第26話 泣いたら化粧落ちるんだけど!
六月の第四週、水曜の夜。下北沢の商店街が店じまいの音を立て始めるころ、ピンクサンドホライズンの看板だけが、まだ点いていた。シャッターは半分降りているのに、扉の隙間から、薄い光がこぼれている。
ロビーの片隅では、映写機のファンが低く唸っていた。光希は外付けの小さなSSDを胸ポケットから出し、握りしめたまま一度だけ目を閉じる。徹夜の目の奥に残るタイムラインの線が、ここではスクリーンの光に変わる。
「今日、最後の確認する。……完成って言っていい形」
光希はそう言って、鍵のかかった扉を内側から押した。外の湿った風が一瞬だけ入り込み、ロビーの古いポスターが、ひらりと揺れる。
陽咲は手帳を開いたまま、ロビーの椅子に座っていた。ページの端に小さく書かれた文字は、消しゴムの跡で少しだけ薄い。
「今日の小さな目標、三つ。①『音が割れたら止める』って言える。②館長に、上映前に一言もらう。③終わったら、拍手を先にしない」
「三つも?」
「三つが、ちょうど五分くらい」
陽咲は笑って、手帳を閉じた。閉じるときの音が、妙に頼もしい。
館内のスクリーンには、まだ真っ暗な画面が広がっている。洋利が床に膝をつき、音声ケーブルを一本ずつ指でなぞっていた。さっきから息を吸っては止め、吐いては首をすくめる。
「ごめん。これ、また抜けるかもしれない」
「抜けたら、抜けたって言え。そこで止める」
光希の声は、怒鳴る直前の硬さを捨てていた。洋利はそれを聞いた瞬間、目を丸くしてから、うなずいた。
「……うん。止める。俺が言う」
智砂は客席の端で、座席の背もたれを叩いていた。叩くと言っても、拳ではなく指先で、トントンとリズムを作っている。
「この席、ここだけギシギシ言う。上映中に鳴ったら、ホラーだよ」
「ホラーにする予定はない」
光希が即答すると、智砂は「了解!」とだけ返して、席を一つずつずらし始めた。誰に言われたわけでもないのに、音のしない場所へ、自然に客席の流れを整えていく。
萌愛花はロビーで、紙袋をいくつも広げていた。袋の中から出てきたのは、ロケ弁の残りではなく、ウェットティッシュと、化粧直しの小さな鏡、それから差し入れの飴玉だった。
「今日は泣かないでね、みんな。泣いたら化粧落ちるんだけど!」
誰も化粧をしていないのに、萌愛花の言い方だけで、客席に薄い笑いが走った。
星樹は、いつものように一番後ろの列に立っていた。座らない。座れば、誰かの隣になる。隣になれば、言い訳が増える。そんな理屈が、背中から見える。手にはノートではなく、黒いゴミ袋を持っている。客席の端に落ちていた紙くずを、さっき拾ったのだろう。
陽咲は、振り向きたいのをこらえて、スマホのメモを開いた。画面には、数字だけ。
「感情のバッテリー、いま……四十」
「俺は、六十五」
智砂が手を上げる。洋利は小声で「三十五」と言い、萌愛花は「五十、化粧込み」と意味のわからない補足をつけた。
光希は一瞬だけ考えてから、スマホに打ち込んだ。
「二十八」
「……今日は、断っていいルール」
陽咲が言う。声はやわらかいのに、言葉だけがまっすぐだ。
「断らない。ここで、止めない。……ただ、途中で止める。音が割れたら止める。俺が言う」
館長が客席の中央に立った。いつもロビーで見せる「仕事の顔」ではなく、手をどこに置けばいいのかわからない人の顔をしている。喉を鳴らし、マイクもないのに、少しだけ声を張った。
「閉館の貼り紙を出した日から、こんな夜が来るとは思いませんでした。……今日は、皆さんの短編の、試写です」
試写。その言葉が出た瞬間、陽咲は②を達成したと思って、こっそり指で丸を作った。光希は見えないふりをした。
照明が落ちる。スクリーンが息を吸うように明るくなり、下北沢の路地が映った。朝の光、夜のネオン、古着屋のレジ横のチラシ。紙がめくれる音が、映像の外から聞こえてくる。
光希は、編集室の椅子で見ていたときと違って、ここでは一つも早送りできない。客席の沈黙が、背中に重い。陽咲の手帳が、膝の上で一度だけ鳴る。閉じたままなのに、紙が空気を吸っているみたいだ。
途中で、洋利が息を吸った。音のピークが少しだけ立ったのだ。光希は心臓が跳ねるのを感じる。だが、洋利は何も言わない。代わりに、手元のつまみをほんの少し回した。音が、すっと丸くなる。
光希は、怒鳴りたい衝動が消える感覚を初めて知った。誰かが正面から受け止めていると、口は案外、黙れる。
終盤、桃砂町の砂浜が映った。曇り空の下で淡い桃色に見える砂。その上に指で書かれた文字が、波で少しずつ崩れていく。
――感情のバッテリー。
映像の中では、誰の声も説明をしない。ただ、手が動いて、砂が動いて、水平線が伸びる。
最後のカットが暗転し、しばらくしてから、エンドロールが流れた。名前の並びはまだ仮のまま。けれど、客席は誰も立たない。館長が、最初に息を吐いた。次に、吸う音が聞こえる。その吸い方が、どこか震えている。
照明が戻ったとき、館長の頬に、濡れた線が一本あった。袖で拭うのが遅れ、拭ったあとも、目の赤さだけが残る。
「……この砂の色を、やっと見た」
館長はそう言って、スクリーンの方を見たまま笑った。笑いなのか、泣きなのか、判別できない顔だ。
その瞬間、萌愛花が立ち上がった。
「ちょっと館長! 泣いたら化粧落ちるんだけど!」
館長は一拍遅れて、目を瞬いた。それから、声にならない笑いを漏らし、肩を揺らした。客席の笑いが、堰を切ったように広がる。洋利が耐えきれず鼻をすすり、智砂が「ここ、泣き笑い席!」と勝手に札を作る仕草をした。
陽咲は③を思い出し、拍手を先にしなかった。代わりに、胸の前で指を握りしめ、息を整えた。笑いが落ち着いたころ、ゆっくりと手を叩く。音が一つ鳴り、二つ鳴り、波になる。
光希は、その波の中で、スマホの数字を見直した。二十八のままだ。なのに、胸の奥だけが、少しだけ温かい。
「……館長。これ、もう一回だけ、直す。直したら、ちゃんと約束の形にする」
光希が言うと、館長はうなずいた。うなずき方が、映画を観終えた人のそれだった。
星樹が一歩前に出た。手にしていたゴミ袋を、客席の隅に置く。置き方が丁寧すぎて、逆に目立つ。
「……終わったら、俺、ロビー掃く。明日の朝も来る」
それだけ言って、また後ろに戻ろうとした。
陽咲は、その背中に届くように、短く言った。
「明日は、私も来る。小さな目標、ひとつ増やす」
星樹は振り向かない。代わりに、右手の指先だけが、ほんの少し動いた。丸の形にはならない。でも、逃げる形でもない。
ロビーに戻ると、萌愛花が飴玉を配り始めた。
「はい、糖分。感情のバッテリー、急速充電!」
智砂が飴を二つ取って怒られ、洋利が「俺、泣く前に舐める」と宣言し、館長が「館内は飲食禁止……いや、今日は特別」と言いかけて、言葉を飲み込んだ。
光希は、その飲み込んだ言葉の順番まで、きっと映像にできると思った。そう思った瞬間、二十八の数字が、ほんの少しだけ軽くなる。




