第30話 窓の光で、好きと言う
七月の第一週の土曜、朝八時。下北沢の路地に残った雨の匂いが、昨日の夜の熱をゆっくり冷ましていた。ミニシアター「ピンクサンドホライズン」の扉はまだ閉じているのに、ロビーの窓だけが先に明るい。ガラス越しの光が、床に細い帯を作って、昨日借りた椅子の脚を一本ずつ照らした。
陽咲は鍵を回し、誰にも見せないように小さく息を吐いた。夜の拍手が耳の奥で鳴り続けている。けれど今は、掃除の時間だ。モップの柄を握り直して、ロビーの隅のポップコーンを一粒ずつ拾う。拾った分だけ、床の木目が戻る。戻ると、昨日の人の足音が、少しだけ優しく思い出せた。
スマホを開くと、メモに書いた数字がまだ残っていた。『感情のバッテリー 62』。陽咲はその下に小さく『+3 朝の光』と足す。すると、入口の方から靴底が鳴った。
光希が入ってきた。髪の寝ぐせを指で押さえたまま、紙袋をぶら下げている。昨日の徹夜の名残が頬に薄く貼り付いているのに、目だけは妙に冴えていた。
「早いな」
「昨日、ここで寝た人が言う?」
陽咲が言うと、光希は紙袋を掲げた。
「差し入れ。温かいの」
袋の中は、コンビニのスープじゃなく、近所のパン屋の包みだった。紙越しに、バターの匂いがふわっと漏れる。陽咲は思わず笑って、モップの先で床を軽く叩いた。
「館長、来る?」
「来る。……来ないと、今日が始まらない」
光希は言いながら、ロビー中央に椅子を並べ始めた。昨日は借り物で満席だった。今日は、並べる椅子が少しだけ増えるかもしれない。増えなくても、並べる。並べる手つきが、そのまま約束になる。
そこへ館長が現れた。ワイシャツの袖をまくり、手には一枚の紙がある。昨夜の売上の控えだろうか。館長はロビーの光を見上げてから、紙を胸に当てて、短く言った。
「……昨日、家主さんに電話した」
陽咲の指が止まる。光希も椅子の背を掴んだまま固まった。
館長は紙を少しだけ振った。
「数字が、説明になった。三十日だけ……猶予をもらった」
「三十日?」
洋利がいつの間にか入ってきて、声が裏返った。目がもう潤んでいる。萌愛花がその肩を叩いて、泣く前に笑わせるように言う。
「ほら、泣くのはスクリーンって言ったでしょ。口角、口角」
智砂は椅子を二脚まとめて運びながら、「合法だね!」と意味の分からない宣言をし、星樹は何も言わずに雑巾でガラスを拭き始めた。
パン屋の包みがロビーの机に置かれ、紙の擦れる音が小さく響く。誰も「おめでとう」を言わなかった。言うと、油断してしまいそうだったからだ。代わりに、光希が館長に聞く。
「三十日で、何をする?」
館長は紙をもう一枚取り出した。そこには、家主へ渡すために書いた短い文と、昨日の売上の数字と、店から届いたひと言が並んでいる。
「まず、滞納分の一部を入れる。残りは、毎週の数字で見せる。……そのために、今日も席を埋める」
館長の言い方は、宣言じゃなく、段取りだった。段取りは逃げない。逃げないから、みんなの背筋も少しだけ伸びた。
萌愛花が机の上の紙を覗き込み、勢いで指を指す。
「これ、カフェの店員さんの字だ。『今朝もレジ横で渡します』って、ほら。手書き、強いね」
陽咲は「強い」と言わずに頷き、代わりに紙の端をそっと押さえた。紙がふわりと浮くたび、これまでの金曜の夜の声が落ちてきそうだったから。
星樹が窓を拭き終え、雑巾をたたんでから、館長の前に小さく立った。ポケットからスマホを出し、画面を一度だけ見せる。
「……外へ渡した録音、全部消した。削除の確認画面、残してる」
館長は画面を見た。見てから、うなずいた。
「鍵、今日も頼む」
星樹は受け取った鍵を握り、何も言わずに窓のレールの埃を掻き出し始めた。言葉を置かない代わりに、レールの溝が少しずつ光った。
萌愛花が突然、スマホを掲げた。
「はい、点呼! 感情のバッテリー、今いくつ?」
洋利が目をこすりながら「四十……いや、三十七……」と震え、智砂は「九十九!」と即答して全員に睨まれた。
「嘘つくと減るよ」
陽咲が言うと、智砂は「あ、四十八!」と慌てて言い直し、洋利がそれで笑って涙を引っ込めた。
光希は少し考えてから「五十一」と言い、館長は「六十」と短く返した。星樹は雑巾の角を揃えたまま「三十二」とだけ言った。誰も笑わなかった。笑わないことで、三十二を守った。
陽咲は手帳を開く。新しいページの上で、鉛筆が一度だけ迷った。書く。消す。書き直す。いつもなら、そこで終わる。けれど今日の鉛筆は、消しゴムに触れなかった。
『今日の小さな目標、好きと言う』
最後の文字を書いた瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。熱さを隠すみたいに、陽咲はスマホのメモを開く。
『感情のバッテリー 62→68』
理由は書かない。書かなくても、身体が分かってしまう。
扉の外に人影が見えた。開店前の古着屋の店主が、袋を二つ抱えて立っている。カフェの店員も、その後ろで紙の束を胸に抱えていた。館長が扉を少し開けると、二人は同時に頭を下げて、袋と紙を差し出した。
「昨日のあと、寝られなかったんです。だから、朝の分」
「今日の上映の案内、増刷しました。店で渡します」
館長は一つずつ受け取り、受け取った手を離さずに言った。
「ありがとうございます。……次の上映、椅子が足りないかもしれません」
古着屋の店主が笑って、肩をすくめる。
「足りなきゃ立て。映画は座って観ろ。だから俺が椅子を探す」
ロビーの準備が整い、館長が扉の鍵に手をかけたところで、光希が陽咲の横に立った。窓の光が二人の足元に同じ形を作る。
光希は、昨日の編集室で覚えたみたいに、一拍置いてから言った。
「……君の違いが、客席を増やした」
陽咲は返事を探して、口を開いて、閉じた。いつもなら感想がずれる。ずれるのが自分だ。だから今日も、ずれていい。
「……私、あの三本の共通点、最後まで言えなかった」
「言えたよ。君の言い方で」
光希は笑わずに言った。笑わない方が、嘘じゃない。
陽咲は手帳を胸の前で軽く抱き、鉛筆の芯が折れないように指で守ってから、言った。
「……好き」
言った瞬間、ロビーの空気が一秒だけ止まった。止まったのは、陽咲の心臓の方かもしれない。
光希は目を瞬かせて、喉の奥で小さく笑った。
「それ、今日の目標?」
「うん。消さない」
「じゃあ、俺の目標も言う」
光希は言葉を選ぶみたいに息を吸ってから、短く落とした。
「好き」
その瞬間、背後から派手な咳払いが飛んだ。
「はいはいはい! いま二人のバッテリーが勝手に上がったの、見た!」
萌愛花が両手を腰に当てる。洋利が「見た……」と涙声で頷き、智砂が「じゃあ俺も言う! 椅子並べるの好き!」と別方向へ走った。星樹はレールの溝から埃を最後に一掻きして、鍵を館長の机の端へそっと置いた。
館長は扉を開ける前に、ロビーの真ん中の差し入れの山を指さした。
「……全部、店の人たちだ。カフェも、古着屋も、パン屋も。言葉じゃなくて、手で来てくれた」
陽咲は頷いて、手帳を開いたままの自分に気づく。さっきの文字が、光の中で薄く光っている。消していない。消さない。
扉が開くと、朝の冷たい空気と一緒に、誰かの「おはようございます」が滑り込んできた。チラシを見て来た人だ。小さな子どもが、昨日の拍手の話を親にしている。店員の名札をつけたままの若い女性が、ロビーの椅子を数えて、にやりとした。
陽咲はその人に向かって、今日の別の小さな目標も一緒に実行した。
「……おはようございます。走らない約束、お願いします」
相手が「もちろん」と笑って返し、子どもが小さく敬礼した。
萌愛花が差し入れの山を両手で抱えるふりをして叫ぶ。
「ほら、感情のバッテリー百にして帰ろ!」
洋利が「百って無理だよ!」と泣き笑いで返し、智砂が「百にするなら椅子が足りない!」と勝手に走り出す。
光希は陽咲の手帳をちらりと見て、何も言わずに椅子をもう一脚、前へ出した。陽咲はその隣に一脚置く。二脚の足が床に触れた音が、昨日の拍手とは違うのに、同じ方向へ進む音に聞こえた。




