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第3話 紙の三本、水平線一本

 四月の第一週の土曜、午前十時。下北沢の文具店で油性ペンとガムテープを買ってから、光希たちはピンクサンドホライズンのガラス扉を開けた。ロビーの空気は少しひんやりして、ポスターの紙の匂いがした。


 「十時ぴったり! って言いたいところだけど、九分遅れ!」


 萌愛花が息を切らしながら手を振った。手にはコンビニの袋。中身は、のど飴と油性ペンと、なぜか小さなメジャーだった。


 「何に使うんですか、それ」


 陽咲が目を丸くすると、萌愛花は胸を張る。


 「紙って、測りたくならない? この世の紙、全部。……ならない?」


 洋利が「僕は、測るより泣くかも」と言って、すでに目の下をこすっている。泣く理由がまだないのに、先回りして濡らす癖らしい。


 光希は無言で椅子を二つ寄せ、ノートパソコンを開いた。キーボードを叩く音が、ロビーの静けさを切っていく。画面には、昨日引いた三つの四角がもう整っている。


 「……速い」


 館長が小さく漏らすと、光希は視線だけ上げた。


 「遅いと、口が滑るんで」


 昨日の自分の言葉を思い出して、光希はペンをくるりと回す。陽咲はその手つきを見て、手帳を開き、今日の欄に書いた。


 「今日、紙を一枚完成させる。昼までに三軒、渡す」


 書いた瞬間、消しゴムに手が伸びかける。だが、陽咲はそのまま指で紙を押さえた。消すのは、帰ってからでもできる。今は、ここに置いておく。


 星樹が少し遅れて入ってきた。肩にリュック、手に薄い封筒。封筒の角が少し折れている。


 「印刷……紙、持ってきました。会社の、余り。白だけです」


 そう言いながら、星樹は封筒を館長に差し出す。館長は受け取って、紙の端を撫でた。撫で方が、チケットの束に触れるときと同じだった。


 智砂は最後に入ってきて、ロビーの隅のコンセントを確保した。スマホを充電しながら、メモを開く。


 「残り、二十七。今日の上限は、四時間。四時間過ぎたら帰る」


 宣言だけして、視線は冷蔵庫の上の時計へ。誰かが止めなければ、全員が夜まで居残るのを知っている顔だった。


 光希が画面を回して見せる。


 「三本、決める。タイトルだけじゃなく、一言も。読んだ人が、今夜の予定を変えるやつ」


 「今夜の予定……私、今夜、洗濯!」


 萌愛花が指を立てると、洋利がすかさず「じゃあ洗濯が終わる前に観終わる作品」と言った。館長が笑いをこらえるように口元を手で覆う。


 陽咲は、昨日聞いた「朝だけピンクに見える砂」の話を思い出す。ロビーの天井を見上げると、照明の丸が水平線みたいに並んでいる。


 「三本とも、水平線がどこかに出るやつがいいです。海じゃなくてもいい。窓でも、床でも」


 光希が「具体的」とだけ言って頷いた。


 「一本目は……短いの。四十五分」


 星樹が封筒から紙を一枚抜き、タイトルを書いてきたらしい付箋を貼っていた。そこには、見覚えのない作品名が並んでいる。既存の有名作の文字はない。光希はそれを見て、少しだけ肩の力を抜いた。


 「『自転車の月曜日』。二本目、『白い猫が鍵を落とす夜』。三本目、『駅前の空に砂が降る』」


 萌愛花が「三本目、ちょっと長くない?」と笑い、洋利が「でも泣けそう」と頷く。館長は目を伏せた。三本目の言葉に、何かが触れたようだった。


 「……いい。君たち、うちの壁の色まで見えてる」


 館長の声が少し掠れて、洋利の涙が本当に出た。萌愛花が慌ててのど飴を投げ渡す。


 「泣くなら、飴舐めてから!」


 光希は、三つの四角の上に大きく文字を置き、下に短い説明の枠を作る。陽咲が隣で言葉を整える。


 「一本目は……『月曜の身体は重いけど、ペダルは軽い』」


 「二本目は……鍵が落ちる音、って書くと音が聞こえるから」


 「三本目は……砂が降るって、どういう?」


 萌愛花が首を傾げた。陽咲は答えない。自分でも、どういうかは決めていない。ただ、見たことのない感想が出るなら、たぶんそれが正解だ。


 光希が淡々と入力していく。途中でプリンタが「ガガッ」と音を立てて止まった。館長が青ざめる。


 「ごめん、古いんだ。紙が——」


 「紙が、噛まれるのは、よくある」


 智砂が立ち上がり、プリンタの背面カバーを開けた。指先で紙を少しずつ引き出し、破らずに救う。まるで、客席の間を通るときの歩幅みたいに丁寧だった。


 「これ、上から入れると曲がる。下のトレイ使って。紙の残りは、二十枚ずつに分けて置く」


 言い終わると、智砂はスマホに「残り、二十六」と打ち直した。作業で一減ったらしい。


 第一刷りが、ゆっくり出てきた。白い紙に、黒い文字と、細い線。光希が最後に、右下に一本だけ、細い横線を引き足した。


 「それ、何?」


 陽咲が聞くと、光希はペン先を止めないまま言った。


 「水平線。館長の話、入れないと、嘘になる」


 館長が息を吸い、吐く。紙の上の一本線が、ロビーの灯りを少しだけ明るくした気がした。


 「……じゃあ、配りに行くか」


 洋利がチラシを抱え、萌愛花がメジャーをぶら下げ、星樹が地図アプリを開く。陽咲は手帳を閉じ、消さずに残った文字を指で撫でた。智砂は「四時間のうち、もう一時間」と言って歩き出す。


 最初の店は、線路沿いの小さな喫茶店だった。ガラス越しに見えるカウンターの上に、豆の瓶が並んでいる。陽咲が扉を開ける前に、萌愛花が先に顔を突っ込んだ。


 「すみませーん! 映画、三本立てます! 紙、置かせてくださーい!」


 店員が一瞬固まり、次に笑った。


 「三本立てるって、脚立ですか」


 洋利が吹き出し、光希が「映画です」と短く言う。陽咲は慌ててチラシを差し出し、説明を一言ずつ切る。


 「下北沢のミニシアターです。五月末に——」


 そこで言葉が詰まった。「閉館」と言うと、急に空気が重くなる。陽咲は代わりに、右下の一本線を指でなぞった。


 「……この一本線が、ここにある理由を、見に来てほしいです」


 店員はチラシを手に取り、右下を見て、頷いた。


 「レジ横、置いときます。常連に渡すとき、私が一言つけます。『水平線、見に行って』って」


 外に出ると、洋利が「今の、かっこよかった」と言い、萌愛花が「私の脚立ボケも良かったよね」と自分を褒めた。智砂が「残り、二十五。次」と言って歩道を急かす。


 二軒目は古着屋だった。店先のラックに、春物のコートが揺れている。陽咲が入ると、店主がすぐに気づいて手を振った。


 「お、昨日の手帳の子だ」


 昨日、萌愛花が勝手に話しかけて、勝手に仲良くなったらしい。陽咲が「覚えてるんですね」と言うと、店主はチラシを受け取りながら、紙の角をさっと見た。


 「この枠、いいね。映画って、服と似てる。三本選ぶって、朝の鏡の前と同じだ」


 萌愛花が「わかる!」と叫び、店主がラックから真っ赤なスカーフを取り出した。


 「これ、ロビーに飾って。水平線の横に、赤い風。客が『なんでここにスカーフ?』って聞いたら、説明できるだろ」


 館長がいない場で「ロビー」と口にするのが妙に自然で、陽咲は笑ってしまった。店主はスカーフを袋に入れ、チラシをレジ横に二枚並べた。


 「一枚はここ。もう一枚は、今日来る常連に渡す。説明は任せて」


 三軒目はパン屋だった。焼きたての匂いが路地まで押し出してくる。店の前で洋利が立ち止まり、深呼吸した。


 「ここ、危ない。匂いで泣ける」


 「泣かないで買って。泣くと塩分でパンがしょっぱくなる」


 萌愛花の言い分が雑で、星樹が小さく笑った。笑うとき、星樹は口元だけ動かす。目は、まだ緊張している。


 店員にチラシを渡すと、店員は「映画?」と眉を上げた。


 「うち、夜は早いんです。閉店が——」


 「夜じゃなくて、昼でも」


 光希が言った。パン屋のカウンターの上、透明ケースの中に並ぶ丸いパンを見ている。


 「昼に観て、夜に誰かに話したくなるやつです。紙の三本、そういうのにしました」


 店員はチラシの三本のタイトルを目で追い、ふっと笑った。


 「じゃあ、うちも一つだけ協力。袋に入れるとき、チラシも一枚入れます。『パンと一緒に水平線』って」


 外に出た瞬間、陽咲の手帳がポケットから滑り落ちた。アスファルトに開いたページが、風でぱらぱらめくれる。


 智砂がしゃがんで拾い、開いたままのページを見た。


 「……消してないんだ」


 陽咲は頷く。胸のあたりが、少しだけ熱い。まだ何も大きな結果は出ていない。ただ、紙を渡して、言葉を置いてきただけだ。それでも、手帳の文字は消したくなかった。


 ピンクサンドホライズンに戻ると、ロビーの扉の前に、見知らぬ人が立っていた。年配の男性がチラシを持ち、右下の一本線を指でなぞっている。


 館長が息を呑んだ。男性はゆっくり振り返り、紙を持ち上げた。


 「これ、今朝、パン屋でもらった。……水平線、見に来たんだが、席はあるかい」


 陽咲は、手帳の中で書いた小さな目標が、足元の床に実体を持つ瞬間を見た。光希が扉を押さえ、短く言った。


 「あります。今、増やしました」



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