

 その笑顔を見た途端、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。降り続く雨の音に混じって、自分の心臓の音が少しだけ大きく聞こえた気がしたのを誤魔化すように、私はちょっと悪戯っ子ぽく声をかけた。



「今度から、新作は私が試食してあげてもいいですよ?」


「……そんなこと言って、本当はスイーツをタダで食べたいだけなんでしょう?」


「あちゃ、バレたか。でも、本当においしいもん。他の人より先に食べたいなー?」


「……考えておきましょう」



 私の精一杯可愛くした「おねだり」に、蓮見さんは少し困った顔をまぜた笑い顔を浮かべた。




 そんな彼を見ながら、私は残りのゼリーを口に運ぶ。

 桜の香りとコーヒーの苦味が、私の心を包んで温める。

 冷たい雨が降っているその夜、私はまだ、自分の心の形を知らないままでいた。










 ◇2◇


 このところ続いていた春の雨も一休みして、街に湿った風が吹いている。

 私は、相変わらず『Bitter & Bloom』のカウンターの隅を定位置にしていた。


 あの日、蓮見さんから「雨宿りのご褒美」という名の試作品をご馳走になって以来、私はいつのまにか、彼の新作の「公認試食係」のようになっていた。


「咲楽さん、今日は少し趣向を変えてみました。オレンジピールを効かせたショコラテリーヌです。コーヒーの苦味とのマリアージュを試したくて」


 彼が、白磁の小皿を私の前に置く。少しだけ得意げで、それでいて私の反応を伺うような彼の眼差し。その視線を独り占めしているような優越感が、今の私を支える密かな栄養源だった。


「……おいしい。オレンジの香りが、後から追いかけてくるみたいです」


「よかった。君の味覚は信頼できますからね」


 そう言って、彼はまたあの優しい微笑みを浮かべる。

 その笑顔を見た瞬間、私の胸の奥で、小さな蕾が膨らんでいくような、むず痒い感覚が走った。

 これが「憧れ」なのか、それとも「もっと重たい何か」なのか。答えを出すのが怖くて、私はわざと大きな口でテリーヌを頬張った。




 その時だった。

 入り口のドアが開いて、カランコロンと軽やかな音が響かせて入ってきたのは、私と同じくらいの年齢に見える二人組の女性客。華やかな香水の香りが、コーヒーの香りを一瞬だけ塗り替える。彼女たちは慣れた様子でカウンターの中央に座ると、私と蓮見さんのやり取りを興味深そうに眺めていた。


「ねえ、マスター。それ、すっごく美味しそう! メニューに載ってないですよね?」


 一人の女の子が、身を乗り出して蓮見さんに尋ねる。

 蓮見さんは少しだけ驚いた顔をしたが、すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。


「ええ、まだ試作段階のものでして。こちらの彼女に意見をもらっていたところなんです」


「いいなー、ずるい! 私たちにも食べさせてくださいよ。ね? お願い!」


 彼女は屈託のない笑顔で、少しだけ甘えるように声を弾ませた。私は、蓮見さんがどう答えるかをじっと見つめていた。これは「特別な一皿」で、試食係は私だけの役目だった……はず。




 けれど、それはどうやら私の思い違いだったらしい。


「はいはい、わかりました。少しだけですよ? その代わり、しっかり感想を聞かせてもらいますからね」


 蓮見さんは困ったように笑いながら肩をすくめると、奥のキッチンから新しい皿を取り出し、私に出したものと全く同じテリーヌを切り分けた。


「どうぞ。お口に合うといいのですが」


「わあ、ありがとうございます! マスター、優しい!」


 彼女たちが歓声を上げ、蓮見さんがそれを見て満足そうに目を細める。その光景を見た瞬間、私の胸の奥が、冷たい氷水を流し込まれたようにヒヤリとした。




(……ああ、そうなんだ)


 蓮見さんが向けるあの「優しい微笑み」も、「困ったような顔」も、私だけのものじゃなかった。彼は、誰にでも優しいのだ。


 迷いを抱えた雨宿りの客にも、無理を言う女の子たちにも、等しくその温もりを分け与える。私に頭をぽんと撫でたあの手も、きっと彼にとっては「年の離れた女の子」をあやすための、深い意味のない動作だったに違いない。


 喉の奥が、ぎゅっと熱くなる。

 さっきまであんなに美味しかったテリーヌが、急に砂のように味を失った。



(苦い、よ……)



 コーヒーの心地よい苦味とは違う。カップに残った澱のように「どろりとした苦さ」に胸が締め付けられて、呼吸が浅くなる。


「咲楽さん、どうしました? 口に合いませんでしたか?」


 蓮見さんが、心配そうにこちらを覗き込んでいる。その優しさが、今は一番残酷に感じてしまう。



「独り占めしたい」

「他の誰にも、その笑顔を見せないでほしい」



 そんな独占欲が自分の中にあったことに、初めて気づかされる。


(これ、憧れなんかじゃない)


 憧れなら、彼が誰に優しくしていても微笑ましく思えるはずだ。こんなに視界が滲むほど、苦しくて寂しいはずがない。


「……いえ。少し、コーヒーが苦すぎたみたいです」


 私は精一杯の嘘をついて、俯いた。

 鏡のようなコーヒーの表面に、自分の情けない顔が映っている。


 これが「恋」なのだと自覚した瞬間、世界は一変した。


 今まで「温かい場所」だったこの場所は、一歩間違えれば二度と戻れなくなる、危うい崖っぷちのような場所に変わってしまった。


 蓮見さんは、私が恋に落ちたことなんて露知らず、別のお客さんにコーヒーの淹れ方を語っている。彼の声はいつも通り心地よくて、でも、今はすごく遠い。


 私は、彼がくれたテリーヌの最後の一口を、ゆっくりと飲み込んだ。


 甘くて、苦い。


(ねえ、蓮見さん)


 心の中でだけ、彼の名前を呼んでみる。

 伝えたい想いは、この三月の雨上がりの空のように、行き場を失って漂っている。


 もし私が、この気持ちを言葉にしてしまったら。


 あなたはきっと、あの日と同じように困った顔をして、優しく微笑みながら、その温かな手のひらで私の頭を撫でるのだろう。


「ごめんね」という、一番聞きたくない言葉の代わりに。


 私は、カウンターの下で自分の両手をぎゅっと握りしめた。


 この手の中に、決して伝えてはいけない想いを閉じ込めるために。








 ◇3◇


 三月の夜風は、昼間の暖かさを嘘のように奪い去っていく。



「一本だけ、種類を違えて植えられた早咲きの桜があるから、見に行きませんか?」



 その日、私は研修での作業が長引き、『Bitter & Bloom』を訪れたのは閉店まであと少し、という時間帯だった。そこで少し遅い夕食を食べていたところ、蓮見さんに「今日はもう遅いので、駅まで送りましょう」と言われ、一緒に歩いていた時に立ち寄ったのが、街外れの小さな公園だった。


「……綺麗ですね」


 見上げた先、夜空の深い紺色に、淡い薄紅色の花びらが浮かび上がっている。満月が真上にあり、その青白い光が桜を透かして、まるで花自体が発光しているように見えた。


「ええ。この木だけは、いつも我慢できずに早く咲いてしまうんです。せっかちというか、情熱的というか」


 隣に立つ蓮見さんの声が、夜の静寂に溶け込む。いつものエプロンを脱ぎ、濃紺のコートを羽織った彼は、店内にいる時よりもずっと大人びて見えた。十歳の差。私がようやく大人への階段を上り始めたばかりだというのに、彼は違う世界の住人のように感じる。


「……咲楽さん?」


 名前を呼ばれて、心臓がドキリと跳ねる。

 見上げると、眼鏡の奥の優しい瞳が私を映していた。


「どうかしましたか? 寒かったなら、無理に連れて来たりしてすみません」


「いえ、違います。……ただ、あまりに綺麗で」


「……そう、ですか」





 嘘だ。


 本当は、桜なんてどうでもよかった。


 月の光を浴びる彼の横顔が。

 その穏やかな声が。

 隣に並んでいるこの距離が。


 ただ愛おしくて、苦しい。



 二人の砂利を踏む音だけが響く中、私の右手は、コートのポケットの中で何度も握ったり開いたりを繰り返していた。


(今、言わなきゃ)


 明日になったら、また私は「ただの試食係」に戻ってしまう。誰にでも優しい彼の一部として、その他大勢の客の一人として、笑っていなければならなくなる。




 そんなのは、多分、耐えられない。




 私は無意識に手を伸ばした。

 彼のがっしりとした肘のあたりを、ぎゅっと掴む。


「蓮見さん」


 歩みが止まる。

 蓮見さんは驚いたように足を止め、私の手と、私の顔を交互に見た。

 掴んだ指先に、彼の体温が伝わってくる。コート越しでもわかる、確かな鼓動。


「……咲楽、さん?」


 彼の声から、いつもの余裕が消えた。

 私の瞳には、もう隠しきれない熱が宿っていたはずだ。

 口を開けば、せき止めていた想いが溢れ出してしまう。





「好きです」

「特別になりたい」

「私だけを見て」





 喉の奥まで出かかった言葉たちが、心臓の鼓動に合わせて暴れている。




 けれど。


 至近距離で見つめ合った蓮見さんの瞳の中に、一瞬だけ、戸惑いの色が過ったのを私は見逃さなかった。




(……言っちゃだめだ)




 もし今、この手を離さずに想いを告げたら。蓮見さんはきっと、困ったように眉を下げて、優しく、残酷に微笑むだろう。


「ありがとう。でも、困ったな」と。


 それは明日から、私はあの琥珀色の空間に居場所を失うことになるかもしれない。私はそれが、何よりも怖かった。


「……あ、えと」


 私は慌てて、掴んでいた肘を離した。

 指先に残る温もりを振り払うように、一歩後ろに下がる。


「ごめんなさい……。石に躓いて、足がよろけてしまって」


 精一杯の、下手な嘘。

 自分の声が震えているのがわかった。

 下を向くと、地面に落ちた桜の花びらが、月の光に照らされて冷たく光っている。


「……そうですか。怪我はありませんか?」


 蓮見さんの声は、いつもの穏やかさを取り戻していた。


 けれど、そこにはどこか、安堵したような、あるいは微かな寂しさを孕んだような響きがあった。


「はい。大丈夫です。すみません、驚かせてしまって」


「いいえ。……帰りましょうか。少し冷えてきました」


 蓮見さんは、それ以上何も追求せず、小さく息を吐いて夜空を見上げ、また歩き出した。

 私は、月明かりの中の彼の影を追いかけて歩いた。




 帰り道、二人の間に会話はなかった。

 少し前を歩く蓮見さんの背中を見つめながら、私は心の中で、何度も彼に謝った。


(ごめんなさい、蓮見さん)


 あなたの困った顔を見たくなくて、嘘をついてしまった。

 あなたの隣に居続けたくて、本当の気持ちを殺してしまった。





「おやすみなさい、咲楽さん。また、お店で」


 駅の改札前。蓮見さんは、いつものように優しく微笑んで私を見送った。


 私は、彼が見えなくなるまで手を振り続けた。

 両手で抱えきれないほどの感謝と、決して伝えられない想いを、春の夜風に乗せて。









 ◇4◇


 桜の蕾が、一夜にしてすべて弾けたような、そんな満開の午後。

 私は大学の卒業式を終え、袴姿のまま『Bitter & Bloom』の扉を叩いた。


 カランコロン、と鳴るいつもの音。

 でも、お店の雰囲気が、今日だけは少し違った。カウンターの奥に立つ蓮見さんの私を見る目が、いつもの優しさだけではなく、真剣な色を帯びていた。


「……卒業、おめでとうございます。咲楽さん」


「ありがとうございます。最後にどうしても、蓮見さんのコーヒーが飲みたくて」


 客の途切れた店内に、春の陽光が差し込んでいる。

 蓮見さんは何も言わず、いつものように豆を挽き、丁寧にドリップを始めた。

 立ち上る香りは、いつもと同じ。


 でも、今の私にとっては、この上なく苦く感じる香りだ。





 カップを差し出す時、彼の指先がわずかに震えているように見えた。


「咲楽さん。あの、早咲きの桜を見に行った夜のこと……覚えていますか?」


 唐突な問いに、私は息を呑んだ。

 嘘をついて逃げ出した、あの月夜。

 忘れるはずがない。心臓が、あの時と同じように騒ぎ出す。


「足がよろけたって、君は言いましたね。……私も、そのまま知らないふりをして、君の嘘に付き合い続けるのが、一番の正解だと思っていました。そうすれば、君を傷つけずに済むし、君をこの場所に留めておけるから」


 蓮見さんは眼鏡を外して一度拭いてからかけなおし、真剣な眼差しで私を見つめた。


「私は、自分が君を惹きつけてしまっている自覚がありました。二十二歳の君が向ける、まっすぐな視線。……それを受け入れるには、私は大人になりすぎている。あなたのその視線は、『大人への憧れ』だろうと、片付けようとも思いました」


「違っ……私は……!」


 私が自分の本当の想いを告げようと口を開きかけた時、彼は静かに首を振ってその先の言葉を制した。





「けれど、拒絶するには……君が、あまりに愛おしすぎたんです」





 心臓の音が、耳元まで響いてくる。

 蓮見さんは、カウンター越しに私の手元へ、ゆっくりと手を伸ばした。

 触れるか触れないかの距離で、彼は言葉を続けた。


「だから私は、あの境界線の上に立ち続けてきました。君が嘘をつくなら、私もその嘘に付き合う。それが、今の私にできる唯一の誠実さだと思っていたから」


 外では、風に舞った桜の花びらが、窓ガラスを静かに叩いている。

 蓮見さんの声は、少しだけ掠れていた。


「でも、卒業して新しい世界へ行く君の背中を見送る時、嘘をついたままではいられないと思った。……咲楽さん。私は、君のことが好きです。店主としてではなく、一人の人間として。一人の男性として」



 視界が、一気に滲んだ。

 ずっと、ずっと欲しかった言葉。

 でも、同時に分かっていた。この言葉は、二人の関係を「これまで通り」ではいられなくする、終わりの始まりでもあることを。


「……気づいて、いたんですね」


「ええ。君の気持ちも、私の気持ちも。……でも、十歳の差は、君が思うよりずっと遠い。私が歩んできた時間と、これから君が歩む時間は、スピードが違う。すぐに『付き合おう』なんて無責任なことは言えません」


「でもっ……!」


「それでも」


 蓮見さんは、私の頭に掌を置き、優しく、慈しむように微笑んだ。


「君が社会に出て、いろんなものを見て、それでもまだ……この苦いコーヒーの香りを恋しいと思ってくれたなら。その時は、もう一度この店に来てくれませんか? 今度は『試食係』としてではなく、私の隣を歩く人として」


 それは、未来への約束。

 今の私を縛り付けるのではなく、自由に羽ばたかせるための、彼なりの精一杯の愛の形。


「……はい。必ず、来ます。もっと大人になって、この苦味を本当の意味で楽しめるようになって」


 私は涙を拭い、満面の笑みで答えた。

 カウンター越しに重なった手は、春の陽だまりのように温かい。




 私は一つ、深呼吸をしてから言葉を紡ぐ。


「私もあなたが、好きです」


 琥珀色の香りに包まれた、世界で一番苦くて甘い、この愛しい場所で。

 両手で抱えきれないほどの感謝と、ようやく伝えることができた本当の想いをのせて。



 窓の外で、満開の桜が風に舞っている今日。

 私たちは、新しい季節の一歩を踏み出した。











 Fin.




「すきま時間のShort Love Stories.」に後日譚を書いております。蛇足かもしれませんが、お読みください。





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感想を書くのが憚られるような作品を読ませて頂きまして、誠にありがとうございます。m(_ _)m 何と申し上げたらいいのか……文章に出来ないような、したら勿体無いような気持ちにさせられますね。 ですが…
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