第7話 砂糖は二袋、ありがとうは一行
四月の第二週の日曜、午前九時半。下北沢駅の改札を出ると、空気が少しだけ冷えていて、鼻の奥がすっとした。陽咲はコートのポケットを探り、紙の手触りを確かめる。手帳ではない。コンビニでつい取ってしまった砂糖の小袋が二つ、折りたたんだレシートと一緒に入っていた。
「……甘くする予定、ないのに」
声に出すと、言い訳みたいだった。陽咲は深呼吸をして、カフェのドアベルを鳴らした。
店内はまだ静かで、カウンターの上に朝の光が四角く落ちている。昨日、コースターを拭いていた店員が、同じ場所で同じ動きで布を滑らせていた。陽咲を見つけると、店員は少し首を傾ける。
「昨日の……映画館の」
「あの、えっと。昨日、置かせてもらって……助かりました。だから……」
陽咲は、ポケットから砂糖の小袋を二つ出し、指の腹で揃えて差し出した。自分でも意味が分からない。店員の目が一瞬止まり、それから小さく笑った。
「うち、砂糖ありますよ」
「ありますよね。……でも、これは、私のほうの」
陽咲が言い終わる前に、店員がその小袋を受け取って、レジ横の小皿に置いた。置き方が丁寧で、まるで映画のチケットみたいに扱われた気がした。
「昨日の紙、もう何人か見ました。『次の席、空けてあります』って」
店員はそう言って、カウンターの下からチラシを一枚取り出した。角が、きれいに整っている。陽咲は、その角を見ただけで、昨日の古着屋の店主の親指を思い出す。
「で、聞かれたんです。『次の席って、この店の席?』って」
「……あ」
陽咲の肩が上がった。そのとき、入口のドアベルが鳴り、明るい声が飛び込んできた。
「おはよー! コーヒーの香りって、朝から人を正直にするよね!」
萌愛花だった。両手に紙袋を提げて、袋の中で何かがカラカラ鳴っている。続いて洋利が入ってきて、入店しただけで目尻が湿っている。星樹は最後に静かに席に座り、ノートを開いた。智砂は無言で壁際のコンセントを見つけ、スマホを充電しながら画面に数字を打つ。光希は遅れて入ってきて、入口で足を止めた。
「……全員、来たのか」
「来たよ。陽咲が一人で『ありがとう』言うって聞いたら、見届けたくなるじゃん」
萌愛花が笑って言い、洋利が「一人だと緊張して泣く」と真面目に頷いた。陽咲は、恥ずかしさで頬が熱くなるのを誤魔化すように、店員に向き直った。
「昨日、誤解されました……?」
「誤解っていうか、面白がられました。常連さんがね、『空けてあるなら座る』って」
店員の視線が、窓際の席へ移る。そこに座っていたのは、淡いピンクのスカーフを首に巻いた女性だった。昨日、古着屋で値札を外されていたあのスカーフ。女性はコーヒーカップを置き、手を軽く挙げた。
「昨日、古着屋でも同じ紙を見たの。レジの横。こっちでも見たら、さすがに気になって」
萌愛花が椅子から半分立ち上がり、「うわ、ダブルで効いた」と囁く。光希が小さく咳払いをして、女性に頭を下げた。
「ピンクサンドホライズンっていう、ここから歩いて八分のミニシアターです。五月末で閉めるって貼り紙が出てて……それで、三本だけ、うちで推してる映画を」
言いながら、光希は机の上にチラシを広げた。紙が軽く波打つ。陽咲が指で押さえ、波を止める。
「『自転車の月曜日』と、『白い猫が鍵を落とす夜』と、『駅前の空に砂が降る』。全部、同じ監督でも同じ俳優でもない。でも、三本続けて観ると……」
陽咲は言葉を探し、手帳を開きそうになって、やめた。代わりに、昨日の一行をそのまま口に出した。
「次の席、空けてあります。……って、言いたかったんです」
店員が笑い、女性が眉を上げた。
「空けてあるなら、座る。今日、やってるの?」
「午後二時の回があります」
星樹がノートを閉じて、静かに言った。紙に書かずに言うと、声が少しだけ震えた。智砂がスマホの画面を皆に見せる。そこには数字が並んでいる。
「残り。私は六十二。洋利は?」
「四十……八」
「泣き始める前に帰れる」
智砂が言い切り、洋利が「泣き始めてないのに判定された」と笑った。萌愛花は紙袋をガサガサさせて、店員の前に差し出した。
「これ、差し入れ! 砂糖じゃなくて、砂糖に合うやつ!」
袋の中身は、個包装のクッキーだった。店員が目を丸くし、陽咲は「さっき砂糖を渡したばかりなのに」と思いながらも、なぜか胸の奥が軽くなるのを感じた。
女性がチラシを折り目のないまま持ち上げ、最後の一行を指でなぞる。
「じゃあ、午後二時。席、ほんとに空けてね」
光希が頷いた。頷き方が速い。言葉は少ないのに、逃げない感じがした。陽咲は、手帳の今日の欄に、ペンで一行だけ書いた。
「午後二時、スカーフの人の席を空ける」
消しゴムは出さなかった。
昼過ぎ、ピンクサンドホライズンのロビーは、昨日よりも少しだけ人の気配があった。館長がカウンターの奥でチケットの束を揃え、紙の端を何度も撫でている。光希たちは、壁際に並んで、空けておく席の場所を決めた。真ん中より少し後ろ。スクリーンが見やすくて、隣の人の息遣いが近すぎない場所。
午後一時五十分。ロビーのドアが開き、あの女性が入ってきた。スカーフが光の角度で少しだけ色を変える。手には、カフェの紙袋。豆の袋が中でかすかに鳴った。
「席、空いてる?」
「空いてます」
陽咲が答えると、女性は「よし」と言ってチケットを受け取った。館長が小さく会釈し、目の奥に、昨日より濃い色が灯る。席に案内するとき、光希が女性の歩幅に合わせて歩いた。合わせているのに、遅くない。陽咲はそれを見て、自分の歩幅も少しだけ整う。
上映が終わり、ロビーに戻ると、女性はスカーフの端を指で挟んだまま、しばらく黙っていた。洋利が息を詰め、萌愛花が口を開きかけて止める。星樹がノートを閉じて待つ。智砂はスマホの画面を伏せた。
女性は、やっと言った。
「三本目。駅前の砂が降るやつ。……泣くほどじゃないけど、帰り道の足が、ちょっと変わる」
洋利が「それ、泣く前兆」と言って笑い、目尻を押さえた。女性も笑って、紙袋をロビーのテーブルに置いた。
「カフェの店員さんに、これ渡しておいて。今日、私に『行ってみたら?』って言ってくれたの。……言われたら、行きたくなるじゃない」
紙袋の中から、豆の小袋が二つ出てきた。陽咲は、朝の砂糖の小袋を思い出し、指先が少し温かくなる。紙の一行が、豆の匂いに変わって戻ってきた。
館長がテーブルの端で、小さく笑った。笑っただけで、頬の皺が増えた。増えた皺が、今日の客席と同じように見えた。
光希が、チラシの束を持ち直して言った。
「次は、あの店員が言いやすい一行も付けよう。『次の席』だけだと、店の席になる」
店員の声が頭に蘇り、陽咲は頷いた。言葉を少し足せば、誤解は減る。でも、誤解が生む出会いもある。その両方を、紙の端で支えていく。
智砂がスマホを確認し、淡々と言う。
「残り、三十切った人は帰る。今日は、ここまで」
誰も反論しなかった。帰ると言われて、むしろ安心した顔がいくつも並ぶ。陽咲は手帳を閉じ、ロビーのガラス越しに夕方の下北沢を見た。
貼り紙の白はまだある。それでも、今日、席は一つ埋まった。空けていた席が、埋まったぶんだけ、次の空け方が見えてくる気がした。
陽咲は、手帳の端に小さく書き足した。
「明日、店員に豆を渡す。言いやすい一行も一緒に」
今度も、消さなかった。




