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第29話 遅れて広がる拍手の音

 七月の第一週、金曜の夜。下北沢の路地は、いつもより少しだけ静かだった。静かなのに、ミニシアター「ピンクサンドホライズン」の前だけ、息が集まっている。入口のガラスに貼られた紙チラシの束が、風でぱらりと鳴った。


 列の先頭には、昨日の常連らしい男がいた。彼はポケットから同じ紙チラシを取り出し、端を指で整えながら、後ろの若い夫婦へ見せる。

 「これ。短いけど、泣くらしい」

 自分で言って自分で笑う。夫婦が「泣くのは映画の方ですか」と返し、男が「多分、両方」と肩をすくめた。


 ロビーでは、萌愛花が段ボールを開け、次々と差し入れを並べていた。近所のカフェの紙コップ、古着屋の店主が持ってきた小さな籠、誰かが包んだクッキー。包装紙の端に、店の名前が手書きで添えられている。

 「これ、置き方が大事。手前から甘い、しょっぱい、甘い。人間は交互が好き」

 萌愛花が真顔で言い、洋利が「交互が好き……!」と感動したように頷く。頷いた勢いで涙目になり、慌てて袖で拭いた。

 「泣くのはあと! 泣くのはスクリーン!」

 萌愛花が指で洋利の額を軽く弾き、洋利は「はい!」と背筋を伸ばす。背筋を伸ばしたまま、また笑いそうになる。


 陽咲は受付横の小さな机に手帳を開き、今日の欄を指でなぞった。

 「金曜 名前を呼ぶ」

 文字は消えていない。消さないと決めたから、手のひらが勝手に消しゴムを探そうとしても、探させない。代わりに、スマホのメモに残量を書いた。

 「……二十五」

 声に出したのは自分に聞かせるためだった。


 光希は映写室の階段を二段飛ばしで上がり、扉の前で足を止めた。走って上がる癖を抑えるみたいに、胸の前で一度だけ拳を握り直す。昨夜、館長が言った「長い夜になるよ」が、まだ耳の裏に残っていた。

 映写室の中では、パソコンの画面が白く光り、タイムラインが一本の川みたいに伸びている。光希は再生ボタンの上に指を置き、押さない。押さないで、隣の椅子に置いたUSBメモリを見た。小さな金属片が、今夜の席の数だけ重い。


 「光希」

 後ろから声がした。振り向くと、館長が立っていた。ネクタイが少し歪んでいる。館長は自分で気づいていない顔で、歪んだまま言った。

 「音、最後まで聞かせてくれ」

 光希は頷き、再生を押した。スピーカーから、桃砂町で拾った貝殻を転がす音が、わずかに鳴る。次に、ロビーの椅子が擦れる音。紙チラシが折れる音。声が重なって、最後に一瞬だけ、波の音が入った。

 館長は息を止めたように聞き、終わると小さく「うん」と言った。それだけで、光希の肩が一ミリだけ下がった。


 ロビーに戻ると、智砂が折り畳み椅子を数えていた。数えながら、途中で急に止まる。

 「……足りない」

 「また銭湯の椅子に手を出したら、今夜は君が番台に立つことになる」

 萌愛花が即座に言い、智砂は両手を上げた。

 「今日は合法。ちゃんと借りた。古着屋の倉庫から。店主が“これで座って泣け”って」

 言い方が強すぎて、全員が一度笑った。笑いが出たせいで、陽咲の胸の奥の固さが少しだけほどける。


 星樹は入口の外で、列の最後尾を見ていた。見ているだけで、手が動く。落ちている小さなゴミを拾い、ポケットに入れる。拾ったあと、何かを言いたそうに唇が動き、動いたまま止まった。

 陽咲は自分の足を一歩だけ前に出し、出した足で止まった。昨日の夜の言葉が、まだ温かいまま残っている。

 「星樹」

 呼んだ。呼んでしまった。呼んだ瞬間、残量が一気に減る気がしたのに、不思議と膝は笑わない。

 星樹が振り向く。ほんの少しだけ目を見開いて、それから、昨日より息がしやすい顔になった。

 「……はい」

 「上映、始まる。中、入ろう」

 陽咲はそれ以上言わなかった。言わない代わりに、入口のドアを押さえた。星樹が通り、次に洋利が通り、最後に館長が通った。館長が通るとき、陽咲は思わず「お願いします」と言っていた。誰に向けた言葉か、自分でもわからない。


 客席の灯りが落ちる直前、光希がロビーに降りてきた。手に持っているのはリモコンと、汗を拭いた跡のあるタオル。彼は陽咲の横に立ち、低い声で言う。

 「残量、いくつ」

 「二十五」

 「俺は……三十」

 数字を言うだけなのに、二人の間に椅子が一脚置かれたみたいに落ち着く。陽咲は息を吸って、吐いて、手帳を胸に押し当てた。


 館長が舞台前に立った。いつもより背が低く見えるのは、客席の数のせいだ。彼はマイクを握り、言葉を探す手つきで口を開く。

 「……今夜は、皆さんに一本だけ流します。途中で、投げなかった一本です」

 笑いが小さく起きた。洋利が鼻を鳴らし、萌愛花が肘で軽く止める。館長はそのやり取りを見て、少しだけ笑った。笑ってから、まっすぐ言った。

 「タイトルは、『感情のバッテリー』」


 スクリーンに光が走った。最初に映ったのは、ロビーの床を拭く手。次に、手帳のページ。紙チラシの束。下北沢の路地。桃砂町の淡い砂。画面の中の自分たちが、自分たちの声じゃない音で動いている。


 洋利が途中で肩を震わせた。笑いなのか泣きなのか、本人にも区別がつかない震えだ。萌愛花は紙コップをそっと床に置き、音を立てないように手を引っ込める。智砂はずっと前のめりで、エンドロールが近づくと、急に背もたれに背中をつけた。逃げるみたいに見えて、逃げないための姿勢だった。


 エンドロールの最後、桃砂町の水平線が伸びた。雲の切れ目の光が、薄い桃色を一筋だけ作る。館内は、息を止めたみたいに静かになった。

 拍手は、すぐには来なかった。

 来ないまま、数秒が伸びた。

 その数秒の中で、陽咲は自分の残量を思い出した。二十五。さっきより減っているはずなのに、胸の中に新しい電池が置かれたみたいに、熱が残っている。


 最初に手を叩いたのは、昨日の常連らしい男だった。彼は立ち上がらない。座ったまま、両手を合わせる。乾いた音じゃない拍手が一つ、二つと増え、遅れて波になった。

 洋利が堪えきれず「うわあ……」と声を漏らし、萌愛花が「声、拾われるから!」と囁いて笑わせる。笑いながら、洋利は泣いていた。


 照明が戻ると、館長は壇上から降りて、客席の通路に立った。マイクを持っていないのに、声は届いた。

 「……明日で、ここは終わる予定でした」

 その言い方は、強がりじゃなかった。言い訳でもなかった。紙に書かれた文字を、そのまま口に出しただけの声だった。

 「でも、今夜の席を見たら、探していい気がしました。閉めない方法を。……まだ、探していいですか」

 答えは拍手だった。今度は遅れない。すぐに広がる。波が、もう一度来た。


 光希は客席の最後列で、手を叩きながら陽咲を見た。陽咲も手を叩きながら、手帳の閉じた表紙を指で押さえている。押さえないと、胸から何かが溢れてしまいそうだった。

 星樹は通路の端で、誰よりも深く頭を下げた。下げたまま、手を叩いた。頭を下げたまま叩く拍手は、少し不格好で、だからこそ真っ直ぐだった。


 ロビーに戻ると、差し入れの山が少し減っていた。紙コップの数が減った分だけ、人の手がここに来た証拠が増えている。

 萌愛花が山の間に顔を突っ込み、「足りる? 足りるよね?」と数を数え、智砂が「足りなかったら俺が走る!」と叫び、洋利が「走る前に泣く!」と叫び返す。笑いが起きる。笑いが起きても、スクリーンの水平線は胸の奥に残ったままだ。


 館長が受付の奥で、小さく息を吐いた。吐いた息が、初めて軽かった。光希はそれを見て、映写室の階段を見上げる。階段の先には、まだ続きがある。続きがあるなら、編集の順番も、言葉の順番も、また覚えられる。



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