第24話 消えたデータと、短い「手伝え」
六月の第三週、火曜の夜。下北沢の路地は、昼間の熱がまだ石畳に残っていて、古着屋の看板の影だけが涼しげに伸びていた。
ピンクサンドホライズンの裏口は、館長が自分で打ち直したという小さな鍵が一本ぶら下がっている。星樹はその鍵を借り、ひとりで入った。朝から続けている清掃で、モップの水はもうぬるい。彼はバケツを替え、ロビーのガラスを拭く布を、指先で折り直した。
開館していない時間のロビーは、映画の余韻が薄い代わりに、音の粒がはっきりする。蛍光灯の微かな唸り、冷蔵庫のコンプレッサー、外の踏切の警報。
その中に、スマホの着信音が割り込んだ。星樹は反射でポケットを探り、見えた表示で手を止める。登録名は、館長の机で見た名刺と同じ会社名だった。
星樹は胸の奥が固くなるのを感じ、親指の腹で画面を滑らせた。
「もしもし」
『やあ、先日は助かったよ。あのロビーの録り、評判がいい。追加で欲しいデータがある』
相手の声は、丁寧な調子のまま、最初から結論に向かっている。
『全編の生データ。それと、客席の顔が映ってるところは、こっちで加工するから問題ない。君は送るだけでいい』
星樹は、モップの柄を握っていた手を離した。指が、少しだけ震えた。ロビーの冷えた空気が、喉の奥まで上がってくる。
送るだけでいい。
その言葉は、昔の自分が好きだった言い方に似ていた。簡単で、速くて、誰かの手間が見えない。
星樹は息を吸い、吐いた。スマホのメモを一瞬だけ開き、そこに打った数字を確認する。「感情のバッテリー 33」。三十を割っていない。まだ、立っていられる。
彼は口を開く前に、ロビーの壁に貼られた今週のチラシを見た。紙の角が、誰かの指で何度も撫でられたように少し丸くなっている。陽咲の字で、「前夜」とだけ、迷いなく太く書いてある。
「……もう、渡せません」
『え? 君、何を言ってる。君は——』
「俺がやったんです。勝手に。だから、もう渡しません」
星樹は、自分の声が思ったより低いことに驚いた。相手の沈黙が、逆に言葉を引き出してくる。
「館長にも、客にも、渡すって約束してないものを、外へ出した。だから、これ以上は——」
『君の都合で話を終わらせるのか? こちらは——』
「都合です。俺の都合で止めます」
言い切った途端、耳が熱くなった。電話の向こうで、相手が息を吐く気配がした。
『わかった。じゃあ最後に一つ。君が渡した分、削除してるよな? 残ってたら、また漏れる。君は責任を取れるのか』
星樹は口の中が乾いた。責任、という言葉に、逃げ道がないのは知っている。
彼は黙って通話を続けたまま、ロビーの隅に置いてある折り畳み机へ行き、ノートパソコンを開いた。画面が立ち上がるまでの数秒が長い。
その間、彼の視界の端に、編集用のバッグが置かれているのが見えた。光希のものだ。今日は仕事の合間に寄ると言っていた。
パソコンが起動し、フォルダの一覧が現れる。星樹は「ロビー録り」と名前をつけたフォルダを開いた。ファイルは、思っていたより多い。音声、映像、編集前の断片。どれも、誰かの声の温度が残っている。
彼は、送ってしまった分と同じ番号のファイルを選択し、一つずつチェックを入れた。指が汗で滑り、クリックが少し遅れる。
削除ボタンを押す前に、星樹はもう一度、スマホのメモを見た。「感情のバッテリー 31」。減っている。減るのが当たり前だと思った。
『どうだ?』
「……今、消します」
『確認画面が出るだろ。スクリーンショットを送れ』
星樹は一瞬だけ眉を寄せた。だが、ここで意地を張ると、余計な言い訳に聞こえる。
「わかりました。消した証拠、送ります」
削除の確認画面が表示される。「この項目を完全に削除しますか」。星樹は、喉の奥で小さく唾を飲んだ。
そのとき、背後でドアが軽く鳴った。
振り向く前に、星樹は分かった。靴底の音が、速くて、まっすぐだ。ロビーで迷わず歩く人の音。
「星樹?」
光希の声だった。彼は編集バッグを肩から下ろし、状況を一目で掴んだように、目線をパソコンとスマホの間に置いた。
星樹は通話口を押さえ、言葉を探した。探す前に、光希が口を開いた。
「消すなら、今だろ」
短い一言が、背中を押す形になった。星樹はうなずき、削除を確定した。ファイルが一覧から消える。胸の奥が、少しだけ軽くなり、同時に、空洞が残った。
星樹は通話に戻り、削除後の一覧を撮って送った。相手は一度だけ「受け取った」と言い、通話を切った。切れた瞬間、ロビーの静けさが戻り、蛍光灯の唸りがやけに大きく聞こえた。
星樹はスマホを握ったまま、立ち尽くした。汗で濡れた掌が冷えていく。言い逃れはしていない。けれど、これで終わったわけでもない。
光希は近づき、モップとバケツの位置を無言で避けて、星樹の横に並んだ。彼の視線は、消えたフォルダの場所に向いたままだった。
「……俺が勝手に」
「知ってる」
光希は言葉を切り、舌の上で次を選び直すように、一拍置いた。
「手伝え。ひとりで背負うと、また余計なことする」
星樹は、笑うべきか分からず、息だけが漏れた。喉の奥が熱くなる。涙が出る前に、彼は首を横に振った。
「手伝うの、俺の方だ」
「じゃあ、今からだ」
光希はそう言って、モップの柄を掴んだ。星樹の指から、道具がすっと抜ける。代わりに、星樹はバケツを持つ。重さが、ちょうどいい。
ロビーの床に、二人の影が並んだ。ガラス越しに見える街は、まだ明るい。古着屋の店先を掃く箒の音が、遠くで乾いて響く。
星樹はスマホのメモを開き、数字を書き換えた。「感情のバッテリー 29」。三十を切った。今日は、無理をしてはいけない日だ。
だが、目の前にある作業は、無理ではなく、約束の一部に見えた。星樹はバケツの水面を見つめ、静かに言った。
「館長に、話す」
「順番、考えよう。いきなり全部ぶつけたら、また心臓止まる」
光希の言い方が少しだけ柔らかくて、星樹は初めて、胸の奥の空洞に風が入るのを感じた。
ロビーの床を拭き終えた頃、館長が裏口から顔を出した。手には小さな紙袋がある。コンビニの袋ではなく、近所の和菓子屋のものだった。
「二人とも、まだいたのか」
館長は驚いたように言い、すぐに笑って袋を掲げた。
「今日、桃砂町のパンフを出してくれた礼だ。塩豆大福、余ってた」
光希が「余ってたの?」と突っ込み、館長が「余ってたんだよ」と胸を張る。星樹は、そのやり取りの間に、呼吸を整えた。
塩豆大福を分け合いながら、星樹は館長の横顔を見た。言うなら、今日だ。逃げるなら、今だ。
「館長。……俺、話がある」
館長は「ん?」と首を傾げた。星樹の声の調子だけで、冗談じゃないと察したらしい。袋を置き、ロビーの椅子を二つ並べる。椅子の脚が床を擦り、きゅっと短い音がした。
光希がその音に合わせて「椅子の音、今の短編に入れたいな」と言うと、館長が「入れるな」と即座に返す。星樹の口角が、ほんの少しだけ上がった。笑っていい場面じゃないのに、笑いが出る。そのことが、逆に怖かった。
裏口がもう一度鳴った。今度は、控えめなノックが二回。
「お邪魔します……」
陽咲が顔を出した。手には、撮影用の小さなメモ帳と、黒いマスキングテープ。彼女は二人の視線を受け、ぱっと足を止めた。
「……今、良くない?」
光希が「良くないってことはない」と言いかけ、言葉を飲み込み直した。「ちょうど、話すところ」
陽咲はうなずき、ロビーの端に寄って立った。メモ帳を開き、何かを書き、すぐに消しゴムでこすった。消しカスが落ちそうで落ちないところを、指でつまんでポケットに入れる。目線だけが、星樹の手元に行って戻る。
星樹は、喉の奥で何度も引っかかった言葉を、ようやく形にした。
「この前、ロビーの録りを……外に渡した。俺が。勝手に」
館長の眉がゆっくり上がった。怒鳴られると思った瞬間、館長は机の上の紙袋を見て、息を吐いた。
「……そうか」
その一言が重くて、星樹は逃げたくなった。だが、光希が椅子の背に手を置き、星樹の視界の端に腕を残した。そこにいる、というだけの合図だった。
「さっき、追加で要求が来た。断った。今、削除も確認した」
星樹は言いながら、スマホの画面を館長に向けた。削除後の一覧の写真。送信済みの履歴。全部、見せる。
館長は画面を覗き込み、しばらく黙ったまま、最後に星樹の顔を見た。
「消したなら、まず一つだ」
館長の声は、驚くほど静かだった。怒りの代わりに、疲れが滲んでいる。星樹は、胸の奥が痛んだ。
陽咲が、ロビーの端から一歩だけ近づいた。彼女はメモ帳を閉じ、星樹に向かって言った。
「今の、言い逃れしてない。……それは、ちゃんと見えた」
星樹は返事ができず、うなずくだけで喉が詰まった。
光希が、館長に向かって言う。
「ここから先、俺らが勝手に決めない。館長が決める。必要なら、警察じゃなくても、相談する窓口を探す。まずは、誰に何を伝えるか、順番を——」
「順番」
館長がその言葉を繰り返し、目を閉じた。
「順番ってのは、助かる。俺は、頭が追いつかないとき、すぐに札を出して休みにしてしまう」
星樹は、あの日の休館札を思い出し、胃がきゅっと縮んだ。
館長は目を開け、星樹に言った。
「今夜は、ここまでだ。君の『感情のバッテリー』は、いくつだ」
星樹は驚いて瞬きをした。館長がその合言葉を口にしたのは初めてだった。
「……二十九です」
「じゃあ今日は、三十を切ったやつの扱いでいい。無理をするな。代わりに、明日の朝、俺の机に、何を渡したか、いつ渡したか、全部書いて置け。紙に。残る形で」
星樹は「はい」と言うしかなかった。紙に残す。その言い方が、チラシの世界と同じで、逃げ道がなくて、少しだけ安心できた。
館長は陽咲を見た。
「陽咲さん。今日の小さな目標は?」
陽咲は一瞬目を丸くし、すぐにメモ帳に視線を落とした。
「……今、ここで。『大丈夫』って言わない」
光希が吹き出しそうになり、口を手で押さえる。館長が「それはいい」と真顔でうなずく。星樹の喉が、少しだけほどけた。
星樹は袋の紙の皺をもう一度伸ばし、改めて言った。
「館長。……俺、明日の朝、全部書いて持ってきます。その前に、みんなにも、話す」




