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第27話 レジ横の一枚、手のひらの一枚

 七月の第一週、火曜の朝。下北沢の駅の改札を出ると、湿った空気が頬に貼りついた。雨は落ちていないのに、路地の看板の縁だけが光って見える。


 「最終版、五百枚。紙、ちょっと厚い」

  光希は段ボール箱の角を指で叩いた。箱の中に、まだ温度の残る紙が詰まっている。印刷屋の人が「乾くまで重ねすぎないで」と言っていたのを思い出し、彼は箱のふたを少しだけずらして風を入れた。


  陽咲はその横で手帳を開く。紙の匂いを吸い込むみたいに、一度だけ深呼吸をした。

 「今日の小さな目標。……店の人に、ひと言で伝える」

  言い終えると、消しゴムを取り出しそうになって、やめた。代わりにスマホのメモを開き、「感情のバッテリー 42」と打つ。数字の後ろに、丸をつけない。


  洋利は箱の中からチラシを一枚抜き、指の腹で文字をなぞった。

 「これ……俺、泣くところ、まだ早いよな?」

  言いながら、もう目尻が赤い。萌愛花がすかさず、洋利の肩に肘を載せた。

 「早い早い。泣くのは、客が拍手してから。今は配る。はい、配る」

  萌愛花は自分にも言い聞かせるみたいに、同じ言葉を二回繰り返した。


  智砂は箱のふたを開けたまま覗き込み、勝手に数を数え始める。

 「一、二、三……これ、駅前で配ったら、すぐ終わるじゃん! ね、今から配っ――」

 「だめ」

  陽咲の声は小さいのに、はっきり止まった。智砂が目を丸くする。

 「ここは、店の人が渡す。……そう決めた」

  智砂は唇を尖らせたまま、次の瞬間には手を叩いた。

 「じゃあ、店の人に渡す! 俺、得意! いま、バッテリー何%だっけ!」

  言い終えたあとで、スマホを取り出し、慌てて「31」と打ち込む。ぎりぎりの数字に、自分で笑ってしまう。


  星樹は少し離れた壁際で、袋の口を結び直していた。透明の袋の中に、チラシの束がきっちり入っている。結び目がほどけないように、二回ねじり、三回目で止める。

 「……俺、古着屋、行く。あと、カフェも。帰りに、ロビー掃く」

  言葉を並べるだけで、言い訳が混ざらない。光希はそれを見て、うなずくだけにした。


  六人は、店ごとに分かれた。

  陽咲と光希は、線路沿いの小さなカフェへ向かった。ガラス扉の内側に、豆の香りが溜まっている。カウンターの上に、季節の焼き菓子が並び、店員がその札を書き換えていた。


 「こんにちは。ピンクサンドホライズンの……」

  陽咲が言いかけると、店員が顔を上げた。以前、陽咲が「上映後のロビーは走らない約束にしましょう」と言ったとき、頷いてくれた人だ。

 「また金曜のやつ?」

  店員は笑って言い、手を洗う前の濡れた指先で、チラシの束を受け取った。


  光希が一枚を差し出し、言葉を選ぶみたいに間を置いた。

 「閉館予定日の前夜。ここで、短編を上映します。……約束として」

  店員はチラシの上段を指で叩き、目を細めた。

 「説明は任せて。レジ横に置くだけじゃなくて、コーヒー渡すときに言う」

  その「言う」が、頼もしい音で落ちた。陽咲は胸の中で、42の数字が少しだけ上がるのを感じる。スマホを開き直しはしない。ただ、息が軽くなる。


  店の常連らしい女性が会計に来て、店員がいつもより一拍長く言葉を置いた。

 「今度の金曜、ミニシアターで短い映画やるんだって。よかったら」

  女性はチラシを受け取り、紙を指で挟んだまま首を傾けた。

 「短いって、どれくらい?」

  陽咲は反射で前に出そうになったが、光希が先に答えた。

 「十五分。……たぶん、あなたの帰り道と同じくらい」

  言ったあとで、自分の言い方を反省して口をつぐむ。女性は笑った。

 「帰り道、長いのよ。じゃあ、観に行く」


  カフェを出ると、光希は小さく肩を落とした。

 「俺、また余計な比喩した」

 「余計じゃない」

  陽咲は言い切ってから、手帳を開いた。さっき書いた一行の下に、さらに小さく書く。

 「今日の小さな目標② 相手の言葉で返す」

  書いたあと、消さない。


  一方、駅前の古着屋では、洋利と星樹が店主の前に立っていた。店内はエアコンが効いていて、ハンガーの金具だけが冷たい音を立てる。洋利はチラシを渡すとき、なぜか両手で差し出した。

 「……これ、俺たちが作った短い映画で……」

  声が震える。店主が手を止め、洋利の顔を見た。

 「泣くな。まだだ」

 「すみません」

  洋利は鼻をすすり、笑ってごまかそうとしたが、笑いも濡れていた。


  店主はチラシを一枚だけ抜き、レジ横の透明なスタンドに差し込んだ。残りの束を軽く持ち上げ、棚の上に置く。

 「一枚は俺のレジ横。もう一枚は常連の手に。……この紙は、ちゃんと手に渡す」

  言い終えると、店主は星樹の方をちらりと見た。星樹は目を逸らさず、短く頭を下げる。

 「……お願いします」

  それだけで、背中に余計なものを乗せない。


  常連の男性がTシャツを手に取って会計に来た。店主はレジを打ちながら、チラシを一枚滑らせる。

 「金曜の夜、あのミニシアターで。席、埋めに来い」

  常連は「席?」と笑い、チラシの文字を追った。

 「お前、映画なんか観るのか」

 「観る。……こいつらが、手で配ってるからな」

  店主の言葉に、洋利がとうとう頬を押さえた。泣きが出る前に笑いが出て、本人も困った顔のまま肩を揺らす。星樹はその横で、袋の結び目をもう一度確かめた。


  夕方、六人はロビーに戻った。紙の束が減った分だけ、段ボールが軽い。智砂は自分のスマホを見せびらかすように突き出した。

 「見て! バッテリー、29! 俺、今日、断っていい?」

  萌愛花が即座に言う。

 「いい。断っていい。だから今、椅子を二脚だけ運んで帰れ」

  智砂は「二脚なら!」と叫び、勢いよく運び始めた。椅子の脚が床に当たりそうになるたび、陽咲が手を伸ばし、そっと角度を直す。


  光希はロビーの掲示板に、カフェと古着屋から戻ってきた空欄を埋めた。店員が言った言葉、店主が言った言葉。短く書く。余計な飾りを削る。

 「……俺たちが話すより、店の人が言う方が、刺さるな」

  光希の声は、悔しさより先に安堵が混じっていた。


  陽咲はロビーの窓に映る自分を見た。手帳の紙が、胸の前で小さく揺れている。

 「刺さる、って言い方……」

  言いかけてやめ、代わりに笑った。

 「届く。……届くって言おう」


  館長が奥から出てきて、掲示板を見た。指で文字をなぞり、ゆっくり息を吐く。

 「店が、味方になってる」

  その言い方が、いつもより柔らかい。洋利が胸を押さえ、萌愛花が「泣くな、まだだ!」と自分に言っている。星樹はゴミ袋を持って、何も言わずにロビーの隅へ向かった。


  光希は、掲示板の下に小さく貼った一枚を見直す。上映前夜の日付。その横に、手書きで書いた一行。

 「約束」

  紙は軽い。でも、今日手渡された言葉が、その軽さを支えている。


  陽咲はスマホを開き、42を「44」に書き換えた。自分の小さな目標の達成の丸ではない。店の人の「任せて」の分だ。

 「……帰り道、長い人、来るかもしれないね」

  陽咲が言うと、光希はうなずいた。

 「長いなら、なおさら、途中で座れる椅子を並べよう」

  言葉の順番が、今日はちゃんと前に出た。



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