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第2話 五分が延びるとき、紙が増える

 四月の第一週の金曜、夜九時すぎ。下北沢の路地に人の波がほどけていくころ、「ピンクサンドホライズン」のロビーだけが、まだ映画の余韻で湿っていた。


 最後列で泣いていた男性が、パンフレットを顔に当てたまま出口に向かい、受付の前で立ち止まる。「すみません、これ……泣きすぎて読めません」と言って、紙の端を差し出した。


 館長が受け取ろうとした瞬間、隣から別の手が伸びた。光希だ。パンフレットを一度だけひっくり返し、濡れた指紋がつかない場所を探して、館長に戻す。


 「乾くまで、表紙から読め。中身は逃げない」


 言い切ってから、光希は自分の言い方が硬すぎたと気づいたのか、ポケットからハンカチを出し、泣き顔の男性に無言で差し出した。男性が「うわ、優しい」と言うと、光希は目を逸らした。


 陽咲はロビーの端で、手帳を開いたり閉じたりしていた。鉛筆の先が、ページの端を軽く叩く。五分だけ、と決めたせいか、胸の奥が早足になっている。閉館の貼り紙を見た火曜から、ずっと。


 館長が時計を見て、うなずく。


 「じゃあ、五分。ロビーの端で。……ただし、客が途切れたらね」


 途切れないと言わんばかりに、ロビーには小さな渋滞ができていた。出口でマフラーを巻き直す人。トイレの場所を聞く人。ポスターの写真を撮る人。萌愛花は、その真ん中で、誰に頼まれたわけでもないのに声を張っていた。


 「はいはい、ここ通りまーす! 泣いてる人は左、笑ってる人は右! どっちも同じ出口でーす!」


 陽咲が目を丸くする。知らない人なのに、ロビーの流れを変えている。館長が「あなた、スタッフ?」と尋ねると、萌愛花は胸の前で両手を合わせた。


 「今日だけ、勝手に。ここ、好きなんで」


 館長が何か言いかけたとき、もう一人、入口から飛び込んできた。肩からバッグをぶら下げ、息を切らしながら、洋利が立ち止まる。


 「間に合った? 間に合ったよね? ……あ、間に合ってない。もうエンドロール終わってる」


 彼は悔しそうに眉をひそめたかと思うと、ロビーの空気を吸って、急に目を潤ませた。


 「でも、ここ、匂いが残ってる。フィルムの匂いっていうか……いや、床ワックスか。涙出る」


 萌愛花が「涙の理由が安い!」と笑い、洋利が「安いって言うな!」と返す。館長の口元が、わずかにゆるんだ。


 光希が、館長に視線を向ける。今だ、とでも言うように。


 「五分。延びてもいい?」


 「延びる前提で言うの、強いですね……」


 館長は苦笑しつつも、ロビーの片隅へ誘導した。陽咲が先に立ち、手帳のページを開く。鉛筆の芯が折れそうで、力を抜く。


 「火曜に言った、百二回と八回の話。今日、上映が終わったら話すって……」


 「覚えてます」


 館長はレジ下から、赤い輪ゴムで留めた封筒を出した。中には、家賃の督促の紙が見えた。ロビーの灯りが、紙の白さを強調する。


 陽咲は、その白さから目を離して、別の白いものを思い浮かべた。紙チラシだ。自分の手で、鉛筆で、書ける白。


 「映画を、三本だけ選んで。おすすめを、ここで作って。紙で。近くのカフェとか古着屋に……置いてもらえませんか」


 館長が「三本?」と聞き返すより早く、光希が補足する。口が滑る代わりに、手が動く人の説明だった。


 「一枚に三本。短い言葉。誰が見ても、次に観に来る理由がわかるやつ。ネットじゃなく、店の人が手渡しできる紙」


 萌愛花が、会話の隙間に顔を突っ込む。


 「紙なら、私、書けますよ。字がきれいかどうかは、見た人が決めればいいし」


 洋利がバッグからノートを出し、鉛筆を握る。


 「三本って、選ぶの難しいよね。泣けるの一、笑えるの一、帰り道に話したくなるの一。……あ、これ、泣けるの一に偏りそう」


 その横で、柱にもたれていた青年が、静かにペンを走らせていた。星樹だ。いつからいたのか、誰も気づいていなかった。彼は紙を一枚ちぎり、ロビーの端の掲示板に、控えめに貼った。


 『反省:次は上映開始前に来る。改善:電車を一本早める』


 萌愛花が「貼る場所が違う!」と突っ込み、星樹は耳まで赤くなって紙を剥がし、今度は自分のノートにしまった。笑いが起きた。


 その笑いの端で、智砂が腕を組んでいた。売店の前、飴のケースの横。彼女はスマホの画面をこちらに向ける。メモに、数字が一つ。


 「今日、私の残り、三十五」


 陽咲が首をかしげると、智砂は淡々と続けた。


 「気持ちの残量。三十を切ったら、帰る。泣くのも笑うのも、電池使う。……ここ、閉まるって聞いたら、残量が減った。だから、今のうちに言う。紙、作るなら、手伝う」


 光希が「数字、好きだな」と口にすると、智砂は即座に返した。


 「好きじゃない。必要だから書く。あなたみたいに、黙って無茶しそうな人がいるから」


 黙って無茶しそうな人——光希は反論する代わりに、受付の横の机を指で叩いた。そこには、誰かが置いていったチラシの束がある。単色の印刷で、情報が多すぎて目が滑るタイプだ。


 「じゃあ、これを見本にしない」


 陽咲がうなずき、手帳の新しいページに小さく書く。


 「今日の小さな目標。館長に『紙で行きます』と言う。……もう言った。次。店の人に一言お願いする」


 館長が、封筒を胸に抱えたまま、しばらく黙った。ロビーにはまだ人がいる。けれど、耳はここに集まっている。館長は、視線を上げ、貼り紙の方ではなく、彼らを見た。


 「紙、置いてくれる店、心当たりは?」


 萌愛花が指を三本立てる。


 「カフェ一軒、古着屋一軒、パン屋一軒。全部、私、しゃべってるうちに仲良くなった」


 洋利が「しゃべってるうちにって便利な言葉だな」と笑い、星樹が「印刷は……会社のプリンタ、使えます。誰にも迷惑かけない時間に」と小さく言った。


 光希は机の上のチラシを裏返し、白い面を作る。ペンを持ち、さらさらと枠だけ引いた。三つの四角。上にタイトル。下に地図のような矢印。手際がよすぎて、館長が思わず見入る。


 「この店の名前、どうしてピンクサンドなんですか」


 陽咲が尋ねると、館長は封筒を少し下げ、笑った。


 「海の砂が、朝だけピンクに見える町があってね。昔、そこに行くはずだった友達が……来られなくなった。だから、せめてここに、水平線を置きたかった」


 ロビーの灯りの下で、誰もすぐには言葉を継げなかった。萌愛花が口を開きかけ、閉じる。洋利が鼻をすすり、今度は理由が安くない涙を流す。智砂がスマホのメモに、そっと「残り三十」と打ち直した。


 光希はペンを置き、短く言った。


 「水平線、増やす。客席で」


 館長は、息を吐いて、うなずいた。


 「五分、延びましたね」


 陽咲が、手帳のページを指でなぞる。消しゴムは出さない。代わりに、鉛筆で太く線を引く。


 「明日の午前十時。ここ。紙の一枚目を作って、昼までに店に渡す」


 萌愛花が「十時、早っ」と言いながら、もうメモを取り始める。洋利が「僕、パン屋から行きたい」と言う。星樹は「電車、一本早める」と自分に言い聞かせるように頷く。智砂はスマホを閉じ、「残り、二十八。今日は帰る」と宣言して、さっと出口へ向かった。


 その背中を見送ってから、館長が小声で言った。


 「……あなたたち、常連じゃなかったんですね」


 陽咲が笑う。ロビーに落ちる笑い声は小さくても、確かに温かい。


 「今夜から、常連です」



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