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第18話 カフェの黒板と、三つのおすすめ

 五月第三週の月曜、午後零時十五分。下北沢の路地に面した小さなカフェは、ガラス越しに豆の香りを漏らしていた。ドアベルが鳴り、店の奥から「いらっしゃい」がもう一度飛んでくる。

 陽咲は紙袋を胸に押し当てたまま、カウンターへ近づいた。袋の口から、番号を書いたチラシの角が少しだけ覗いている。十枚。星樹が言った通り、戻ってから迷子にしないための数字だ。


 「こんにちは。えっと……ピンクサンドホライズンの……」


 陽咲が名乗ろうとした瞬間、隣の萌愛花が前のめりに言った。

 「映画館の近所の者です! 紙のチラシ、置かせてもらえませんか!」


 勢いが強くて、カウンター上の砂糖壺が小さく揺れた。洋利が慌てて両手を伸ばし、壺をそっと押さえる。顔は真剣なのに、指先だけ丁寧で、陽咲は喉の奥で笑いをこらえた。


 レジの向こうに立つ店員は、薄いエプロンの紐を結び直してから、紙袋を見た。

 「チラシ……あの、ガラスのところに貼ってある『休館』って文字の……?」


 その言葉で、陽咲の胸のあたりが一段だけ沈む。けれど光希が、沈む前に短く補った。

 「今は通常営業。五月末までって書かれてるけど、少しでも客席を増やしたい。紙でつなぎたい」


 「紙で、つなぐ」


 店員が復唱し、口の端を上げた。嫌味でも同情でもない、仕事の顔だ。陽咲はその表情に、なぜか救われる。

 「いいですよ。レジ横の黒板の下、今ちょうど空いてる。……何枚?」


 「十枚です」


 陽咲が言い切る前に、萌愛花が袋を開けて数え始めた。

 「一、二、三、四、五……あれ? 九……え、九?」


 洋利が「えっ」と声を上げ、智砂が無言で袋の底を覗いた。袋の角に、もう一枚が斜めに刺さっているのが見えた。

 光希が手を伸ばし、紙を引き抜く。紙の角が指に当たって、彼の眉がほんの少しだけ動いた。


 「十。数え方がうるさい」


 萌愛花が「うるさいって言った!」と喜び、洋利が「喜ぶとこじゃない!」と肩を揺らす。店員が笑いを堪えるように口元を手で隠し、陽咲はそこでようやく、さっき沈んだ胸が元の高さに戻るのを感じた。


 店員が黒板の前に立つ。今日のおすすめの欄に、白いチョークで書かれた文字が残っている。

 ――苺のタルト 午後三時まで。

 ――ホットミルク 蜂蜜少し。


 その下の空白に、店員が振り返った。

 「ねえ、置くだけより、一言あった方が手に取ってもらえる。……何て言えばいい?」


 陽咲の手帳の中で、鉛筆の芯が待機している気がした。消しゴムも、すぐ隣で待っている。だけど、今日は消したくない。

 「……『帰り道に寄り道する映画』とか」


 口から出た言葉が、自分の想像より柔らかい。陽咲は自分で驚き、すぐに付け足した。

 「このカフェの帰り道に、ふらっと寄って、一本観て……って。そんな感じ」


 光希が首を傾ける。

 「一本でいいの?」


 「……三つです」


 智砂が当然のように言い、指を三本立てた。

 「この映画館は、三つを並べて選ばせる。迷う人が減る。店員の一言も、三つあると覚えやすい」


 店員が「三つ……」とチョークを持ち直す。萌愛花が待ってましたとばかりに身を乗り出した。

 「じゃあ、こう! 『一つ目:笑いたい人』、『二つ目:泣きたい人』、『三つ目:どっちでもいい人』! この前、うちのロビーで決めたやつ!」


 「決めてない。押しつけただけ」


 光希が即答すると、萌愛花は「押しつけたのは愛だよ」と胸を張る。洋利が「愛って言えば全部許されると思ってる!」と突っ込み、店員がとうとう声を出して笑った。


 笑いが落ち着いたところで、陽咲は小さく息を吸い、もう一度言葉を選ぶ。

 「笑う、泣く、どっちでもいい……だと、ちょっと強いので。……うちの今日の三つを、ここ用に変えてもいいですか」


 店員がうなずく。チョークが黒板の上で待っている。

 陽咲は紙袋から一枚抜き、チラシの上部にある三つの枠を指でなぞった。印刷の黒が指先に乗るような気がする。


 「一つ目は……コーヒーの香りが残る映画。二つ目は……帰り道の足取りが軽くなる映画。三つ目は……明日の朝、少しだけ早く起きたくなる映画」


 言い切った瞬間、萌愛花が「なにそれ、めっちゃいい!」と拍手し、洋利も「わかる! 朝ちょっと早いと勝った気する!」と頷いた。

 光希は「勝ち負けじゃない」と言いながらも、口元だけがほんの少し緩んでいる。


 店員は黒板に、ゆっくり書いた。


 ――ピンクサンドホライズン

 ――三つのおすすめ

 ・コーヒーの香りが残る一本

 ・帰り道の足取りが軽くなる一本

 ・明日の朝、少し早く起きたくなる一本


 字が書かれていくたびに、陽咲の胸の中に、紙の重みとは別の重みが増えていく。さっきまで「置かせてもらう」だけだったのに、今は「預ける」に近い。


 そこへ、ドアベルが鳴った。背中越しに入ってきた男の声が「ホットコーヒー、持ち帰りで」と言う。

 店員が「はい」と返事をし、レジの横の黒板を指で軽く叩いた。

 「待ってる間に、これ、見て。近所の映画館の。今日、三つあるって」


 男が黒板を見て、「へえ」と言ったあと、チラシを一枚取った。指先が迷わず、紙がすっと持ち上がる。

 陽咲は、喉の奥が熱くなるのを感じた。泣くほどじゃない。だけど、笑うほどでもない。ちょうど、真ん中の温度だ。


 光希が、陽咲の袖を軽く引いた。

 「……戻ろう。次は古着屋。十枚、置けたって言える」


 陽咲は頷き、紙袋を抱え直した。手帳を開き、今日の目標の丸に、今度は迷わず色を塗る。

 その時、店の外から足音が急いで近づき、ドアベルが短く鳴った。


 「……ごめん、遅れた」


 星樹が息を整えながら入ってきた。いつもより肩が上がっていて、手の中のスマホを強く握っている。けれど、目は陽咲たちを見つけた瞬間に、少しだけ柔らかくなった。

 陽咲は、言葉を探して、消しゴムに触れそうになる指を止めた。

 「……大丈夫?」


 星樹は一拍置き、「うん」と言ってから、店員に向き直った。

 「すみません。チラシ、十枚、置かせてもらいました。番号、ここ……一番」


 番号、と言った瞬間だけ、彼の声が震えた。数字が、現実を固定するみたいで。

 光希が、短く言う。

 「二番は、次。歩けるか」


 星樹は頷いた。萌愛花が「歩けるなら、歩こう! ついでにコーヒーも歩こう!」と意味不明なことを言い、洋利が「歩けるのは人だけ!」と返した。

 店員が「次、来る時は映画の話して」と笑い、黒板の文字が、店の奥の湯気に霞んで見えた。


 外へ出ると、午後の光が路地の端に溜まっていた。陽咲は紙袋の中の残りを指で数え、星樹の歩幅に合わせて歩き出す。

 背中を見送るだけじゃ足りない。

 でも、背中が戻ってきた時に、置ける場所を増やすことなら、今日もできる。


 角を曲がって三十歩ほどで、店の裏口の換気扇の音が遠のいた。代わりに、古着屋の看板の向こうから、ハンガーが触れ合う乾いた音が聞こえる。

 陽咲は歩きながら、スマホのメモを開いた。


 感情のバッテリー いま、63。


 数値を書いたあと、画面を消して、星樹の横顔を盗み見る。彼は笑おうとして笑い切れていない。口角が上がる前に、何かが引っかかっている。

 その引っかかりが何かは聞けない。けれど、黙って離れるのも違う気がした。


 「古着屋、店員さんが一言言ってくれたら……嬉しいね」


 陽咲がそう言うと、星樹は歩幅を落とさずに頷いた。

 「嬉しい。……だから、番号、ちゃんと付けた。戻ってくる場所が、増えたって分かる」


 そこへ、星樹のスマホがまた震えた。彼の指が一瞬だけ固くなる。だが、画面を見ないままポケットへ押し込み、息を吐いた。

 「今は、歩く。……二番、置く」


 光希が「それでいい」と短く言う。洋利が「歩くの、いい!」とやたら明るく言い、萌愛花が「歩くついでに、帰りにパン屋も寄ろうね」と勝手に予定を増やした。

 智砂は何も言わない代わりに、紙袋の口をきちんと折り、風でチラシが飛ばないように押さえた。


 陽咲は、その手元を見て、こっそり手帳に書いた。

 「今日の小さな目標:二店舗に、紙チラシを十枚ずつ置く」


 書き終えたあと、消しゴムには触れなかった。



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