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第28話 「ここに居させてくれ」の置き場所

 七月の第一週、木曜の夜。下北沢の駅前の喧噪が少し薄まるころ、ミニシアター「ピンクサンドホライズン」のドアは、まだ開いていた。ガラスの向こうに、折り畳み椅子が壁に沿って積まれ、床のテープがいつもより丁寧に貼り替えられている。


  入口の外、古着屋の店主が紙袋を抱えて立ち止まり、ロビーをのぞき込んだ。

 「明日の分、これ。店の倉庫に転がってた椅子のクッション」

 「助かります。尻が痛いと、いい映画でも途中で立つんで」

  智砂が真面目な顔で言い、すぐに自分で笑った。店主は「言い方」と呟いて紙袋を置き、代わりに「ちゃんと返せよ」とだけ言って去っていく。貸し借りの言葉が短いのが、この町の優しさだ。


  カフェの店員も、閉店の札を下げた帰り道に寄って、メモだけ残した。「明日の夜、冷めても香りが残る豆、持っていきます」。萌愛花がそれを見て、声を上げそうになり、口を手で塞いだ。叫ぶと嬉しさが逃げる気がして、息だけが忙しくなる。


  上映が終わると、客はいつものように二、三言だけ感想を落として帰っていった。だが今夜は、靴音が遠ざかっても、ロビーに残る影があった。紙チラシを折り目のまま握りしめた若い夫婦と、古着屋のレジ横からそのまま来たみたいな常連らしい男が、ポスターの前で足を止めている。

 「明日って、あれだよね。短いの、やるって」

  常連らしい男が、掲示の文字を指でなぞる。「金曜夜 短編『感情のバッテリー』」。紙の角が少し擦れているのは、何度も見返した証拠みたいだ。


  光希はカウンターの端に腰を預け、スマホのメモを開いた。そこに「感情のバッテリー:18」と打ち込み、すぐに消しそうになって指を止めた。消しても減るのは同じだ。今日は編集の仕事の納期と、明日の上映準備と、誰にも言っていない不安が、順番を奪い合っている。

 「……椅子、数え直すか」

  声に出すと、言葉の角が少し丸くなった。


  陽咲は入口の横で、手帳を開いていた。ページの端に小さく「木曜 帰る前に一つだけ」と書いて、消さずに丸で囲む。書いた瞬間、肩が少し下がる。その動きを見て、光希は自分の喉の奥を押さえるのをやめた。


  萌愛花は、差し入れ用の紙袋を机の下に押し込みながら、口を開きかけて閉じた。しゃべりたいのが喉まで上がっているのに、今夜はあえて飲み込んでいる。洋利は折り畳み椅子の脚を拭きながら、笑った顔のまま目を潤ませていた。智砂は、壁のテープを指で押さえ直し、貼り直しが終わるたびに小さく拍手してみせる。拍手の音が一人分だから、妙に可笑しくて、誰かがふっと息を漏らした。


  そして、星樹はモップを立てかけたまま、ロビーの中央に立っていた。いつもなら端で、黙って床を見ている。だが今夜は、床じゃなく、人の顔を見ている。胸のあたりに、ノートの角が当たっているのが、シャツの上からわかった。

  彼のスマホの画面には、昼間に打った数字が残っている。「感情のバッテリー:32」。三十を切っていないのに、足が重かった。数字は便利だが、怖いものの名前までは書いてくれない。


  常連らしい男が、星樹の方をちらりと見た。視線が、記憶をなぞるみたいに止まり、また動く。五月のある金曜、ロビーで声がぶつかった夜の残り香が、空気に戻ってくる。


  星樹は一歩前に出た。靴底が床をこすり、音が広がる。彼は喉を鳴らし、言葉を探すように口を開いた。

 「……少し、いいですか」

  館長が受付の奥から顔を出す。眉が揺れたが、何も言わずに頷いた。頷き方が、今まででいちばんゆっくりだった。


  星樹は、ロビーに残った人たちへ向き直った。腰を折るのではなく、まず背筋をまっすぐにした。逃げない姿勢が先に来て、頭を下げるのはそのあとだと、身体が覚えたみたいに。

 「俺が、録音データを外に渡しました」

  言い切った瞬間、萌愛花が息を吸った。洋利の手が椅子の脚で止まる。陽咲の手帳の紙が、指の下で小さく震えた。


  星樹は続けた。言い訳の形にする前に、言うべき順番を守るみたいに。

 「頼まれて、見に来て……俺は、ここを残したいなら早い方がいいと思って、勝手に動いた。結果、ここを傷つけた。……俺がやった」

  声は大きくない。けれど、床のテープが貼り替えられたばかりのロビーに、その言葉だけが落ちて残った。


  若い夫婦が顔を見合わせた。紙チラシを握っている手が、少しだけ緩んだ。常連らしい男は、眉をひそめたまま、口元だけが動くのを我慢している。


  星樹は、そこでようやく頭を下げた。深く、長く。額の先が床に届きそうな角度で止まる。

 「許してくれ、とは言わないです。許されるかどうかは、俺が決めることじゃない。……ただ、ここに居させてほしい。掃除も、椅子並べも、配る紙も。手を動かして、ここに居たい」

  言葉の最後が、少し掠れた。掠れたのは弱さじゃなく、息が足りないからだ。息が足りないほど、今日は逃げずに立っていた。


  沈黙が伸びる。伸びた沈黙の端で、智砂が思わず口を開きかけたが、陽咲が視線だけで止めた。止め方が強くない。少しだけ、待ってと伝える形だ。


  常連らしい男が、ふっと笑った。笑いは小さく、しかし乾いていない。彼はポケットから紙チラシを取り出し、指でトントンと叩いた。

 「じゃあさ」

  全員の視線が集まっても、男は怖がらなかった。むしろ、ロビーの壁に貼られた「映画3選」の文字を指で指す。

 「その代わり、次は三本じゃなく、一作で泣かせて」

  言ったあと、彼自身が先に肩を揺らした。


  笑いが、遅れて波のように広がった。萌愛花が「それ、ハードル上げるのやめて!」と声を上げ、洋利が「泣く準備はもうできてる!」と涙目で返す。智砂が拍手を煽り、今度は一人分じゃなくなる。若い夫婦も、ぎこちなく笑って頷いた。館長が、受付の奥で口元を手で隠しながら笑っているのが見えた。


  星樹は、頭を下げたまま、肩の力が抜けていくのを感じた。許されたわけじゃない。けれど、今この場で、呼吸していい、と言われた気がした。彼はゆっくり顔を上げ、肺の奥に残っていた空気を、ようやく吐いた。

  吐いたあと、彼は自分のノートを胸から取り出し、開いたページを館長の方へ向けた。そこには日付ごとに、配った紙チラシの残り枚数と、返ってきた感想の短いメモが並んでいる。最後の行だけ、太い線で書かれていた。

 「今日、相手の端末から、音声も消しました。確認の画面、録ってます」

  館長は頷き、言葉より先に、指でページの端を軽く押さえた。押さえ方が、紙が飛ばないように、という優しさだった。


  若い夫婦が、掲示を見上げて言った。

 「明日の上映、子どもは……」

  陽咲が一歩出るより先に、星樹が小さく首を横に振った。

 「明日は夜で、音も暗さも強いです。子どもなら、席の端を取って、途中で外に出られるようにした方がいい」

  言ったあと、慌てて光希を見た。余計なことを言ったかもしれない、と目が揺れる。

  光希は首を振る。

 「それ、助かる。言う順番も、ちょうどいい」

  自分で言いながら、光希は少し驚いた。順番を褒める言葉を、自分が口にする日が来るとは思っていなかった。


  客が帰り支度を始める。靴紐を結ぶ手が、さっきより落ち着いている。常連らしい男はドアの前で振り返り、星樹に指を一本立てた。

 「明日、泣けなかったら、また言うから」

  脅しにも聞こえる言い方なのに、ロビーの空気は軽かった。


  最後の客が出ていくと、館長が照明のスイッチに手をかけ、言った。

 「明日は、長い夜になるよ」

  萌愛花が腕まくりをして返す。

 「長い夜でも、途中で座れる椅子、ありますから」

  その言い方が可笑しくて、光希は小さく笑った。笑いながら、椅子の数を数え直す。ひとつ、ふたつ。数えるたびに、明日の席が、少しずつ形になる。


  陽咲は手帳の端に、もう一つだけ書き足した。

 「金曜 名前を呼ぶ」

  消さない。消すと、また迷子になるから。



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