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第20話 役割の付箋と、白いスープ

 六月第一週の月曜、午後八時。下北沢のミニシアター「ピンクサンドホライズン」のロビーには、雨上がりの湿った匂いと、掃除用アルコールの尖った匂いが混ざっていた。桃砂町から戻って二日、館長は入口の傘立てを磨き直している。磨く必要があるのか分からないほど、もう光っているのに。


 「……閉館まで、あと二十六日」


 館長が口にした数字は、時計の針よりも硬かった。誰かが笑えば折れるようで、誰もすぐに返事ができない。


 その沈黙を、光希の足音が切った。肩に大きめのカメラバッグ。片手には、コンビニの袋が二つ。

 「まず、これ」


 袋から出てきたのは、白い紙コップのスープだった。湯気が控えめに立ち、ロビーの空気を少しだけ柔らかくする。萌愛花が「白って安心する!」と勝手に宣言し、洋利が「でも熱い! でも飲む!」と唇をあちちとやりながら笑う。


 陽咲は手帳を開いて、ペン先を浮かせた。

 「今日の小さな目標……『決めることを、決めきる』」


 書いた途端に、少し恥ずかしくなって視線を上げた。光希が、すでにロビーの丸テーブルを片付け、ノートパソコンを開いている。画面には、タイムラインの空欄が並んでいた。


 「館長さん」


 光希は館長を呼ぶと、背筋を伸ばしたまま言った。

 「一本、作る。短いのでいい。ここで撮って、ここで流す」

 「……言葉で、客を呼ぶんじゃなくて?」

 「言葉は、嘘つく。映像は……嘘つくけど、痕が残る」


 館長が喉を鳴らす。返事が見つからない顔をして、紙袋の取っ手を握り直した。桃砂町で拾った貝殻の音が、かすかにした。


 智砂が、冷蔵庫の上に置きっぱなしだったマーカーを一本取る。

 「じゃあ、今ここで決める。誰が何をやるか」

 「そう」


 光希は頷き、机の上に付箋を山ほど出した。黄色、桃色、青。色が多すぎて、萌愛花が「色だけで映画が作れそう」と言い、洋利が「作れそう!」とすぐ乗って、星樹が小さく息を吐いた。


 「俺は編集」


 光希は黄色の付箋に二文字だけ書き、パソコンの横に貼った。迷いがないように見せるための速さだった。陽咲は、その手の速さに、桃砂町の砂に文字を書いた指先を思い出す。


 「陽咲。撮影日ごとの、小さな目標。残量の管理も。誰かが三十を切ったら、止める」


 陽咲はペンを握り直し、頷いた。言われる前に消しゴムを握りたくなる癖が、今日は出ない。胸の奥が、少しだけ熱い。


 「洋利は音」


 洋利が「え、俺?」と目を丸くした。すぐに眉が下がり、泣く直前みたいな顔になる。けれど、口は笑っている。

 「音って……マイク? 俺、持てる? 落としたら……」

 「落とす前提で考えるな。持つ前提で、練習しろ」


 光希の言い方はきついのに、目は洋利の手元を見ている。洋利は手のひらをぎゅっと握り、スープの紙コップを机に置いた。

 「……練習、する! 毎日!」


 萌愛花が桃色の付箋を指で弾いた。

 「じゃあ私、差し入れ係! 腹が減ったらカメラも泣くし!」

 「泣くのはお前だけだ」


 光希が即座に返して、萌愛花が「じゃあ泣かない! その代わり、交渉は私がやる!」と胸を張った。ロケ弁の手配、近所の店への頼みごと、紙チラシの追加印刷。彼女の口は、止まらない時ほど役に立つ。


 「智砂は、人」


 智砂は「了解」とだけ言い、もうスマホを開いて連絡先を探している。画面の上で指が走る音が、雨の残りみたいに小さく続く。

 「一秒だけ立ってもらう。そういう人は、いる。探す」


 最後に、光希が視線を星樹に向けた。星樹は一歩遅れて、上げた顔をすぐ下げそうになり、持ち直して立った。

 「星樹は、ロケ地の下見と……清掃」


 ロビーの空気が、ほんの一瞬だけ固まった。館長の指が、傘立ての縁で止まる。洋利は口を半開きにしたまま、萌愛花は「え」と言いかけて飲み込んだ。


 星樹は逃げなかった。代わりに、ポケットから小さなメモを出した。端が少し擦れている。

 「……昨日、下北の路地を回った。ゴミが溜まりやすい角、三か所。水たまり、二か所。撮るなら、靴、替えた方がいい」

 「……もう、調べてたの?」


 陽咲の声が小さくなる。星樹は頷くだけで、目を合わせない。合わせたら、何かを言い訳したくなるのだろう。


 光希が短く言った。

 「手伝えって言ったら、やるか」

 「やる」


 星樹の返事は、少しだけ震えていた。震えが止まる前に、智砂がマーカーで壁のホワイトボードに大きく書いた。


 「短編『感情のバッテリー』」


 題名が板に残ると、館長の肩がゆっくり落ちた。笑っていないのに、目尻が濡れている。萌愛花がすかさずティッシュを一枚差し出し、「これは化粧落ちないやつ!」と訳の分からない保証をし、洋利が「館長さん、白いスープで涙、薄まる!」とさらに訳の分からないことを言って、ロビーに久しぶりの笑いが走った。


 ホワイトボードの下には、すでに陽咲が小さな表を作っていた。縦に日付、横に名前。右端に「残量」の欄だけが大きい。洋利が覗き込んで、「数字を書くの、なんか怖い」と言うと、陽咲はペン先で線を二度叩いた。

 「怖いから書く。書いたら、止められるから」

 「止める係、陽咲?」

 「止める係は……みんな。止められたら、止まる」


 萌愛花はスープの蓋を指でくるくる回しながら、「じゃあ私は腹が減ったら止める」と宣言し、智砂に「止め方が雑」と言われて肩をすくめた。

 「雑でいいの。雑じゃないと、言いにくいこと言えないでしょ」

 「それは、分かる」


 星樹がぼそっと返した。萌愛花が一瞬だけ黙り、次の瞬間、わざと明るく言う。

 「じゃあ星樹、明日の朝、軍手いる? 買う? サイズどうする?」

 「……軍手、ある」

 「じゃあ、差し入れは飴にする。掃除って、甘いもの要るから」


 光希はノートパソコンの横に紙を広げ、ペンで三つの短い場面を書いた。ロビーの椅子を並べる手。路地の水たまりを跨ぐ靴。白いスープの湯気。

 「映したいのは、派手なことじゃない。毎日、ここでやってること」

 「……それが、客席に返る」


 館長が小さく言う。自分の言葉に驚いた顔で、口を押さえた。陽咲はその手を見て、手帳の端を指で撫でる。消しゴムは出さない。


 智砂はロビーの隅にある古い電話機の前に立ち、受話器を取り上げた。まだ使えるのか分からないのに、音を確かめるように一度だけ耳に当てる。

 「店に頼む。紙チラシを置いてくれた人たちに、今度は一秒だけ頼む」

 「一秒なら、私でも出れる?」


 館長がぽつりと言うと、洋利が「館長さん、出るなら泣くの我慢して!」と真剣な顔で言い、萌愛花が「無理に我慢したら逆に泣く!」と即答して、また笑いが起きた。


 ロビーの時計が九時を回るころ、外の雨音は完全に止んだ。入口のガラスに映る六人の姿は、どれも少しずつ角度が違う。それでも同じ方向を向いている。光希は最後の付箋を貼り終えると、手を一度だけ叩いた。

 「明日、下見。朝七時。集合は……ここ」

 「七時って、君、朝が強いの?」

 「強いんじゃない。決めたら、起きる」


 陽咲は手帳に「六月第一週 火曜 朝七時」と書き、丸を一つ足した。丸が増えるほど、逃げ道が減る。減るほど、足が地面に付く気がした。

 陽咲は手帳の余白に、小さな丸を五つ描いた。撮影日ごとの小さな目標の分。丸の横に、消さない文字で書く。

 「閉館予定日の前夜に、完成版を流す」


 光希がその文字を覗き込み、口を開きかけて閉じた。代わりに、コンビニ袋の底からもう一つ、白いスープを出して星樹の前に置く。

 「熱いから、ゆっくり飲め」

 「……はい」


 星樹は紙コップを両手で包み、湯気を見ていた。湯気が消える前に、ロビーの床の隅へ視線を落とし、次に拾うゴミの場所を決めるような目をする。


 館長は傘立てを磨く手を止め、六人の顔を順番に見た。最後に、入口の貼り紙の方へ一瞬だけ視線を投げ、すぐ戻す。

 「……一本だけ。今度は、途中で投げない」


 その言葉が落ちた瞬間、陽咲は手帳を閉じた。胸の中で、砂の上の文字がまだ残っている気がした。波は来る。消える。けれど、今夜は、消える前に撮る。



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