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第4話 共通点は一行、コーヒーは二口

 四月の第一週の土曜、午前。線路沿いの喫茶店はまだ静かだった。ガラス越しに見える豆の瓶が、朝の光を受けて並んでいる。扉を開けた瞬間、焙煎した匂いが喉の奥まで届いて、光希は反射で肩をすくめた。


 「良い匂い。……でも、ここで口を滑らせたら、苦いだけで終わる」


 言いながら、自分で自分に笑ってしまう。横で陽咲が、手帳を開いた。昨日までは何度も消していたページの上に、今日は小さな文字が一つ、まっすぐ置かれている。


 「三つの映画の共通点を、一行で言う」


 声に出すと、文字が少しだけ大きくなる気がした。陽咲はペン先でその一行を二度なぞり、息を整えてからレジへ向かう。


 カウンターの向こうで、昨日の店員がカップを磨いていた。眼鏡の奥の目が、三人を見てすぐ柔らかくなる。


 「おはようございます。昨日の……脚立の方?」


 「映画です」


 光希が短く返し、店員が「知ってる」と言って笑った。萌愛花が、その笑いを逃がさない。


 「脚立は置かないけど、紙は置かせてください! 昨日の『水平線』、ちゃんとレジ横に置いてくれてました? え、もう無くなってたら、泣く」


 「泣かれると床が濡れるんで、先に言っときますけど、まだあります。五枚くらい減りました」


 萌愛花が両手で口を押さえ、声にならない喜びを漏らした。陽咲はその横で、しっかり頷いてから、店員にチラシをもう一枚差し出した。


 「今日は、これを渡すときの……一言を、練習したくて」


 「一言?」


 店員が興味深そうに眉を上げる。

 カウンターの端には、小さな焼き菓子が並んでいた。昨日は気づかなかったのに、今日は一つ一つの名前札が目に入る。「塩キャラメル」「柑橘」「カカオ」。陽咲は、映画の題名もこういう札みたいに、誰かの口に運ばれてほしいと思った。


 光希は椅子を引かずに立ったまま、ポケットからスマホを出した。画面には、昨日の夜に作ったという簡単な画像が三枚並んでいる。映画の宣伝用の素材ではなく、彼が自分で撮った下北沢の風景を切り貼りしたものだった。自転車のハンドル、夜の路地の白い壁、駅前の工事現場の砂埃。


 「これ、タイトルの代わりに見せる用。言葉が先に刺さるとき、目が逃げる。だから、目から入れる」


 店員が興味深そうに覗き込み、女性客も身を乗り出した。


 「……自転車、月曜ってだけで、ちょっと分かる気がする」


 女性客が笑う。光希はその笑いに安心して、つい口が動いた。


 「月曜って、だいたい誰も優しくないだろ。だから映画の中くらい——」


 「また魚!」


 萌愛花が即座に小声で突っ込み、光希が唇を噛んで止まる。陽咲はそのやり取りを見て、胸の奥が少しだけ軽くなる。言い過ぎる人がいるなら、自分は短くまとめればいい。役割が見えると、怖さが薄くなる。


 店員が、レジ横のチラシの束を指で揃えながら言った。


 「昨日、常連のおじさんがね。これを見て、『水平線って何だ』って。いつもは砂糖二本の人なのに、一本しか取らずに真剣な顔で帰った」


 陽咲は思わず笑ってしまった。砂糖の本数と真剣さが結びついているのが、この店らしい。


 「……それで、今日また来てくれたら、言えるんです。一行」


 陽咲が言うと、店員が頷いた。


 「言って。私も覚える」


 そのタイミングで、入口のベルが鳴った。キャップを被った男性が入ってきて、手にした紙袋を掲げる。


 「パン屋、混んでた! ……あ、ここ、昨日の脚立じゃない店!」


 洋利だった。頬が冷たい外気で赤くなっていて、紙袋から温かい匂いが漏れている。後ろから智砂が現れ、スマホを見たまま言う。


 「ここ、滞在は二十五分。次、古着屋の開店が十時半」


 店員が目を丸くした。


 「……映画館って、軍隊なんですか」


 萌愛花が胸を張る。


 「軍隊じゃない! 智砂が時間を削ってくれるだけ!」


 智砂は一切顔を上げず、「削ってない。足してる。無駄を引いてる」とだけ返した。光希が小さく「それが削ってる」と言い、陽咲が笑いを噛み殺す。


 洋利は紙袋をカウンターにそっと置き、店員に頭を下げた。


 「昨日、置かせてもらったんです。……ありがとうございます。僕、泣きそうになるので、今日はパン担当です」


 店員が「泣くなら外で」と言って笑い、洋利が本当に目尻を押さえる。


 陽咲は一度、手帳を閉じた。人が増えると、言葉の順番が散らばりそうになる。でも、散らばったら拾えばいい。拾う係が、自分になればいい。


 「共通点、一行。いきます」


 陽咲が言うと、店の中がほんの少し静かになった。映画館のロビーほど大きな空間じゃないのに、静かさには同じ温度があった。



 陽咲は、昨日の夜に頭の中で並べた三つの題名を、舌の上で確かめる。


 「『自転車の月曜日』と、『白い猫が鍵を落とす夜』と、『駅前の空に砂が降る』。……この三つは」


 カウンター席でノートパソコンを開いていた若い女性が、カップを持ち上げたまま、こちらを見ている。店員もチョークを指で弄りながら、続きを待った。


 光希が、その視線を拾ってしまった。


 「五月末で閉まる映画館なんです。今のうちに来ないと、見られません」


 言い方が一直線すぎて、女性の目が一瞬だけ丸くなる。カップを置く音が、妙に大きく聞こえた。


 「……え、閉まるって、急に言われると、怖い」


 女性が小さく笑って、けれど体が少し引いたのが分かった。光希はそこで止まらず、さらに言葉を足してしまう。


 「怖いなら、怖くない日を選べばいい。金曜の夜が——」


 「待って待って待って!」


 萌愛花が、勢いでカウンターに肘をつきそうになり、慌てて自分の腕を抱えた。


 「光希くん、今の、閉店セールの魚みたいな言い方! 『今買わないと損』って顔!」


 光希が眉を寄せた。


 「魚?」


 「魚。氷の上の」


 萌愛花は店員に向き直り、胸の前で手を合わせてから、声の温度を変えた。


 「すみません。怖がらせたくて来てるんじゃないです。逆です。……ここ、コーヒーの苦味のあとに、ちゃんと甘いのが来るじゃないですか。うちの三本も、それに似てます」


 女性客が、思わず笑った。店員もカップを磨く手を止めて、続きを促すように顎を上げる。


 萌愛花は、指を一本ずつ立てた。


 「月曜の自転車で、身体が重くてもペダルが軽い日がある。夜の猫で、鍵が落ちても拾う手がある。駅前の砂で、息が詰まっても、空がちゃんと広い。……つまり、『苦いのに、飲み干したくなる』」


 智砂がスマホから目だけ上げて、「飲み干すのはコーヒー」と言い、光希が「俺も言おうとした」とぼそりと続けた。萌愛花が「二人とも、今は黙ってて」と笑いながら指で口元を押さえる。空気が一段、柔らかくなった。


 陽咲は、その柔らかさの中で、自分の一行を取り出した。店員が首を傾げたまま、陽咲の目を見て待っている。


 「三つの共通点は……」


 陽咲は、一拍置いた。女性客が、チラシを一枚手に取っていた。紙の右下の一本線を指でなぞり、そこに何かを探している。


 陽咲は、その指先を見てから、言った。


 「大丈夫じゃない日に、知らない誰かが、隣の席を一つ空ける話です」


 自分の声が、店の天井に吸われていく。けれど、消えていく感じはしなかった。店員がゆっくり頷き、レジ横に置いてある小さな黒板を指で叩いた。


 「それ、書いていい?」


 「……え」


 陽咲が目を瞬かせると、店員はチョークを取り出して、さらさらと短い文字を書き始めた。


 『大丈夫じゃない日に 隣の席が空く三本』


 書き終えると、店員がチョークの粉を指で払った。


 「これなら、常連に渡すとき言える。『今日は隣の席、空けてる三本だよ』って。……ね、怖くない」


 女性客が、チラシを折らずに鞄へ入れた。入れる前に、光希の方を見て言う。


 「怖くない日に、行きます。……金曜、夜なら、仕事終わりに」


 光希が口を開きかけて、言い方を選ぶみたいに一度閉じた。代わりに、深く頷いた。


 「席、空けときます」


 萌愛花が「今の、魚じゃない!」と拍手を一回だけして、店員に睨まれて両手を胸の前で止める。陽咲は、手帳の一行の横に、丸を一つだけ付けた。消しゴムは出さない。


 店を出ると、踏切の音が遠くで鳴った。朝の電車が走っていく。洋利が紙袋を抱え直し、「パン、まだ温かい」と小声で報告する。智砂が「次、古着屋。遅れたら店主の眉が上がる」と言い、歩幅を少しだけ上げた。


 光希は、チラシの束を抱え直し、陽咲の手帳の丸をちらりと見た。


 「一行、効くんだな」


 陽咲は頷き、歩きながら小さく言う。


 「次は……一行を、誰かの一日につなげる」


 萌愛花が「じゃあ次はパン屋! 『パンと一緒に水平線』の看板、勝手に描きたい!」と言い出し、光希が「勝手に描くな」と即座に止めた。


 笑い声が、線路沿いの朝に転がっていく。店の黒板に残った文字は、まだ見えない誰かの目に触れるのを待っていた。



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