第9話 残量三十の合図、紙の余白
四月の第三週の金曜、午後七時すぎ。ピンクサンドホライズンの階段を上がる足音が重なって、ロビーの床が小さく震えた。上映が終わったばかりで、客の吐く息にはまだスクリーンの熱が混じっている。ポップコーンの甘い匂いと、豆屋の紙袋から漏れる焙煎の香りが、妙に仲良く並んでいた。
壁際の丸テーブルに、陽咲はチラシの束を置いた。紙の角がぴしりと揃っている。光希が輪ゴムを外し、指先で一枚ずつずらして風を通す。湿気で波打つと読みづらい、と言ったのは彼だ。言いにくいことでも口に出す代わりに、紙の扱いだけはやけに手際がいい。
「……今日、ここに立つ時間、三分にしよう」
光希が言って、スマホを机に伏せた。秒数は見せない。見せると、みんなが数字に追われるからだ。
「三分で、何を言うの?」
萌愛花が身を乗り出す。言葉の入口が見つかった瞬間の目だ。洋利が横で頷きながら、涙目のまま笑っている。今日の映画のラストで、泣いたらしい。星樹はノートを閉じ、閉じたまま指で表紙を撫でた。智砂は壁にもたれて、充電中のスマホ画面に「34」と打ち込み、表示した。
「三分で、ひと言だけ渡す。……それ以上は、残量を見て決める」
光希の視線が、智砂の数字に一瞬止まる。智砂は肩をすくめるでもなく、ただ画面を消した。決めたことは変えない、という背中だった。
陽咲は手帳を開いた。今日の欄に、朝書いた文字がある。
「余白を増やす」
書いたまま、消していない。紙チラシの真ん中に、丸が三つ並ぶ映画3選の枠。そこに、もう一つだけ四角い枠を足した。白いままの四角。
「ここ、空けたんだ」
陽咲がチラシを一枚持ち上げる。光希が目を細め、紙の上を指で追った。
「……『あなたの一行』って書くのか」
「書かない。……書くと、書かなきゃってなる。枠だけ」
陽咲はそう言い、ペンのキャップを噛みかけてやめた。噛むと跡がつく。跡がつくと、あとで反省ノートに書かれる。誰のノートかは言わない。
そのとき、ロビーの入口で、短い声が跳ねた。
「すみません! ここ、空けてあるって……」
声の主は、二十代くらいの男性だった。チラシを握りしめて、椅子の列を指さしている。隣には、同じくらいの女性が腕を組んでいる。女性の視線は鋭く、男性の耳たぶは赤い。
「空けてあるのは、……席じゃなくて、話す時間です」
陽咲が先に口を開いた。声が震えないように、手帳ではなく床を見て言う。男性が瞬きを二回して、チラシの文字を読み直した。
「え、じゃあ……座っちゃだめ?」
「座っていいです。上映の席は、全部、あなたのです」
光希が言うと、女性の腕がほどけた。ほどけた腕で、彼女は自分の髪を耳にかける。
「……彼、こういうの、すぐ真に受けるんです」
「真に受けるの、助かります」
萌愛花が即答した。助かる、と言い切ると、場が笑いに寄る。男性が照れたように笑い、洋利が「真に受けたら泣ける」と意味の分からない相槌を打って、さらに笑いが増えた。
女性はチラシの下の白い枠を見つめ、指でそこを叩いた。
「これ、何ですか。空白」
陽咲は息を吸い、吐いて、答えた。
「……よかったら、一行だけ。今、思ったこと。書かなくてもいい」
女性はペンを探すようにバッグをあさり、見つからずに肩を落とす。その肩に、星樹が黙ってペンを差し出した。差し出す手が少し揺れているのを、陽咲は見逃さなかった。
女性は受け取り、枠の中に書いた。ひらがなが多い、短い一行。
「さっきの月、ちょっとだけ明るい」
書き終えて、女性は自分で笑った。
「映画の話じゃないじゃんね」
「それが、いい」
陽咲が言うと、女性はペンを返しながら、今度は真っ直ぐ陽咲を見た。
「……次、何やるんですか。三本」
光希がチラシの映画3選の枠を指で軽く叩く。
「今日と同じ三本じゃなくて、来週は入れ替えます。『雨の改札で手を離す』、『砂の上の郵便受け』、『小さな椅子が増える日』。……三本観ると、帰り道の歩幅が少し変わると思う」
言い切ったあとで、光希は言葉を足さなかった。説明を盛りすぎない。足りない分は、客が埋める。陽咲はその隙間が好きだった。
ふと、カフェの紙袋がテーブルの端で揺れた。豆屋の店主が、袋を抱えて立っている。額に汗が光り、息が上がっているのに、口は笑っていた。
「閉店前に来たお客さんがさ。豆を買って、これを指で挟んで帰ったんだよ」
店主は袋の口から一枚のチラシを取り出した。紙の端が少しだけ茶色い。焙煎の匂いが移っている。
「紙が、豆の匂いしてる……」
萌愛花が鼻を近づけ、言いかけて、智砂に目で止められた。萌愛花は両手で自分の口を覆い、指の隙間から小さく息を吐く。
「匂い、移るな。……悪くない」
光希が短く言い、チラシの匂いを確かめるように指で擦った。陽咲は、急に思い出して店主を見る。
「置いてくれて、ありがとうございます」
店主は一瞬、言葉を探すように視線を泳がせてから、カウンターの方を顎で指した。
「ありがとって言うなら、次、うちの常連を泣かせてくれよ。あの人、泣くと豆の銘柄を変えたがるから」
洋利が「泣いたら銘柄変えるの、わかる」と頷き、館長が小さく笑った。笑うと、ロビーの空気が一段明るくなる。
その明るさの中で、ピンクのスカーフの女性が入ってきた。今日は首ではなく、バッグの持ち手に結んでいる。彼女はチラシの束の前で足を止め、白い枠を見つけると、すぐに手を挙げた。
「ペン、借りてもいい?」
星樹がまたペンを差し出す。今度は揺れが少し小さい。女性は枠の中に、ゆっくりと文字を書いた。
「明日、ひと駅ぶん歩ける気がする」
書き終えると、女性はチラシを胸に当てた。
「映画って、帰り道の体温を変えるのね。……私、来週、誰か連れてくる。ひとりだと逃げるから」
陽咲は頷いた。頷く代わりに、手帳を開いて日付の欄に小さな丸を付ける。逃げたくなる人のための丸だ。
男性がチラシを胸に押し当てる。
「じゃあ、来週……また、来ます。……席じゃなくて、時間、空けといて」
萌愛花が指を一本立てた。
「時間は空けとく。残量が三十以上なら、もっと話す!」
言った瞬間、智砂が萌愛花の背中を二本の指でつついた。萌愛花が振り向く。智砂は自分のスマホを見せる。「29」。表示しただけで、言葉が止まった。
萌愛花は口を閉じ、次の瞬間、両手で自分の頬を押さえた。
「……私、今日、口、閉じる日」
洋利が笑って、涙を拭いた。
「閉じるって言った人が、一番閉じられない」
「閉じるって言っただけ! 閉じるとは言ってない!」
その言い訳に、ロビーの客がまた笑った。笑いの波が収まる前に、館長がカウンターから出てきた。いつもより少しだけ背筋が伸びている。
「……その数字、俺も書いていいか」
館長が言い、スマホのメモを開く。光希が頷くと、館長は「62」と打ち込んだ。打ち込んだあとで、照れたように画面を伏せる。
陽咲は白い枠の残るチラシを一枚拾い、ペンで小さく丸を三つ描いた。丸は映画3選の丸と同じ大きさ。四角の余白の隅に、こっそり置いた。
「……丸、何?」
光希が聞く。
「書けなかった人の分。……今日は、ここに置いとく」
言うと、光希は一枚チラシを取り、同じ場所に丸を三つ描いた。線が少し太い。太い線でも、気持ちは伝わる。
ロビーの扉が開いて、外の冷たい空気が入り込む。客の足音が階段を下りていく。最後に残ったのは、チラシの束と、紙の上の小さな一行たちだった。
陽咲は手帳に、新しい小さな目標を書いた。
「月を見たら、一行残す」
今度は消さない。消しゴムは、ポケットの底で黙っていた。




