第8話 豆袋に挟む一行
四月の第三週の火曜、陽咲はまだ開店前の豆屋の前で立ち止まった。看板の木に残った夜の冷たさが、手のひらに移る。扉のガラス越しに、店の奥で袋を畳む影が動いた。
陽咲は手帳を開く。昨日の欄にある「午後二時、スカーフの人の席を空ける」を指でなぞってから、今日の欄に書き足した。
「豆を渡す。言いやすい一行も一緒に」
書いた瞬間、消しゴムに指が伸びかけた。だが、今日は出さない。豆屋の扉が開き、焙煎の香りが外へ流れた。
「いらっしゃいませ。今日は何を?」
店主が声をかけてくる。陽咲は棚に並ぶ袋を見上げ、いくつかの名前を読むふりをした。読むふりをして、最後に正直に言った。
「……苦くないの、どれですか。渡すので」
店主は一瞬だけ眉を上げ、それから笑った。
「渡す相手が苦いの嫌いなんですか」
「相手は……苦いのが嫌いかどうか、聞けてないです」
「じゃあ、香りで選びましょう。鼻、貸してください」
店主がスプーンで豆を少し掬い、小さな紙皿に落とした。陽咲が顔を近づけると、香りが先に頬を撫でる。甘いようで、最後に少しだけ木の匂いがする。
「これ、いい顔しますね。初めての人が選ぶときの顔」
「顔、してました?」
「してました。今の、映画館で暗くなる前の顔ですよ」
陽咲は、店主の言い方が気に入ってしまって、頷いてしまった。頷いたことが恥ずかしくて、すぐに手帳を閉じた。
「それ、二百グラム。小袋に分けますか」
「小袋、助かります」
「じゃあ、三つ。三本分」
店主が言い、紙袋を三つ用意した。陽咲は口を開きかけて、閉じた。三本という言葉が、あの映画館の貼り紙の白を連れてくるからだ。
袋を受け取って外へ出ると、下北沢の朝が動き始めていた。パン屋の甘い匂いが遠くから追いかけてくる。陽咲は歩きながら、豆袋に挟む紙を考える。
「次の席、空けてあります」
昨日の一行は、良くも悪くも強い。店の椅子の話だと勘違いさせた。だからこそ、どう言えばいいのかが見えた気もする。
陽咲がピンクサンドホライズンのロビーに着くと、館長が既にモップを握っていた。モップの先が床を擦る音が、映画が始まる前の静けさみたいに響く。
「早いね」
「豆、買ってきました。カフェの店員さんに」
陽咲が紙袋を差し出すと、館長はそれを受け取らず、袋の外から香りだけ吸った。
「……いい匂いだ。俺、今日はこれで生きられる」
「生きられるって、朝から大げさです」
陽咲が言うと、背後のドアが開いて、光希が入ってきた。
「大げさじゃない。匂いは効く」
光希は言い切り、カウンターの上に昨日刷ったチラシの束を置いた。紙の角がきちんと揃っている。陽咲はその揃い方を見るたび、心の奥の散らかりも少しだけ整う気がした。
ほどなくして、萌愛花が現れた。腕いっぱいに、色とりどりのクリップとペンを抱えている。
「豆? いいね! 豆ってさ、袋に入ってる時点で、もう立派に仕事してるよね!」
「何の話?」
光希が聞くと、萌愛花は勢いで説明を始める。
「人ってさ、渡すときに『これ』があると、言葉が少しだけ優しくなるじゃん。豆は、その『これ』」
洋利が遅れて入ってきて、鼻を鳴らした。鼻を鳴らしただけで目が潤んでいる。
「豆……優しい……」
「泣くな、まだ朝」
光希が言うと、洋利は両手で目を押さえた。押さえても、指の隙間から光っている。
星樹は、入口で一礼だけして、ロビーの端の椅子に座った。ノートを開き、昨日の出来事に線を引いている。智砂はコンセントの位置を確保し、充電しながらスマホに数字を打った。
「残量、いま三十六」
智砂が言った。誰も「何の」とは聞かない。
陽咲もスマホを取り出し、数字だけ打つ。
「……四十八」
萌愛花は「六十!」と声を張り上げ、洋利は「三十五……」と小さく言った。光希は一瞬だけ考えてから「五十」と言い、館長はモップを握ったまま「俺は測らない」と言った。
「測らないと、倒れるとき倒れるよ」
萌愛花が即座に言い返し、館長が肩をすくめる。ロビーの空気が、少しだけ柔らかくなる。
陽咲は机に紙を広げ、豆袋に挟む小さなカードを作り始めた。店員が渡すとき、声に出しても息が切れない長さ。客が受け取って、読み切れる長さ。
「……『次の席』の誤解、直さないとね」
陽咲が言うと、光希が頷いた。
「言い換えろ。場所を入れろ」
「場所……『映画館の席、空けてあります』?」
「それなら椅子の話だって分かる」
萌愛花がすかさず口を挟む。
「でも、長いと渡せない。短くしたい。短くして刺さりたい」
「刺さらなくていい。刺さると痛い」
光希の返しに、洋利が「痛いのはやだ」と真剣に頷く。星樹がノートを見ながら、そっと言った。
「場所を入れて、動作を一つに絞ると短くなります。……『映画館の紙、よかったら』とか」
萌愛花が指を鳴らした。
「それ! 『映画館の紙』、かわいい!」
智砂が顔を上げた。
「かわいくなくていい。間違えないのが先」
陽咲は、智砂の言い方に少しだけ救われた。間違えない。今はそれでいい。陽咲はカードの上に、三つの案を書いた。
「映画館の紙、よかったら」
「席、映画館のほうです」
「二時の回、空いてます」
書いてから、最後の一つに線を引いた。時間を入れると、店員は時計を見る。時計を見ると、渡す手が遅れる。
「……二時、私たちが言う。店員さんには、紙だけ」
陽咲が決めると、光希は「いい」と短く言った。
それから、六人でカフェへ向かった。豆袋は陽咲の腕の中で、紙の擦れる音を立てる。カフェのドアベルが鳴り、昨日の若い店員が顔を上げた。
「昨日の……映画館の人たち」
店員は、言いながら笑いをこらえている。陽咲は、胸のあたりが熱くなりそうで、先に紙袋を差し出した。
「昨日の誤解の、すみません……。これ、豆です。あと、これ」
陽咲は、小さなカードの束も一緒に差し出した。店員は豆袋を受け取り、香りを確かめ、カードを一枚抜いて声に出して読んだ。
「……『映画館の紙、よかったら』」
「それなら、椅子の話じゃないですね」
店員が言い、笑った。陽咲は、息が抜ける。胸の熱が、溶けて下へ流れる。
「昨日の人、午後二時に来るって言ってましたよね」
店員が言うと、光希が頷いた。
「来たら、俺が案内する」
「案内って、座るだけですよ」
萌愛花が突っ込み、洋利が「座るのは大事」と反論する。店員が笑いながら、カウンターの下から小さな皿を出した。
「豆のお礼。クッキー、余ってるんで」
「昨日もクッキーもらったのに」
陽咲が言うと、店員は肩をすくめた。
「昨日は、うちが笑った分の返し。今日は、うちが手を貸す分の前払い」
その言い方が、陽咲の胸の奥に残った。前払い。閉館の貼り紙に対して、街が前に払ってくれるみたいだ。
午後二時。ピンクサンドホライズンの入口で、陽咲は腕時計を見た。秒針が一周するたび、ロビーの空気が少しずつ濃くなる。館長が「どうする、席」と言い、光希が「空ける」と言う。言って、いつもの端の席にパンフレットを一冊置いた。
「置いたら、座られるだろ」
星樹が小さく言った。光希はパンフレットを取り上げ、代わりに自分のカバンを置いた。
「これなら座らない」
「盗まれない?」
萌愛花が聞くと、光希は「盗む人はいる」と答えた。洋利が「悲しい」と言って、カバンの横に自分のハンカチを置いた。
「これも置こう。盗むのが嫌になるやつ」
「盗む人を変えるな」
智砂が小さく言い、陽咲は笑いそうになって堪えた。
そこへ、昨日のスカーフの女性が現れた。青い布が風で揺れ、入口の光を切る。女性はロビーの中を見回し、光希のカバンとハンカチを見つけて足を止めた。
「これ、目印?」
「目印です」
光希が言い、すぐに席へ案内する。女性は座ってから、手の中の紙を見せた。カフェのカードだ。
「店員さんが渡してくれた。『映画館の紙、よかったら』って。あれ、言い方、いいね」
陽咲は、喉の奥が詰まりそうになり、頷いた。言葉が出る前に、洋利が先に言った。
「ありがとうございます……」
声が震えている。女性は笑って、洋利に小さく手を振った。
上映が始まると、ロビーの喧騒が嘘みたいに消えた。暗闇の中で、椅子の軋む音が少し遠くなる。陽咲はスクリーンの端を見ながら、昨日の誤解のことを思い出した。
椅子の話だと間違えた人が、今日は映画館の席に座っている。たったそれだけのことで、貼り紙の白が少しだけ薄く見える。
上映が終わり、明るさが戻る。スカーフの女性は立ち上がらず、しばらく座ったままスクリーンを見ていた。やがて、ゆっくり顔を向けた。
「昔ね、ここで友だちと待ち合わせしてたの。遅れてきた友だちを、私はいつも責めた。でも、あの子はいつも笑ってた。……今日、ここに座ったら、あの笑い方を思い出した」
陽咲は、言葉を探して、手帳を開いた。探したけれど、今日は手帳に書くより先に、口から出た。
「座ってくれて、ありがとうございます」
スカーフの女性は「こちらこそ」と言い、カバンから小さな紙を取り出した。名刺の裏に手書きの文字がある。
「古着屋の店主に頼まれたの。『この紙、次はどこに置く?』って。私、駅前の花屋の人に渡せる。……渡す?」
萌愛花が「渡す!」と即答し、智砂が「渡す」と短く言った。星樹はノートに何か書き、光希は頷いただけだった。陽咲は、胸の奥の残量が少し増えた気がして、スマホのメモを開いた。
「五十五」
数字を打っただけなのに、指先が軽い。館長が後ろで、小さく笑った。
「……俺も、測ろうかな」
萌愛花が振り向き、指を一本立てた。
「じゃあ一つだけ。今日の残量、言ってから帰ろ!」
ロビーに笑いが落ちた。豆の匂いが、まだカフェの紙袋の中に残っている気がした。




