第17話 紙チラシの束と、店員のひとこと
五月第三週の月曜、正午少し前。ロビーの床はモップの水気がすっかり引いて、古い木の匂いが戻ってきていた。
カウンターの上には、紙チラシの束が二つ。昨日より明らかに薄い。束の角が、へこっと凹んでいる。
「減ったね」
洋利が、覗き込んで、口を尖らせた。泣く時の形と同じなので、本人だけが気づいていない。
萌愛花が腕を組んで、ほお、と息を吐く。
「いいことじゃない? 持って帰る人がいたってことでしょ。……あ、でも、配る前に無くなったら困るか」
陽咲は手帳を開いて、今日のページに小さく書いた。
「今日の小さな目標:一店舗に、紙チラシを十枚置く」
書いた直後、消しゴムに指を掛けかけて、やめる。紙のざらざらを増やしたくなかった。
光希はカウンターの奥から、段ボール箱を引っ張り出してきた。箱の側面には、黒ペンで「紙」とだけ書かれている。中身は、コピー用紙と、色紙と、ホチキスの替え芯。雑然としているのに、種類ごとに小さな仕切りが作られているのが、星樹の手つきだと分かる。
星樹は、ロビーの隅で雑巾を干しながら、ちらりとこちらを見た。目が合いそうで、陽咲は一歩だけ視線を逸らした。昨日、自分が選んだ「見送る」というやり方が、まだ胸の奥に引っかかっている。
智砂が、紙の束を指先で揃えた。端がきっちり揃う音が、妙に気持ちいい。
「十枚ずつ置くなら、店ごとに紙袋に入れた方がいい。店員さんが面倒にならない」
萌愛花が食いつく。
「紙袋! かわいいやつ! ロビーの棚にあった、あのクラフト紙の!」
「それは、館長がポップコーン用に買ったやつだ」
光希が即答して、萌愛花が「えー」と頬を膨らませた。口を尖らせたまま、なぜか敬礼をする。
洋利が笑って、笑った拍子に急に真顔になる。
「でもさ。昨日、休館のあとに戻ってきた人、いたよな。貼り紙見て……肩、落ちてた」
その一言で、ロビーの空気が少しだけ重くなる。重いのに、湿っていない。乾いた重さだ。
陽咲は手帳を閉じ、スマホのメモを開いた。残量の欄に、指でそっと数字を書く。
【感情の残量:48】
四十八なら、まだ動ける。言葉が出るかは別だけど。
光希は箱の中から、薄い桃色の色紙を一枚引っ張り出した。
「これ、使う。ピンクサンド……っぽい」
「っぽい、って言った」
萌愛花が即座に突っ込み、智砂が無言で頷く。洋利は肩を震わせて笑う。
光希は口を尖らせかけて、途中で言い換えた。
「……この店の名前の由来に、近い色」
たったそれだけの言い換えなのに、陽咲の胸が少しだけ軽くなる。誰かのために言葉を選び直すのは、彼の得意分野じゃない。だから余計に、目に見える。
「じゃあ、今日の三本は?」
洋利が、手帳のような小さなメモ帳を開いた。彼の字は大きくて、感情も大きい。
館長の手書きの上映表を思い出して、萌愛花が「字が下手な人、二人いるし」と昨日言ったのを、陽咲はふいに思い出す。笑いそうになって、飲み込む。
智砂が、いつものように結論を先に置く。
「一本目は、泣きたい人向け。二本目は、笑いたい人向け。三本目は、どっちでもいい人向け。迷う人が減る」
「迷う人、減らしたいの?」
陽咲が思わず口に出すと、智砂は眉を動かさずに言った。
「迷う時間があれば、来る回数が増える。店を閉めないために必要」
言い方が一直線で、光希と似ているのに、似ていない。光希は「口が滑る」けれど、智砂は「滑らせない」。
陽咲は、その違いが少し可笑しくて、手帳の余白に小さな丸を描いた。今日の目標の前に、先に笑った自分の証拠として。
星樹が、干していた雑巾を丁寧に畳み、こちらへ来た。
「……紙、十枚ずつにするなら、番号振っておいた方がいい。どの店に何枚置いたか、戻ってから分かる」
言葉は短いのに、内容は具体的だ。陽咲は、昨日の「見送る」だけじゃ足りなかったことを、やっと自分で認める。
「星樹。……紙袋、ある?」
声が出た瞬間、ロビーの空気がほんの少しだけ動いた。誰かが扉を開けたみたいに。
星樹は一拍だけ止まってから、カウンター下の棚を引き出した。クラフト紙の小さな袋が、きれいに重なっている。
「館長が、余りを置いてた。……持っていける」
光希が「館長に言っておく」と短く言う。言い方がぶっきらぼうで、それが今はありがたい。
萌愛花が袋を一枚取り、顔の横でひらひら振った。
「ほら、かわいい! これで十枚入れて、店員さんに『よろしくお願いします』って言うんでしょ? 私、言うの得意!」
「言い過ぎて、十枚置いたの忘れるなよ」
光希が真顔で返すと、萌愛花が胸を叩く。
「忘れない。だって私、今日は……えっと……」
言いかけて止まった。自分の「今日の小さな目標」を決めていない顔だ。
陽咲は、思わず笑ってしまう。洋利も笑って、笑いながら涙の準備をしている顔になる。
「じゃ、まず古着屋」
智砂が先導するように言い、六人は紙袋を二つ抱えた。
外に出ると、下北沢の路地は昼の匂いに変わっていた。コーヒー豆の香り、鉄板焼きの甘辛い煙、古着に染みついた柔軟剤の残り香。全部が混ざって、ここだけの味になっている。
古着屋の店主は、レジの横に置かれた紙袋を見るなり、指で二回トントンと叩いた。
「これ、映画の割引券?」
萌愛花が一瞬で息を吸い、説明が洪水になりそうになったところを、陽咲が横から小さく言った。
「割引は……ないです。代わりに、三本のおすすめが入ってます」
「おすすめ、ね」
店主は袋を開け、チラシの一枚目を見た。桃色の紙に、黒文字で大きく「映画3選」。その下に、館長が書いた上映時間と、智砂が書いた短い説明。さらに一番下に、空欄の小さな枠。
「この枠、なに?」
光希が答える前に、星樹が言った。
「店員さんが一言書けるように。……渡す時に、話しかけやすい」
店主が、ふっと笑った。笑い方が小さくて、でも目が柔らかい。
「そういうの、助かる。うちの常連、映画の話好きなんだ。レジ横に一枚、試着室前に一枚。あと……」
店主はチラシを二枚抜き、残りを袋ごと抱えた。
「残りは、欲しいって言った人の手に直接。こっちで渡す。……閉めるなよ、あの箱」
箱。ミニシアターを、店主は箱と呼んだ。スクリーンの四角と、客席の四角が入っているからだろうか。
陽咲は、胸の奥で何かがぎゅっと締まるのを感じて、手帳を握り直した。丸を描く手が、ほんの少しだけ震えた。
店を出た瞬間、洋利が鼻をすすった。
「今の、ちょっと……きた」
萌愛花が背中を叩く。
「泣くの早い! まだ一店舗目!」
笑いが起きて、路地の空気が軽くなる。軽いのに、薄くない。厚みのある軽さだ。
カフェに向かう途中、星樹のスマホが震えた。彼は画面を伏せるように握り、歩幅を変えずに言った。
「……先に行って。すぐ追いつく」
光希が一瞬だけ立ち止まりかけ、言葉を飲み込み、歩き出す。陽咲はその背中を見て、手帳のページの端に、小さな丸を一つ塗りつぶした。
「一店舗に十枚置く」
まだ十枚かどうかは数えていないのに、丸を塗った自分に、少しだけ笑ってしまう。
背中を見送るだけじゃ、足りない。
でも、見送った背中が戻ってくる場所を作るのは、今日の自分にもできる。
カフェのドアベルが鳴った。鈴の音に混じって、奥から「いらっしゃい」と声がする。
陽咲は紙袋を抱え直し、今度は消しゴムに指を掛けずに、前へ出た。




