第19話 桃色の砂と、指先の文字
五月第四週の土曜、午前七時五分。下北沢駅の改札前で、館長は小さな紙袋を片手に立っていた。袋の口からは、白い貝殻が一つだけ覗いている。昨日の夜、ロビーの片隅で拾ったものだと言っていた。
「早いですね」
陽咲が声をかけると、館長は頷くだけで、紙袋を胸に寄せた。言葉が少ないのに、手だけが落ち着かない。袋の紙が、くしゃりと鳴る。
光希はスマホの画面を上げたまま言った。
「七時三十五分の快速に乗れれば、昼前には着く。帰りは、陽が落ちる前に戻れる」
「……日帰りで、十分」
館長の返事は短い。けれど、目は改札の向こうではなく、足元のタイルを見ていた。そこに、何か映っているように。
改札を抜けると、萌愛花が大きな保冷バッグを両腕で抱えて走ってきた。
「間に合った! ロケ弁の練習! 今日は海の空気に合わせて、塩むすび!」
「練習って言った?」
光希が眉を上げると、萌愛花は「言ってない」と胸を張る。洋利がその横で、紙コップのコーヒーを二つ持って、少しずつ零しながら追いついた。
「館長さん、飲む? 熱いの、ある! ……あ、こぼれた! でもまだ飲める!」
「……ありがとう」
館長が受け取る時、指先が一瞬だけ震えた。陽咲は見ないふりをして、手帳を開く。
「今日の小さな目標……『桃砂町の砂の色を、自分の目で確かめる』」
ペン先が止まった。書いてしまうと、戻れなくなる気がした。けれど、消しゴムには触れず、丸を一つだけ小さく描いた。
階段の下で、智砂が全員の切符をまとめて買っていた。硬貨を入れる音が、妙に気持ちいい。星樹は少し離れて、改札の柱にもたれている。ポケットの中のスマホが、また震えたのだろう。彼の肩が一瞬だけ上がり、すぐ落ちる。
「……切符、ここ」
星樹が手を伸ばす。智砂は言葉を挟まず、切符を一枚だけ渡す。受け取る指が、いつもよりゆっくりだった。
電車の中は、休日の朝の匂いがした。眠そうな学生、買い物袋を抱えた夫婦、窓に額をつける子ども。萌愛花の保冷バッグが座席の隙間にはまり、抜けなくなって、洋利が涙目で引っ張って、光希が無言で持ち手を回して外した。
「……角度」
「角度、尊い! 助かった!」
萌愛花が大げさに拝むと、隣の席の子どもが真似して手を合わせ、母親が「すみません」と笑う。館長はそれを見て、口の端をほんの少しだけ上げた。笑う前の形だ。
桃砂町の駅に着いたのは、午前十時四十分。改札の外に出た瞬間、空気が変わった。潮の匂いが、駅前の自販機の甘い匂いを押しのける。
「うわ、海だ……!」
洋利が胸を押さえた。泣く準備をしている顔なのに、息はちゃんと吸っている。陽咲はその横で、手帳のページを閉じた。風に紙がめくれそうで、今日は守りたい。
バス停まで歩く途中、館長は古いパンフレットを取り出した。紙は角が丸くなっていて、写真の色も少し褪せている。
「昔、ここで……砂の色を撮るって言った」
「誰に?」
光希が聞くと、館長は返事を先延ばしにするようにパンフレットを折り直した。
「……仲間に。映画の話をする仲間に」
バスが坂を下り、窓の向こうに海が見えた。曇り空の下で、水平線が白く滲む。到着のアナウンスが鳴り、六人と館長が降りた。
砂浜に足を踏み入れた瞬間、陽咲は思わずしゃがんだ。
砂が、淡い。白でも灰でもなく、薄い桃色が混じっている。日が出ていないのに、なぜか温かい色だ。
「……ほんとに、桃だ」
萌愛花が「おいしそう」と言いかけて、途中で飲み込んだ。代わりに保冷バッグを開け、塩むすびを一つだけ手のひらに乗せる。
「海の前で食べたら、ただの白いご飯も、映画みたいになるよ」
「それ、今言う?」
光希が突っ込むと、萌愛花は「今しかない」と返す。智砂が腕時計を見て、砂浜の端を指す。
「昼までに、三つ。見る。砂、灯台、港の商店街。帰りのバス、逃さない」
「智砂、旅が軍隊みたい」
洋利が笑うと、智砂は首を傾けただけで、先に歩き出した。歩幅が一定で、砂に残る足跡がまっすぐだ。
館長は、潮の引いたところで立ち止まり、黙って貝殻を拾い始めた。拾っては砂を落とし、紙袋に入れる。その動きだけが、時間の針みたいに一定だった。
陽咲は、その背中を見て、胸の奥が少しだけ重くなる。閉館の札の文字が、ここまで追いかけてきている気がした。
少し離れた場所に、星樹が立っていた。波打ち際に近づかない。砂を踏みしめる足元だけを見ている。
陽咲は近づきかけて、足を止めた。代わりに、しゃがんで砂をすくう。指の間から落ちる粒が、ほんのり桃色だ。
「星樹」
名前だけ呼ぶと、星樹は顔を上げた。返事はない。けれど、目が陽咲の指先に移る。
陽咲は手帳を閉じたまま、砂の上に人差し指を置いた。ゆっくり、文字をなぞる。
感情のバッテリー。
書き終えた瞬間、風が吹いて、最後の「ー」が少しだけ崩れた。
「……減るんだよね、これ。勝手に」
陽咲が言うと、星樹は小さく頷いた。ポケットからスマホを出し、画面を見ずに電源を落とした。
「……今日は、戻す」
その言葉が、砂の上に落ちたみたいに静かだった。けれど、陽咲の耳にははっきり届いた。
智砂の腕時計が、短く鳴った。彼女は砂を払って立ち上がり、港の方角を指した。
「次。灯台。徒歩二十分。走らない。転ぶ」
「命令が増えてる!」
萌愛花が笑い、保冷バッグを背負い直した。洋利は「転ばない!」と宣言しながら、さっそく砂に足を取られて膝をつく。
「……ほら」
智砂が淡々と言うと、洋利は顔を赤くして立ち上がり、砂を叩いて笑った。
灯台は、白いペンキが少し剥げていた。登る階段の窓から、曇った海が広がる。光希はポケットから小さな録音機を出し、スイッチを入れた。
「波の音。ロビーじゃ拾えない」
「音だけで、観客が泣くやつ?」
洋利が期待に満ちた顔をすると、光希は「泣くのは勝手」と言いながら、録音機を欄干に近づける。風が強くて、萌愛花の髪が顔に張りつき、彼女はそれを指でどけながら売店の小さな窓に顔を寄せた。
「すみませーん。映画館の館長さんが来てて。……え、ここ、貝殻の図鑑ある? 買う!」
「今、買う話じゃない」
光希が言い切ると、売店の人が笑って、図鑑を一冊だけ差し出した。館長は受け取り、ページをめくる。指の動きが、さっきより落ち着いていた。
港の商店街は、昼の匂いが濃かった。揚げ物、干物、味噌汁。洋利が試食のコーナーで「うまい……」と目を潤ませ、萌愛花が「泣きながら食べると塩分が増えるよ」と勝手な理屈をつける。智砂は紙コップの水を渡し、星樹はレジ前で袋詰めを手伝った。無言で、でも手際だけは早い。
堤防に腰を下ろし、塩むすびを配ると、館長はしばらく海を見ていた。光希が隣に座り、缶コーヒーのプルタブを開ける音が、風に混ざる。
「……ここに来る予定、昔にあったんですよね」
陽咲が言うと、館長は頷いた。
「助成金の申請を……途中で止めた。締切を過ぎたのに、誰にも言えなかった。仲間に迷惑をかけた」
館長は、塩むすびを半分に割って、手のひらで形を整え直した。食べるより先に、直す。
「この町の砂を撮って、短い映画にするって約束も……守れなかった。言い訳を探してるうちに、時間だけが過ぎた」
「言い訳、上手くなるよね」
光希がぽつりと言う。責める声じゃない。自分に向けた声だ。
館長は「うん」とだけ返した。
星樹が、少し離れた場所から近づいてきた。手には、さっき買った貝殻図鑑。館長の前にそっと置く。
「……これ、使って。ロビーに置けば、子どもも見れる」
館長が顔を上げると、星樹は一歩だけ引いた。
「……俺も、言い訳してた。だから、今日は……電源、切った」
星樹は自分のスマホの黒い画面を見せた。洋利が「それ、勇気!」と泣き笑いで言い、萌愛花が「じゃあ代わりに私が写真撮る!」と勝手にシャッター音を鳴らす。智砂が「撮るなら、海を背に」と位置を整え、陽咲は笑って、手帳を閉じたまま胸に抱えた。
館長は図鑑の表紙を撫で、堤防のコンクリに視線を落とした。
「……閉館の前に、一本だけ。今度は、途中で投げない」
背後で、洋利が「館長さん! これ、きれい!」と拾った貝殻を掲げ、萌愛花が「ほら、涙出てない! 成長!」と勝手に判定し、光希が「砂浜で判定するな」と言いながら笑っている。
館長は紙袋を抱え直し、陽咲が書いた文字を見た。しばらく黙ってから、貝殻を一つだけ砂の上に置く。
「……タイトルみたいだ」
「タイトルに、する?」
光希が即座に返すと、館長は首を振りかけて、途中で止めた。
「……閉館の前に、一本だけ」
陽咲は、砂の上の文字が波で消える前に、目に焼きつけた。小さな丸を描いた手帳のページが、胸の中で静かに温まっていく。




