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第25話 スープの湯気と、言葉の順番

 六月の第三週、土曜の夜。下北沢の駅前を抜け、細い路地の先にある雑居ビルの三階で、光希は鍵を回した。扉の向こうから、機械が唸るような低い音が漏れてくる。編集用のPCが、昼からずっと動きっぱなしだった。


 蛍光灯を点けると、白い壁に映像の色が跳ねた。画面いっぱいに、桃砂町の淡い砂が広がる。曇り空の下で、波が砕けるところだけ、ほんの少し明るい。タイムラインには色の違う帯が幾層にも重なり、光希の指先が動くたび、画面の下の小さな波形が跳ねた。


 「……これ、いい」


 陽咲の声は、褒めているのに小さかった。机の角に、彼女の手帳が開かれている。ページの端に、短い箇条書きが並ぶ。


 『1 今日、砂の色を一回だけ言い切る』

 『2 館長の手の動きを一回だけ撮る』

 『3 疲れたら残量を書く』


 光希はマウスを動かし、タイムラインを少し戻した。館長が黙って貝殻を拾い、指先で砂を払う。その手元に、陽咲のカメラが寄っていく。寄った瞬間、砂の粒が、光の粒みたいに見えた。


 「寄りすぎじゃない? 手、切れるぞ」


 口に出してから、光希は舌を噛みそうになった。陽咲は画面を見たまま、肩だけすくめる。彼女の指はリュックのポケットからスマホを探り当て、メモを開く。


 『感情のバッテリー 5』


 数字が打たれた瞬間、光希の視線が止まった。規則なら、三十を切ったら帰る。六人で決めたはずだ。決めたのに、彼女はここにいる。椅子に座りっぱなしで、瞬きも少ない。


 「……五って、冗談だよな」

 「冗談なら、今すぐ二桁にする。……でも、今日は無理」

 「無理なら、帰れ」

 「帰ったら、明日の撮影が迷子になる」


 陽咲は手帳を指で叩いた。明日のページには、路地の地図と、撮影の順番が細い字で書かれている。光希は言い返しかけて、息を吸った。いま何を言っても、言葉が尖る。尖った言葉は、あとで編集できない。


 机の上には、空の紙コップが三つ転がっていた。コーヒーの匂いが、甘く焦げている。陽咲のほうのコップは、縁に口紅の跡が残っていない。飲む余裕もなかったのだ。


 「……三十を切ったら断っていいって、俺たちが言い出したのに」

 「うん」

 「言い出した本人が、五で座ってるの、反則だろ」

 「反則。……でも、反則しないと、守れない日もある」


 陽咲はそれだけ言って、また画面に戻った。タイムラインの端にある、赤いマーカーを指さす。


 「ここ。星樹の背中、もう少し長くして。モップの音、残して」

 「……モップ、いる?」

 「いる。音があると、嘘が減る」


 光希はイヤホンを片耳に差し、再生した。モップが床を擦る音は、映像より正直だった。音の上に被せる予定のナレーションが、急に浮いて聞こえる。光希は切り貼りの癖で、ナレーションを消してみた。すると、画面の空気が少しだけ重くなった。重いのに、見ていられる。


 「……台詞、いらないかもな」

 「うん。言葉が多いと、逃げ道が増える」

 「お前、五のくせに、鋭いな」


 陽咲は口の端だけで笑った。笑い方が小さすぎて、笑っているのかどうかも曖昧だった。光希はその曖昧さが怖くなった。崩れる前の薄い氷みたいで、踏み込みたくない。


 光希はジャケットのポケットからコンビニ袋を出した。さっき、駅前で買った。袋の中のカップが、まだ少し温かい。彼は机の端を片づけ、紙コップをゴミ袋に放り込んでから、カップを置いた。


 「はい」

 「なに」

 「スープ。……あったかいやつ」


 陽咲は袋を覗き込み、眉を上げた。コーンポタージュの黄色い蓋が見えた。


 「これ、映画館のロビーで配りたい匂い」

 「配るな。編集室でやれ」


 陽咲が小さく吹き出した。笑い声が喉の奥で切れて咳に変わる。光希は椅子の背を叩き、彼女の背中を軽く押した。


 「飲んで。……そのあと、寝て」

 「命令?」

 「……違う」


 光希は、言葉の並べ方を探した。頭の中で、同じ素材を何度も切り貼りする。感情の順番を間違えれば、伝わるものも伝わらない。彼はタイムラインの再生を止め、画面を暗くした。部屋が静かになる。静かすぎて、二人の呼吸が聞こえる。


 「今日、ここまでやってくれて、助かった」

 「うん」

 「だから、今日は寝て」

 「……うん」


 陽咲はスープの蓋を開け、湯気を吸い込んだ。湯気が眼鏡の端を曇らせ、彼女は指で拭く。スープをひと口飲んだあと、手帳の余白に、震える字で書いた。


 『目標 今日は、寝る』


 光希は、思わず笑ってしまいそうになった。笑ったら、彼女がまた頑張ろうとする。だから、笑いを飲み込む代わりに、椅子を引き寄せた。


 「明日、君の目標から決めよう」

 「……私の?」

 「そう。俺は、編集の目標しか立てられない。カットの数とか、音の高さとか。……でも、君が立ててた小さなやつ、あれがないと、現場が散らかる」


 陽咲はスープを置き、両手を膝に乗せた。膝の上で、指が少しだけ動く。彼女はそれを押さえつけるみたいに、ぎゅっと握り込んだ。


 「光希、今日、言い方が変だった」

 「どのへん」

 「最初に『帰れ』って言った」


 光希は喉の奥が熱くなるのを感じた。さっきの尖った言葉が、戻って刺さる。けれど陽咲は責める顔をしなかった。手帳を閉じ、閉じた手帳の上に自分の手を置いただけだった。


 「次は、順番を変えて」

 「……次は、最初に『助かった』って言う」

 「うん。そしたら、私も帰れる」


 光希は、もう一度だけタイムラインを開き、先頭のカットに戻した。四月のロビー。閉館の貼り紙。自分の声が入った録音。あのときの一言が、いまも画面の端で光っている気がした。言葉の順番を間違えたまま走ると、誰かが倒れる。倒れたら、客席を埋める前に、ロビーが空になる。


 陽咲のスマホが震えた。画面には、萌愛花のメッセージが表示される。


 『まだ起きてる? ロケ弁、明日の分、増やしたよ。二人分、甘いパンも入れた。言い訳は禁止!』


 陽咲が画面を見せる。光希は鼻で笑いそうになり、今度はちゃんと笑った。陽咲も、少しだけ口角を上げる。


 その直後、もう一件、通知が来た。今度は星樹だった。


 『外に渡ってたデータ、全部消した。明日朝、館長に説明の紙を持っていく。読みたかったら、先に光希にも渡す』


 光希は一瞬、返事を書きかけた。だが画面の横に、陽咲の「5」が残っている。彼はスマホを伏せ、陽咲に言った。


 「返事は明日でいい」

 「星樹に?」

 「星樹にも。……俺にも」


 陽咲はスープを飲み切り、蓋を閉めた。カップの温度だけが、机の上に残っている。


 「ほら、言い訳禁止だって」

 「言い訳しない。……寝る」


 陽咲は椅子から立ち上がり、リュックを背負った。立ち上がった瞬間、足元がふらつき、光希が反射で腕を出す。陽咲はその腕に触れ、すぐに離れた。


 「送る」

 「駅まででいい。……駅までなら、迷子にならない」


 光希は鍵を取った。消した画面の黒に、自分の顔が薄く映る。そこに、陽咲の影も重なった。彼は、言葉の順番をもう一度、頭の中で並べ直す。


 扉を開ける前に、光希は短く言った。


 「ありがとう」


 陽咲は振り向かず、指だけで小さく丸を作って見せた。その丸が、彼らの合図になっていることを、光希はもう知っている。



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