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第6話 レジ横の一行、揺れるコースター

 四月の第二週の土曜、下北沢の空は、昨日の雨を忘れたみたいに薄く青かった。ロビーの入口に貼られた閉館の紙だけは、忘れてくれない。ガラス越しに見える白が、昼の光でさらに白い。


 光希は、その白を見ないふりをしながら、机の上に紙の束を広げた。印刷所に頼むほどの余裕はない。自宅のプリンターで刷った薄い紙を、萌愛花が持ってきた裁断機で、音を立てて切る。


 「この音、気持ちいい。人生の面倒も、こうやって切れたらいいのに」


 「切れるのは紙だけ。面倒は、勝手に増える」


 光希が言うと、萌愛花は「増えるのが面倒」と言って笑い、洋利は笑いながら「増えたら泣く」と宣言した。宣言が早い。泣く準備が整っている。


 机の端に、陽咲の手帳が開かれている。ページの上には、昨日書いた一行がまだ残っていた。


 「明日、古着屋の店主に、一行を渡す」


 陽咲は、その一行を指でなぞってから、ゆっくりとペンを持ち直した。


 「渡す一行、これでいいかな」


 紙束のいちばん上にあるチラシには、太い文字でこう書いてある。


 『ピンクサンドホライズンで、映画3選を。』

 『上映後、ロビーで五分だけ話そう。』

 『空いている席は、次の人の席。』


 星樹が、膝の上のノートを開いて首を傾けた。


 「三本、って言わないんだ」


 「映画は本じゃないからね」


 陽咲が言うと、星樹は一瞬だけ口元をゆるめ、すぐ反省ノートに何かを書いた。笑った理由まで書きそうな勢いだ。


 智砂は、スマホのメモを見せた。数字が六つ並んでいる。


 「今日の残り。私は八十。陽咲、四十五。光希、六十。洋利、五十。萌愛花、七十。星樹、五十五」


 「なんで、私だけ低いの」


 陽咲が不満そうに言うと、智砂は淡々と答えた。


 「手帳を消しては書き直してる。指が疲れる」


 「指の疲れで減るんだ……」


 洋利が感心して、すぐに自分の指を見つめた。萌愛花が「指の疲れで減るなら、私は口の疲れで減る」と言い、智砂が「あなたは口が疲れる前に水を飲む」と返す。ロビーの空気が少し軽くなった。


 陽咲はチラシの余白に、小さく丸を三つ描いた。コーヒー豆みたいな丸だ。


 「レジ横に置くなら……店員さんが渡すとき、何て言えばいいかな。長いと読めないよね」


 「短く、刺さるやつ」


 萌愛花が言い、すぐに自分の案を出す。


 「『五分で泣けます』!」


 「泣くのはこっちだ」


 光希が即座に突っ込み、洋利が「泣くのは僕」と手を挙げた。


 「『今日の残りを、五分だけ増やします』は?」


 「残りって言葉、先に知らないと怖い」


 星樹が真面目に言い、智砂が「怖くない」とだけ返す。陽咲は笑いながらペンを回し、光希の方を見る。


 「光希は?」


 光希は、紙束の角を揃えながら、言いにくそうに口を開いた。


 「……『次の席、空けてあります』」


 言った瞬間、自分で照れたのか、視線が机の上に落ちた。萌愛花が「急に映画の予告みたい」と囃し、洋利が「それ、いい」と頷く。陽咲は手帳に、その一行を書き写して、消さなかった。


 昼過ぎ、六人はチラシの束をそれぞれのバッグに分けた。紙は軽いのに、背中の荷物が増えたみたいに感じる。外に出ると、風がコートの裾を持ち上げる。下北沢の路地は、午前のパン屋の甘い匂いと、古着の布の匂いと、コーヒーの焙煎の匂いが混ざっていた。


 最初に向かったのは、駅から少し離れた小さなカフェだった。入口のドアベルが鳴る。カウンターの奥で、若い店員がコースターを拭いている。木のコースターが、布で擦られて、乾いた音を出した。


 「こんにちは。これ、置かせてもらえますか」


 陽咲がチラシを差し出すと、店員は紙を受け取り、目を走らせた。読む速度が早い。最後の一行で、少しだけ眉が動く。


 「……次の席、空けてあります」


 店員が声に出して読んだ。声が、カフェの天井に小さく跳ねる。


 「これ、いいですね。うち、常連さんが『次、何観よう』っていつも言うんです」


 洋利が「言いますよね!」と大きく頷き、勢いで椅子にぶつかって、椅子がぎし、と鳴った。萌愛花が「椅子が泣いた」と言い、店員が笑いながらコースターを置く。


 「レジ横に置きます。……渡すときは、今の一行でいいですか」


 「お願いします」


 陽咲が頭を下げると、店員は、コースターの上にチラシを一枚置き、指で軽く押さえた。風が入ると紙が飛ぶから、と言わなくても分かる動きだった。


 「じゃあ、今日から」


 店員はそう言って、コースターを少し傾けた。木が、かすかに揺れた。陽咲は、その揺れを見て、胸の中の何かが同じように揺れるのを感じた。揺れるのに、怖くない。


 次は、古着屋だった。ガラス越しに、色の違う布が何枚もぶら下がっている。店主は、昨日と同じように椅子の背もたれを叩いて、六人を迎えた。


 「来たな。紙は、曲げてないか」


 「曲げてません」


 陽咲は、両手でチラシを真っすぐ差し出した。昨日の一行を、今日の動きに変える。店主は紙を受け取り、レジに置いて、角を親指で整えた。


 「いい。言葉は、こうやって整える」


 光希が「整えてるのは角だけだろ」と言うと、店主は平然と返す。


 「角が整うと、客の目が整う」


 「理屈が曲がってる」


 萌愛花が「曲がってるほうが服は可愛い」と昨日の続きを言い、店主が「服は曲がってない」と真顔で否定する。洋利が笑いすぎて涙を拭き、星樹はノートに「店主の否定、速い」と書いた。


 そのとき、レジ前に若い女性客が来た。手に取ったのは、淡いピンクのスカーフ。店主が値札を外しながら、ふとチラシを一枚取る。陽咲が、息を止めたのが自分でも分かった。


 店主は、客の目を見て、短く言った。


 「次の席、空けてある。映画だ」


 客は一瞬きょとんとしてから、スカーフと一緒にチラシを受け取った。


 「……席、空けてあるんですか」


 「空けてある。五分、話せる」


 店主の声は大きくないのに、言葉がまっすぐ前に出る。客は笑って、チラシをバッグに入れた。


 「じゃあ、行ってみます。五分なら……行けるかも」


 扉のベルが鳴って、客が出ていく。陽咲の胸の中の揺れが、今度は少しだけ上に持ち上がった。智砂が横から小声で言う。


 「陽咲、残り、今いくつ」


 陽咲は自分の手帳を開き、すぐに数字を書いた。


 「……五十」


 「増えた」


 智砂が短く言う。褒めるでもなく、事実だけ。でも、その事実が、陽咲には温かかった。


 帰り道、六人はミニシアターの前を通った。貼り紙は、相変わらず白い。光希が、足を止めた。陽咲も止まった。洋利は泣きそうになり、萌愛花は「また椅子が泣く」と先に言い、星樹はノートを閉じ、智砂はスマホのメモを開く。


 光希が、貼り紙に向かって、言った。


 「紙は、飛ばない」


 誰に言うでもない。けれど、陽咲はその言葉を受け取った。空けた席の先に、今日のスカーフの人が座るかもしれない。座らなくてもいい。空けておくことが、もう始まっている。


 陽咲は手帳の新しいページに書いた。


 「明日、カフェの店員に、お礼を言う」


 書き終えて、今度は消さなかった。



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