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第22話 落ちたレコーダーと、結び直した配線

 六月第二週の水曜、下北沢の空は、洗ったシャツが乾ききらないみたいに湿っていた。路地の壁に貼られたライブの告知が、角から角へ、じわっと色を移している。ピンクサンドホライズンの裏口を開けると、ロビーの冷房が廊下へ逃げてきて、肌が一瞬だけ楽になる。


 光希は大きめのトートを床に置き、ファスナーを開けた。中から、細いケーブルが蛇みたいに顔を出す。昨日の撮影で、音が薄い場面があった。映像は良いのに、街のざわめきが紙の上の白さみたいに寂しい。直すなら、いまのうちだった。


 陽咲は手帳を開いて、鉛筆で一行だけ書く。

 「 今日は、音が一つ“ちゃんと”撮れたら合格 」

 書いて、消しゴムを触って、やめた。消す必要がない、と顔が言っていた。


 洋利は両手で機材ケースを抱えていた。身体に対してケースが大きい。歩くたびに、肩紐が「ギュッ」と鳴る。萌愛花が横から覗き込み、「抱っこしてるみたいで可愛い」と言った瞬間、洋利の頬が少し上がった。上がったまま、足元の段差に引っかかった。


 ケースが一度、胸にぶつかり、そのまま前へ滑った。

 鈍い音。プラスチックが床に当たる音に、金属のカチンが混ざる。続いて、小さな「コロッ」という音がした。落ちたのはレコーダーだった。ローラーのように回り、壁際で止まった。


 洋利は声にならない息を吐いてから、レコーダーに飛びついた。手のひらで拾い上げ、表面を撫でるように見つめる。電源を入れる指が震え、ボタンを押すと、画面に一瞬だけ文字が灯った。

 その直後、ふっと消えた。


 「 ごめん……ごめん……」

 洋利の声が一段ずつ低くなる。目の端があっという間に濡れ、落ちるのが早い。涙がケースの端に落ち、プラスチックをつやつやにした。


 智砂が身を乗り出し、「叩けばいける!」と言いながら手を上げた。

 萌愛花が反射でその手首を掴む。

 「 叩く前に、優しく話しかけよ? ほら、映画だってさ、いきなり殴ったら関係こじれるでしょ」

 「 機械に恋愛させる気かよ」

 「 させないけど、機械も気分あるかもじゃん」

 口が止まらないのに、手は止まっていた。萌愛花の指先が、レコーダーの角をそっと撫でる。


 光希は喉の奥が熱くなるのを感じた。納期を抱えたままここへ来ている。音が壊れたら、撮り直しは簡単じゃない。怒鳴れば早い。怒鳴ったら、空気は軽くなるかもしれない。けれど、昨日の路地で、陽咲が小さく息を吸ってから言葉を選んだ背中が、目に残っていた。


 光希は自分のスマホを開き、メモ帳に打つ。

 「感情のバッテリー 35」

 数字を見て、息を一つ置いた。置いた分だけ、声の角が丸くなる。


 「 洋利」

 名前だけ呼んだ。洋利が顔を上げる。涙でまつ毛が固まっている。

 「 今、謝るのは分かった。代わりに、何を直す?」

 言い方が硬い。けれど、殴らない硬さだった。


 洋利の口が半開きで止まる。泣く勢いが、そこで一回引っかかる。

 「 ……え」

 「 壊したかもしれないのは、レコーダー。直せないなら、別の手で埋める。配線、マイク、設定。どれなら手を動かせる?」

 光希は一つずつ並べた。順番が、怒りの逃げ道になった。


 星樹が黙ってレコーダーを受け取り、裏蓋を開けた。電池を抜き、入れ直す。画面が点く。消える。もう一度。今度は、点いたまま耐える時間が少し伸びた。

 星樹は小さく頷き、ノートを開いた。ページに「再起動 成功率」と書き、横に線を引く。線の先に「原因:接触?」と小さく足す。


 「 ケーブル、俺……やる」

 洋利が鼻をすすりながら言った。言った瞬間、涙の落ち方が少し遅くなる。萌愛花が「よし、ケーブル係、誕生!」と拍手しかけ、陽咲が指を一本立てて止める。


 「 今日の目標は、一つ。音が一つ“ちゃんと”。拍手は、終わってから」

 陽咲の声は小さいのに、机の上のペン立てが揺れたみたいに、皆の手が止まった。


 机に機材を並べる。ケーブルをほどく。結び目が固い。洋利は指先で少しずつ解こうとして、また焦って引っ張り、余計に締めてしまう。涙が落ちそうになる。智砂がポケットから綿棒を出し、「これで汗ふけ」と差し出す。誰が持ち歩くんだ、と言われそうなのに、誰も言わない。


 洋利は綿棒で手のひらを拭き、もう一度結び目に向き合った。引っ張るのをやめ、爪の先で“ほどける場所”を探す。探して、見つけて、少しずつ開く。ほどけた瞬間、洋利の肩が落ちた。泣く代わりに、息が出た。


 光希はその様子を見ながら、怒鳴りたい衝動が、別のものに変わっていくのを感じた。音は、叫んだ方が大きくなるわけじゃない。拾うための静けさがいる。編集も同じだ。切る前に、残す音を決めないと、全部がただのノイズになる。


 萌愛花は口を閉じる代わりに、手を動かした。紙コップに水を注ぎ、机の端へ並べる。ラベルにマジックで「洋利」「陽咲」「光希」と書き、最後に自分の分へ「萌愛花(喋るの禁止)」と書いて笑いそうになり、笑うのを飲み込む。肩が震えるだけで、声は出さない。


 星樹がレコーダーの設定画面を開き、「録音レベル、ここ」と指差す。言葉が短い。短いから、迷いがない。智砂は「じゃ、俺、走って新しい電池買ってくる!」と立ち上がり、陽咲が「二本じゃなく四本」と即答する。智砂は「了解!」と返して、もう廊下に消えていた。


 テスト録音が始まった。陽咲がロビーの扉を少しだけ開け、外の音を一筋入れる。バイクの遠ざかる音、どこかの店のフライパン、階段を降りる足音。洋利はマイクを持つ手を高く上げ、肘を固定して息を止めた。画面の波形が小さく揺れる。


 「 はい、今の、いい」

 光希が言った。言った自分に驚いた。褒める言葉は、いつも後回しだったのに。

 洋利が目を潤ませ、今度は泣かずに笑った。笑うと、鼻がまた鳴る。洋利は慌てて口を押さえ、皆が目で笑う。


 陽咲は手帳に丸を一つ描いた。消さない丸だ。

 「 合格」

 その一言で、部屋の湿気が少しだけ軽くなる。


 智砂が電池を抱えて戻ってきた。息が切れているのに、手は震えていない。「四本な!」と誇らしげに見せる。萌愛花が堪えきれずに小さく拍手し、陽咲が今度は止めない。拍手は短く、ちゃんと静かだった。


 光希はメモの数字を見直し、入力を変えた。

 「感情のバッテリー 45」

 上がった理由を、言葉にしないまま、ケーブルの端を揃える。自分の口より先に、手が整っていく。


 洋利は解いた結び目の残骸を、小さく丸めてゴミ箱へ捨てた。捨てたあとで、レコーダーに向かって小さく頭を下げる。萌愛花が「謝罪は機械にも効くんだね」と囁き、星樹がノートの端に「謝罪→作業」と書いた。


 陽咲はロビーの方を見た。客席はまだ暗い。けれど、暗いのは始まりの色だと、今日だけは思えた。

 「次は、台詞の音」

 陽咲が言う。洋利が頷き、光希が短く「やろう」と返す。言葉の順番が、少しだけ揃っていた。



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