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第5話 五分の砂時計、三つの笑い

 四月の第二週の金曜、下北沢の路地は夕方から小雨になった。ピンクサンドホライズンの玄関マットが湿って、靴底が少しだけ重い。入口のガラスには、外のネオンが水滴で滲んで映る。ロビーの壁には、古い上映ポスターが何枚も重なって貼られ、端っこがめくれた紙がそよいでいた。


 カウンターの奥で、館長が売店のポットを温め直していた。湯気が上がるたび、コーヒーとキャラメルの匂いが混ざって、さっきまでの雨の匂いを押し返す。館長は入口の貼り紙を見ないふりをしている。けれど、そのふりは、誰が見ても分かるくらい丁寧だった。


 「よろしくお願いします」


 陽咲が先に言った。手帳に書いた一行を、紙の上じゃなく空気に放り投げるみたいに。館長は一瞬、瞬きをしてから、ポットのふたを押さえたまま頷いた。


 「こちらこそ。……今日は、金曜でしたね」


 光希が机を一つ、ロビーの真ん中に寄せた。小さな三脚にスマホを固定し、レンズの汚れを袖で拭う。机の上には、チラシの束と、タイマー代わりのキッチン用の砂時計が一つ。萌愛花が百円ショップで買ってきたらしく、砂はなぜかピンクだ。


 「砂が、店の名前に寄せてきた」


 光希が言うと、萌愛花が胸を張った。


 「寄せたんじゃないの。寄ってたの。うちの棚で、最初からこれだけピンクだったの」


 「棚が寄せてきた可能性」


 星樹がぼそりと呟き、すぐ自分のノートに何かを書いた。書いてから、たった一文字だけ消して書き直す。自分の手癖に、少しだけ眉を寄せた。


 机の脚がぐらつくのを見て、智砂がカウンター横のガムテープを引っ張り出した。音もなく床にしゃがみ込み、脚と床の隙間に紙を折って差し込み、テープで固定する。終わると立ち上がり、スマホの画面を開いてメモに数字を打ち込んだ。


 「今日、私の残り、四十。三十切ったら帰る。みんなも自分で書いて」


 洋利が「え、残りってなに」と言いながら、スマホを探してポケットを叩いた。萌愛花は「電池じゃなくて、感情の残量」と言い、突然、自分の胸を両手で押さえる。


 「私、今、九十八。砂が落ちると九十九。みんなの拍手で百」


 「百になってから落ちるやつ、ある?」


 光希が言うと、洋利が笑って、でもすぐ真面目な顔でメモを開く。星樹はもう書いていた。


 「僕、六十。……いや、五十九」


 「一がどこ行った」


 「さっき、雨に落ちました」


 星樹が言い切り、またノートに「言い切る」と書き足した。智砂が「雨で落ちるのは傘だけ」と呟く。


 そこへ、入口のベルが鳴った。古着屋の店主が入ってくる。肩に布を巻き、手には折りたたみ椅子を一本。濡れた髪を指で払って、ロビーをぐるりと見回した。


 「席、増やすんだろ」


 店主は椅子を床に置き、足で少しだけ押して安定を確かめた。光希が目を細める。


 「増やすって言ったの、客席」


 「客席も椅子も、座るものは同じだ」


 店主は言い、椅子の背もたれを軽く叩く。古い木の音がした。館長が慌てて出てきて、両手を振る。


 「ありがとうございます。でも……その椅子、映写室の前に置くと——」


 「倒れる?」


 「転ぶ」


 館長が言い終える前に、萌愛花が椅子に座ってみせた。ぎし、と嫌な音がして、萌愛花は即座に立ち上がる。


 「これ、泣く椅子」


 「泣くな、喋れ」


 光希が突っ込み、店主が「泣く椅子なら今夜にちょうどいい」と平然と言う。洋利が「今、僕が泣きそう」と言い、智砂が「座らない」とだけ言って椅子を壁際へ押した。


 光希が砂時計を指で弾いた。ピンクの砂が、静かに落ち始める。


 「五分。終わったら切る。言い足りない人は、紙に書く」


 「五分って、瞬き二回で終わるやつ」


 萌愛花が大げさに瞬きをしてみせ、洋利が笑って肩を震わせた。笑いながらも洋利は売店の端に並べられた椅子を数え、背もたれの角度を直していく。客が通る通路の幅を、足で確かめるみたいに。店主がその様子を見て、口元だけで笑った。


 上映が終わると、ロビーに数人が流れてきた。パン屋の紙袋を抱えた年配の男性もいた。チラシを手のひらに広げ、右下の一本線を親指でなぞっている。男性の隣には、若い女性が一人。スマホを握ったまま、周りを見回していた。


 「すみません、ここ……映画の話、するって」


 女性が言った。声は小さいのに、言い切るところだけ強い。陽咲が一歩前に出る。


 「はい。五分だけ。立って聞いても、座って聞いても」


 「五分だけ?」


 女性が眉を上げる。萌愛花がすかさず、砂時計を持ち上げた。


 「証拠、これ。ピンクの砂が落ち切ったら終わり。落ち切る前に泣いたら、私が拭く」


 「拭くな、泣かせるな」


 光希が即座に突っ込み、場がふっとゆるんだ。館長がそのゆるみを見て、カウンターの端を指で軽く叩く。


 「では……始めましょうか」


 そのとき、ロビーの奥から「トイレ、どこですか」と声がした。探す目が、カメラの前を横切りそうになる。智砂がさっと手を伸ばし、壁の矢印の札を指で示す。顔色も変えずに、通路の端へ人を誘導する。洋利が小声で「助かった」と言い、萌愛花が「今の、五分に入る?」と囁く。光希は「入らない」と言って、砂時計をもう一度軽く弾いた。


 スマホの録画ボタンが押される。赤い点が灯り、ロビーの空気が少しだけ整列する。


 「今週の三本。共通点は一つ」


 陽咲が言い、紙を一枚掲げた。タイトルは三つ、横に並ぶ。どれも小さな文字なのに、読み上げると映像が立ち上がってくるような名前だった。


 「大丈夫じゃない日に、知らない誰かが、隣の席を一つ空ける話」


 陽咲の一行が落ちた瞬間、年配の男性が小さく息を吸った。洋利はそれを見て、口を押さえる。泣く準備が早い。店主が横から「泣くなら椅子を泣かせるな」と囁き、洋利がさらに鼻をすすった。


 「一本目。自分の声が出せない人が、映画の中だけで歌う。歌ってるのに、誰にも聞こえない。だから、隣の席が空いてる」


 陽咲が言うと、若い女性が少しだけ笑った。笑い方が、心の中でだけ鳴らす鈴みたいだった。


 光希が続ける。


 「二本目。編集のカットが多い。会話が途切れる。途切れるたびに、空いた間に別の人が座る。つまり、間が席になる」


 「間が席……?」


 女性がつぶやき、智砂が頷いた。頷きながら、砂時計の残りを目で追っている。残りが減るほど、頷きの角度が鋭くなる。


 星樹が三本目を話し始めた。手元のメモを一瞬見て、すぐ顔を上げる。


 「三本目。笑いが多いんですけど、最後に一つだけ、空白が残る。あの空白が、次の人の座る場所になる」


 言い終わった瞬間、星樹は自分の膝の上のノートを半分開き、何かを書き足した。書いたのは感想じゃなく、次の改善点だ。ペン先が止まらない。光希がちらりと覗き、口角だけ上げる。


 砂が落ち切る少し前、年配の男性が手を上げた。学校の教室みたいに。


 「質問……じゃない。礼だ」


 男はゆっくり立ち上がった。チラシを胸に当てたまま、言う。


 「昔、ここで妻と観た。終わったあと、俺は何も言えなくてな。妻は、隣の席を一つ空ける癖があった。『次の人が座る場所』って」


 ロビーが静かになった。洋利が鼻をすすって、萌愛花が「拭くって言ったのに」と小声で言い、紙ナプキンを二枚差し出す。館長が笑いそうになって、笑うのをやめた顔をしている。


 男性は続けた。


 「今日、パン屋でこの紙をもらって、一本線を見て……なんだ、まだ席は空けられるじゃないかと思った。だから来た」


 若い女性が、手の中のスマホを少しだけ下ろした。画面の明るさが落ちて、ロビーの灯りがそのぶん増えたように見える。智砂がその様子を見て、砂時計を指で押さえた。落ち切る直前の砂が、ほんの一拍だけ止まる。


 光希が、録画の赤い点を見たまま、短く返した。


 「空けます。減らすんじゃなくて、空ける」


 砂が落ち切った。萌愛花が「はい、五分、終わり!」と宣言し、智砂が「守った」と小さく言う。陽咲は、手帳を開き、今日のページに丸を一つつけた。消しゴムは出さない。


 ロビーを出ていく客の背中を見送りながら、館長がぽつりと言った。


 「五分で、こんなに長いんですね」


 光希はスマホを止め、画面を伏せた。


 「長くするのは、五分の外です。明日、紙にします」


 その場で再生すると、最初の「よろしくお願いします」だけ、音が割れていた。萌愛花が「私の拍手のせい」と言い、洋利が「僕の鼻のせいかも」と言い、星樹がノートに「距離、三十センチ」と書く。智砂はメモの数字を見て、ぽんと指で叩いた。


 「今、私の残り、三十八。二減った。つまり、今日はここまで」


 「二しか減ってないの強い」


 萌愛花が言い、智砂が「強いじゃない。数えてるだけ」と返す。陽咲は笑いながら、手帳の余白に新しい一行を書いた。


 「明日、古着屋の店主に、一行を渡す」


 店主が聞きつけて、椅子の背もたれを軽く叩く。


 「渡すなら、まっすぐ渡せ。紙は曲がると、言葉も曲がる」


 光希が「曲がってるのはお前の理屈」と言い、萌愛花が「曲がってるほうが服は可愛い」と謎の援護をした。館長が口元を押さえて笑い、笑いながら、貼り紙の方を一瞬だけ見た。


 雨の音が、入口のガラスを細く叩く。ロビーの灯りは小さく、けれど消えずに、五分のあとを照らしていた。



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