表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/30

第8話 豆袋に挟む一行

 四月の第三週の火曜、陽咲はまだ開店前の豆屋の前で立ち止まった。看板の木に残った夜の冷たさが、手のひらに移る。扉のガラス越しに、店の奥で袋を畳む影が動いた。


 陽咲は手帳を開く。昨日の欄にある「午後二時、スカーフの人の席を空ける」を指でなぞってから、今日の欄に書き足した。


 「豆を渡す。言いやすい一行も一緒に」


 書いた瞬間、消しゴムに指が伸びかけた。だが、今日は出さない。豆屋の扉が開き、焙煎の香りが外へ流れた。


 「いらっしゃいませ。今日は何を?」


 店主が声をかけてくる。陽咲は棚に並ぶ袋を見上げ、いくつかの名前を読むふりをした。読むふりをして、最後に正直に言った。


 「……苦くないの、どれですか。渡すので」


 店主は一瞬だけ眉を上げ、それから笑った。


 「渡す相手が苦いの嫌いなんですか」


 「相手は……苦いのが嫌いかどうか、聞けてないです」


 「じゃあ、香りで選びましょう。鼻、貸してください」


 店主がスプーンで豆を少し掬い、小さな紙皿に落とした。陽咲が顔を近づけると、香りが先に頬を撫でる。甘いようで、最後に少しだけ木の匂いがする。


 「これ、いい顔しますね。初めての人が選ぶときの顔」


 「顔、してました?」


 「してました。今の、映画館で暗くなる前の顔ですよ」


 陽咲は、店主の言い方が気に入ってしまって、頷いてしまった。頷いたことが恥ずかしくて、すぐに手帳を閉じた。


 「それ、二百グラム。小袋に分けますか」


 「小袋、助かります」


 「じゃあ、三つ。三本分」


 店主が言い、紙袋を三つ用意した。陽咲は口を開きかけて、閉じた。三本という言葉が、あの映画館の貼り紙の白を連れてくるからだ。


 袋を受け取って外へ出ると、下北沢の朝が動き始めていた。パン屋の甘い匂いが遠くから追いかけてくる。陽咲は歩きながら、豆袋に挟む紙を考える。


 「次の席、空けてあります」


 昨日の一行は、良くも悪くも強い。店の椅子の話だと勘違いさせた。だからこそ、どう言えばいいのかが見えた気もする。


 陽咲がピンクサンドホライズンのロビーに着くと、館長が既にモップを握っていた。モップの先が床を擦る音が、映画が始まる前の静けさみたいに響く。


 「早いね」


 「豆、買ってきました。カフェの店員さんに」


 陽咲が紙袋を差し出すと、館長はそれを受け取らず、袋の外から香りだけ吸った。


 「……いい匂いだ。俺、今日はこれで生きられる」


 「生きられるって、朝から大げさです」


 陽咲が言うと、背後のドアが開いて、光希が入ってきた。


 「大げさじゃない。匂いは効く」


 光希は言い切り、カウンターの上に昨日刷ったチラシの束を置いた。紙の角がきちんと揃っている。陽咲はその揃い方を見るたび、心の奥の散らかりも少しだけ整う気がした。


 ほどなくして、萌愛花が現れた。腕いっぱいに、色とりどりのクリップとペンを抱えている。


 「豆? いいね! 豆ってさ、袋に入ってる時点で、もう立派に仕事してるよね!」


 「何の話?」


 光希が聞くと、萌愛花は勢いで説明を始める。


 「人ってさ、渡すときに『これ』があると、言葉が少しだけ優しくなるじゃん。豆は、その『これ』」


 洋利が遅れて入ってきて、鼻を鳴らした。鼻を鳴らしただけで目が潤んでいる。


 「豆……優しい……」


 「泣くな、まだ朝」


 光希が言うと、洋利は両手で目を押さえた。押さえても、指の隙間から光っている。


 星樹は、入口で一礼だけして、ロビーの端の椅子に座った。ノートを開き、昨日の出来事に線を引いている。智砂はコンセントの位置を確保し、充電しながらスマホに数字を打った。


 「残量、いま三十六」


 智砂が言った。誰も「何の」とは聞かない。


 陽咲もスマホを取り出し、数字だけ打つ。


 「……四十八」


 萌愛花は「六十!」と声を張り上げ、洋利は「三十五……」と小さく言った。光希は一瞬だけ考えてから「五十」と言い、館長はモップを握ったまま「俺は測らない」と言った。


 「測らないと、倒れるとき倒れるよ」


 萌愛花が即座に言い返し、館長が肩をすくめる。ロビーの空気が、少しだけ柔らかくなる。


 陽咲は机に紙を広げ、豆袋に挟む小さなカードを作り始めた。店員が渡すとき、声に出しても息が切れない長さ。客が受け取って、読み切れる長さ。


 「……『次の席』の誤解、直さないとね」


 陽咲が言うと、光希が頷いた。


 「言い換えろ。場所を入れろ」


 「場所……『映画館の席、空けてあります』?」


 「それなら椅子の話だって分かる」


 萌愛花がすかさず口を挟む。


 「でも、長いと渡せない。短くしたい。短くして刺さりたい」


 「刺さらなくていい。刺さると痛い」


 光希の返しに、洋利が「痛いのはやだ」と真剣に頷く。星樹がノートを見ながら、そっと言った。


 「場所を入れて、動作を一つに絞ると短くなります。……『映画館の紙、よかったら』とか」


 萌愛花が指を鳴らした。


 「それ! 『映画館の紙』、かわいい!」


 智砂が顔を上げた。


 「かわいくなくていい。間違えないのが先」


 陽咲は、智砂の言い方に少しだけ救われた。間違えない。今はそれでいい。陽咲はカードの上に、三つの案を書いた。


 「映画館の紙、よかったら」

 「席、映画館のほうです」

 「二時の回、空いてます」


 書いてから、最後の一つに線を引いた。時間を入れると、店員は時計を見る。時計を見ると、渡す手が遅れる。


 「……二時、私たちが言う。店員さんには、紙だけ」


 陽咲が決めると、光希は「いい」と短く言った。


 それから、六人でカフェへ向かった。豆袋は陽咲の腕の中で、紙の擦れる音を立てる。カフェのドアベルが鳴り、昨日の若い店員が顔を上げた。


 「昨日の……映画館の人たち」


 店員は、言いながら笑いをこらえている。陽咲は、胸のあたりが熱くなりそうで、先に紙袋を差し出した。


 「昨日の誤解の、すみません……。これ、豆です。あと、これ」


 陽咲は、小さなカードの束も一緒に差し出した。店員は豆袋を受け取り、香りを確かめ、カードを一枚抜いて声に出して読んだ。


 「……『映画館の紙、よかったら』」


 「それなら、椅子の話じゃないですね」


 店員が言い、笑った。陽咲は、息が抜ける。胸の熱が、溶けて下へ流れる。


 「昨日の人、午後二時に来るって言ってましたよね」


 店員が言うと、光希が頷いた。


 「来たら、俺が案内する」


 「案内って、座るだけですよ」


 萌愛花が突っ込み、洋利が「座るのは大事」と反論する。店員が笑いながら、カウンターの下から小さな皿を出した。


 「豆のお礼。クッキー、余ってるんで」


 「昨日もクッキーもらったのに」


 陽咲が言うと、店員は肩をすくめた。


 「昨日は、うちが笑った分の返し。今日は、うちが手を貸す分の前払い」


 その言い方が、陽咲の胸の奥に残った。前払い。閉館の貼り紙に対して、街が前に払ってくれるみたいだ。


 午後二時。ピンクサンドホライズンの入口で、陽咲は腕時計を見た。秒針が一周するたび、ロビーの空気が少しずつ濃くなる。館長が「どうする、席」と言い、光希が「空ける」と言う。言って、いつもの端の席にパンフレットを一冊置いた。


 「置いたら、座られるだろ」


 星樹が小さく言った。光希はパンフレットを取り上げ、代わりに自分のカバンを置いた。


 「これなら座らない」


 「盗まれない?」


 萌愛花が聞くと、光希は「盗む人はいる」と答えた。洋利が「悲しい」と言って、カバンの横に自分のハンカチを置いた。


 「これも置こう。盗むのが嫌になるやつ」


 「盗む人を変えるな」


 智砂が小さく言い、陽咲は笑いそうになって堪えた。


 そこへ、昨日のスカーフの女性が現れた。青い布が風で揺れ、入口の光を切る。女性はロビーの中を見回し、光希のカバンとハンカチを見つけて足を止めた。


 「これ、目印?」


 「目印です」


 光希が言い、すぐに席へ案内する。女性は座ってから、手の中の紙を見せた。カフェのカードだ。


 「店員さんが渡してくれた。『映画館の紙、よかったら』って。あれ、言い方、いいね」


 陽咲は、喉の奥が詰まりそうになり、頷いた。言葉が出る前に、洋利が先に言った。


 「ありがとうございます……」


 声が震えている。女性は笑って、洋利に小さく手を振った。


 上映が始まると、ロビーの喧騒が嘘みたいに消えた。暗闇の中で、椅子の軋む音が少し遠くなる。陽咲はスクリーンの端を見ながら、昨日の誤解のことを思い出した。


 椅子の話だと間違えた人が、今日は映画館の席に座っている。たったそれだけのことで、貼り紙の白が少しだけ薄く見える。


 上映が終わり、明るさが戻る。スカーフの女性は立ち上がらず、しばらく座ったままスクリーンを見ていた。やがて、ゆっくり顔を向けた。


 「昔ね、ここで友だちと待ち合わせしてたの。遅れてきた友だちを、私はいつも責めた。でも、あの子はいつも笑ってた。……今日、ここに座ったら、あの笑い方を思い出した」


 陽咲は、言葉を探して、手帳を開いた。探したけれど、今日は手帳に書くより先に、口から出た。


 「座ってくれて、ありがとうございます」


 スカーフの女性は「こちらこそ」と言い、カバンから小さな紙を取り出した。名刺の裏に手書きの文字がある。


 「古着屋の店主に頼まれたの。『この紙、次はどこに置く?』って。私、駅前の花屋の人に渡せる。……渡す?」


 萌愛花が「渡す!」と即答し、智砂が「渡す」と短く言った。星樹はノートに何か書き、光希は頷いただけだった。陽咲は、胸の奥の残量が少し増えた気がして、スマホのメモを開いた。


 「五十五」


 数字を打っただけなのに、指先が軽い。館長が後ろで、小さく笑った。


 「……俺も、測ろうかな」


 萌愛花が振り向き、指を一本立てた。


 「じゃあ一つだけ。今日の残量、言ってから帰ろ!」


 ロビーに笑いが落ちた。豆の匂いが、まだカフェの紙袋の中に残っている気がした。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ