第21話 始発の切符と、水平線の試し撮り
六月の第一週の水曜、下北沢の空はまだ青に決めきれない色で、駅前の自販機だけがやけに元気だった。改札の前で、光希は腕時計を見てからスマホを伏せる。画面に出た経路案内を信じるより、自分の足で確かめたい顔をしている。
「集合、七時って言ったよな」
「六時五十七分だよ。三分、得したね」
陽咲は言いながら、手帳を開く。今日の欄に小さく「知らない場所で、一つ話しかける」と書いて、すぐにペン先を止めた。消しゴムは出さない。ページの端に、薄い線で小さく丸を一つだけ足す。
改札横のベンチに、洋利が座っていた。両手に紙袋。中身が揺れるたびに、頬が勝手に緩む。袋の口からパンの香りが漏れた。
「六人分! 朝って、こういうの必要だろ!」
「朝から叫ぶと、鳥が来るよ」
萌愛花が言い終わる前に、駅前の鳩が一羽、洋利の靴の前に降りた。洋利は一瞬で真顔になり、紙袋を胸に抱える。鳩は首を傾げた。萌愛花は笑いを噛み殺しながら、指でスマホを叩く。
「はい、今日もやるよ。感情の残量、言って」
「九十!」
「言うの早い! でも九十は危ない。走り出すやつだ」
「四十」
星樹が短く言って、ポケットから折れた鉛筆を出し、メモ帳の角に数字を書いた。書いたあと、紙を親指でこすって少しだけ薄くする。残量が減るのを前もって慣らすみたいな仕草だった。
「私は六十。今日、しゃべると減る」
萌愛花は自分の数字に自分で納得し、次に智砂を見た。
智砂は改札機の横で、切符売り場の案内板を見上げている。誰かが作った矢印に腹を立てるような顔で、指を一本立てた。
「海。絶対に海。水平線は、嘘をつかない」
「嘘をつかないのはいいけど、乗り換えは嘘みたいに難しい」
光希が言うと、智砂は案内板を睨みつけたまま、「だから今見る」と言った。光希は肩をすくめ、切符を二枚まとめて買って、智砂の手に押し込む。言い訳も感謝もない交換が、なぜか小気味よかった。
六人がホームに立つころ、始発に近い電車は、眠そうな音でドアを開けた。車内はスーツの人と、釣り竿を抱えた人が半々で、まだ誰も笑っていない。萌愛花は座席に座るなり、声を潜めて言う。
「笑うのは、海についてからにしよう。ここで笑うと、周りが固まる」
「その判断は正しい」
星樹がうなずいて、窓の外に視線を逃がす。
電車が地上に出ると、朝の光が窓ガラスに薄く伸びた。光希はカメラバッグを足元に置き、膝の上に小さな三脚を乗せる。陽咲が覗き込むと、三脚の脚に紙が貼ってあった。「ロビーの椅子」「路地の水たまり」「白いスープ」。昨日の夜に書いた三つの場面だ。
「今日は、どれ撮る?」
「まず、水平線。音と光を拾っておけば、後から迷わない」
「迷わないの、珍しいね」
「迷ってるから、先に拾う」
光希はそう言って、窓の外を指差した。遠くに海が見えたわけじゃない。ただ、空の端が少し明るい。陽咲はその指の先を追いながら、胸の奥にある小さな焦りが、少しだけ薄くなるのを感じた。閉館の貼り紙は動かない。けれど、光は動く。
目的地の駅に着くと、潮の匂いが一気に鼻を叩いた。改札を抜けたところに、地元の小さな観光案内所があり、窓辺に「桃砂町 朝市 毎週水曜」と書かれた紙が貼ってある。陽咲は手帳を開いた。今日の丸が、まだ白い。
案内所の前で、年配の女性が段ボール箱を抱えて困っていた。箱の角が膝に当たるたび、顔が歪む。陽咲は一歩だけ前に出て、声を出した。
「それ、運びます」
自分でも驚くほど、言葉がすっと出た。女性はぱちりと目を瞬き、すぐに笑った。
「助かるわ。朝市の味噌よ。重いのに、ごめんね」
「大丈夫です。私、今日は一つ、人に話しかけるって決めてて」
言い終えた瞬間、陽咲は自分で照れて、頬を軽く指で叩いた。萌愛花が背後で肩を震わせているのが分かる。洋利は「いいぞ……!」と唇だけで言った。星樹はそれを見て、メモ帳に小さく「一つ達成」と書いた。本人に見せる気がない文字だ。
箱を運び終えると、女性が味噌の小袋を一つ、陽咲の手に押し込んだ。
「これ、持って帰って。夜のスープに入れると、体が戻るから」
「戻る……?」
「戻るよ。減ったものが、少しだけ」
女性はそう言って、空になった手で胸元を軽く叩いた。
海までの道は、商店のシャッターが半分だけ開いていた。まだ営業前の店先に、朝市の人が紙を貼っていく。智砂はその紙に目を留め、「一秒だけ頼む」の文字を見て、眉を上げた。
「これ、うちでも使える。店員が渡すときに一秒で言える」
光希は「その一秒で客が増えるなら、撮る側も一秒で返す」と言って、カメラを肩に掛けた。意味はよく分からないのに、妙に頼もしい言い方だった。
防波堤に着くと、波が低い音で石を転がしていた。空はようやく青に決めたらしく、雲が薄く引き伸ばされている。萌愛花が自分の頬を両手で挟み、声を出さずに叫ぶ。
「海、きれい……!」
洋利はその横で、パンの袋を開けた途端に涙目になった。
「なんか……朝って、すごい……!」
「パンで泣くな」
智砂が即座に突っ込み、洋利は「違うって!」と手で波の方を指した。指した先で、カモメがふわりと浮き上がり、パンの匂いに釣られて旋回した。
「ほら、鳥が来るって言った」
萌愛花が言うより早く、カモメが一羽、洋利のパンを狙って急降下した。洋利は反射で袋を掲げ、袋ごと上に投げそうになって、光希がすっと手を伸ばして袋の底を押さえた。
「落とすな。砂に落ちたら終わる」
「砂、ないけど!」
「ある。ここ、風で飛ぶ」
光希は言い切って、カメラのレンズキャップを外した。
試し撮りの最初のカットは、水平線だった。三脚を低くして、波の白い筋が画面の下を横切る。光希はモニターを見ながら、声を出さずに口だけ動かす。陽咲が覗くと、「呼吸」と読めた。光希の指がシャッターを切るたび、波の音が少しだけ録音される。
「いま、残量いくつ?」
萌愛花が小声で聞くと、光希は視線をモニターから外さずに答えた。
「五十五」
「さっきより増えてる」
「海は、増える」
光希が言った直後、星樹が喉の奥で小さく笑った。笑ったあと、すぐに表情を戻して、ポケットの中のスマホを握り締める。画面が一瞬、光った。知らない番号の着信だ。
星樹はその場で出なかった。けれど、防波堤の影に一歩だけ移動し、着信履歴を見つめる。指先が震えているのに、目だけは落ち着いている。陽咲はそれに気づいて、味噌の小袋を握り直した。戻る。減ったものが、少しだけ。さっきの女性の言葉が、波音に混じって残っている。
撮影が一段落したころ、朝市の方向から太鼓の音が一回だけ鳴った。智砂が「行く」と言い、全員が自然に歩き出す。光希はカメラをバッグに戻しながら、陽咲の手帳をちらりと見た。丸が一つ、濃く塗られている。
「一つ、話しかけたな」
「うん。消さなかった」
「じゃあ、次は。……俺が一つ言う」
光希は言いかけて、言葉を探すように口を閉じた。代わりに、陽咲の手に味噌の小袋があるのを見て、「夜、白いスープに入れろ」とだけ言う。陽咲は笑いそうになって、頷いた。
六人の影が、堤防の上で少し長く伸びた。まだ一日が始まったばかりなのに、水平線の端には、帰る場所の形がうっすら見えている気がした。星樹は歩きながら、スマホの画面を伏せたまま、メモ帳に新しい行を足す。「知らない番号」。その文字の上に、鉛筆で小さく線を引いた。消さずに、残す線だった。




