第23話 約束の言い方
六月の第二週の金曜夜、下北沢の駅前は雨上がりで、アスファルトの黒がやけに新しい。ピンクサンドホライズンの看板だけが、濡れた光を拾って少しだけ明るい。ロビーに入ると、乾ききらない傘の匂いと、上映前に売れ残ったキャラメルの甘さが混ざっていた。
光希は入口の貼り紙を見上げてから、目だけで時計を確かめる。上映の終わりまで、あと二十分。今日は昼にロケを回し、夕方に音声のチェックをやり直した。耳の奥がまだキーンとする。けれど、手は動く。テーブルの上に置いた小さな録音機を撫で、ボタンの位置を確かめる。
陽咲はレシートの裏に、今日の「感情のバッテリー」を書いて、角を折った。
「……四十」
「俺は三十五」
光希が答えると、陽咲は一度だけ頷き、手帳を閉じた。閉じ方が丁寧で、力が残っているのがわかる。
萌愛花が紙袋を二つ抱えて現れる。片方はロビー用の差し入れ、もう片方はチラシの束だ。袋の口から、赤いペンが飛び出している。
「こっち、店員さんに渡す説明文、追加した。『上映後ロビーで五分だけ。帰り道に笑える三本。』……どう?」
「五分はいい。三本もいい。……帰り道に、が余計に刺さる」
陽咲が言うと、萌愛花は「刺すのが目的!」と胸を張る。言い切ってから、すぐに自分のスマホを開き、メモに数字を書き込んだ。
「私、五十五。しゃべる分、残ってる」
洋利は遅れて入ってきた。帽子のつばから水滴が落ちる。濡れたままの靴で立ち止まり、ロビーの床を見て「ごめん」と小さく言う。言いながら、すでにハンカチで拭いている。
「俺、六十。泣きそうだけど、六十」
数字の言い方が、泣きそうな声を押し込むみたいで、智砂が肩を揺らして笑う。
「泣くなら、今日の三本のどれかで泣けよ。俺、七十。元気にうるさい」
「うるさいは自分で言うな」
光希が突っ込むと、智砂は両手を上げて降参したふりをした。
星樹はロビーの隅で、黙って床のガム跡をこすっていた。掃除用の小さなヘラを握り、手首だけで動かす。近づいても顔を上げない。陽咲は一歩手前で止まり、言葉を探す代わりに、自分のペンを一本、そっと床に置いた。星樹の視界の端に入るように。
上映が終わった。扉が開いて、客がロビーへ流れ出る。小さな館のロビーは、流れがぶつかる場所だ。傘の持ち替え、トイレの場所の質問、パンフの値段の確認。館長はカウンターの奥で、いつもより静かに「ありがとうございます」を繰り返す。口元が笑っているのに、眉が少しだけ上がっていない。
五分トークの準備を始めると、光希の胸が詰まった。今日、話すべきか。短編のこと。閉館予定日の前夜に、ここで完成版を流すこと。言った瞬間、宣伝になる。宣伝に聞こえた瞬間、嘘に見える。嘘に見えたら、積み上げた紙が崩れる。
「言わない方が安全だよな」
光希が小声で言うと、萌愛花が「安全って何」と睨む。洋利が「でも、怖い」と同意してしまい、智砂が「怖いって言うな、怖くなる」と手を振る。陽咲だけが、手帳を開き、書いた一行を指でなぞった。消していない文字の上を、慎重に。
館長がカウンターを出てきた。小さなゴミ袋を手にしている。袋の口がふくらんでいて、今日捨てた紙コップの数が見える。
「……迷ってる?」
光希が頷くと、館長はゴミ袋を机の下へ置き、腕を組んだ。組み方が、上映の前に席を数えるときと同じだ。
「宣伝だと思われたくないなら、宣伝みたいに言わなきゃいい」
「……どう言うんですか」
「約束として言う。守れることだけ。守るために、誰が何をするかまで、口に出す」
陽咲が息を吸った。吸う音が聞こえるくらい、ロビーは一瞬だけ静かになった。客がパンフを棚へ戻す音、傘を広げ直す音、遠くの改札のアナウンス。それらの間の隙間に、陽咲の声が入る。
録音機の赤いランプが点く。智砂が手を叩いて、客の視線を集めようとする。だが拍手の音が一つだけ乾いて響き、誰も続かない。智砂は咳払いに切り替え、急に真面目な顔になった。
「えー、本日の上映後ロビー、五分だけ。帰りの電車で『あれ、よかったな』って言える三本を、置いて帰ります」
最前列にいた年配の男性が、パンフを胸に抱えたまま首をかしげる。
「三本? 今日観たのは一本だよ」
「だからです。一本観た帰りに、もう三本増える。お得」
智砂が即答し、洋利が「お得って言うな」と小声でつっこむ。客がふっと笑い、空気が少し緩む。
陽咲は手帳を開かずに言った。
「今日の三本の共通点は、……帰り道に、誰かの背中を押すことです」
そして、一本ずつ置いていく。
「一つ目は、『雨宿りの手紙』。言えなかった一言を、ポストに入れ損ねる話です。入れ損ねたまま、走る」
光希が横で指を折る。客の何人かが、題名を口の中でなぞるみたいに頷いた。
「二つ目は、『パンと一緒に水平線』。朝、焼きたてのパンを抱えて、海まで歩く。途中で寄り道しても、パンが冷めても、歩く」
萌愛花が「私それ好き!」と声を漏らし、すぐ口を塞ぐ。館長がカウンター越しに笑って、肩をすくめた。
「三つ目は、『座席の端の人』。隣の席を空けたまま座る癖がある人が、ある日、空けた席に自分のコートを置く。それだけの話なのに、最後、妙にあったかい」
洋利が鼻の奥を押さえ、「それ、泣くやつだ」と言ってしまう。客がまた笑う。笑いの中に、少しだけ「観たい」が混ざる音がした。
三つ目を言い終えると、陽咲は一拍置いた。目が泳ぎそうになり、手帳の角を握った。光希が、録音機を少しだけ前に押し出す。近すぎない距離。声が届く距離。
「それで、もう一つだけ。お願いじゃなくて、約束を言います」
陽咲は館長をちらりと見た。館長は頷いた。頷き方が、ゆっくりだった。
「閉館予定日の前夜、金曜の最終上映が終わったあと、このロビーで、私たちが作っている短い映画を流します。五分じゃなくて、十数分。……その日まで、毎週の金曜夜のトークは続けます。チラシは、土曜の朝に、近所の店へ必ず手で届けます。欠けたら、欠けたって言います」
「欠けたって言うのか」
客の一人が笑った。笑い方が柔らかくて、洋利の肩がふっと下がる。
「はい。隠さないで言います。だから、よかったら、その前夜、来てください。……来られないなら、誰かにチラシを渡してください」
最後の一言が、妙に現実的で、智砂が「そこまで言う?」と吹き出す。萌愛花がすぐに「言うの!」と肘でつついた。
拍手が起きた。最初は二、三人。遅れて波みたいに広がって、ロビーの壁に当たって返ってくる。館長の目が少しだけ潤み、すぐに瞬きをした。洋利は泣かない代わりに、鼻をすすって笑った。
客が帰り始める。紙チラシが数枚、鞄に入っていく。店員の代わりに、客が持ち帰る紙が増える。光希はそれを見て、胸の詰まりが少しだけほどけた。正しい言葉じゃない。守れる順番の言葉。編集の前に、約束の順番。
星樹がロビーの隅から、置かれたペンを拾った。ヘラを持っていない手で、ペンを握る。陽咲の方を見て、口を開く。
「……俺、明日。古着屋に、二十枚。朝八時」
それだけ言い、ペンを陽咲の手帳の横に戻す。陽咲は「うん」と短く返し、手帳の余白に小さな丸を一つ足した。消しゴムは出さなかった。
光希は録音機を止め、最後に自分のスマホへ数字を書き込んだ。
「感情のバッテリー、四十」
陽咲が笑って、同じように書いた。
「私も、四十。減ってない」
外へ出ると、雨上がりの匂いがまだ残っていた。看板のピンクが、濡れた道に細く伸びる。六人はその線を踏まないように歩きながら、明日の朝の手渡しの順番を、口に出して確認した。




