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第16話 早朝のモップと、減ったチラシ

 五月第三週の月曜、午前八時半。下北沢の路地は、夜の湿り気をまだ残していて、古着屋のシャッターの隙間から洗剤の匂いがふっと漏れた。

 ミニシアター「ピンクサンドホライズン」の入口には、白い紙が一枚、透明テープで四隅を留められている。太い黒ペンの文字は、紙の真ん中で少しだけ曲がっていた。


 ――本日より通常営業。


 陽咲は、その「通」の字の最後の払いを、指でなぞるように目で追ってから、手帳を開いた。

 昨日のページには、消しゴムの粉が薄い雪みたいに残っている。書いては消した跡が、紙の繊維を起こして、指先にざらりと引っかかった。


 「今日の小さな目標……」


 声に出しそうになって、口の中で止める。代わりに、胸の奥で息を数えた。

 スマホのメモに、いつもの癖で残量を書き込む。


 感情のバッテリー いま、58。


 扉を押すと、ロビーの空気がひんやりと頬に触れた。灯りは半分だけ点いていて、ポスターのガラス面に、外の灰色の空がぼんやり映る。

 静かなはずの室内で、細い音が規則正しく鳴っていた。


 シャ、シャ、シャ。


 モップだ。

 陽咲は足音を殺して、柱の陰から覗いた。


 星樹がいた。

 作業用の軍手をはめ、腰を落として、ロビーの床を一直線に拭いている。背中の布が、腕の動きに合わせて引っ張られ、ほどけそうな結び目が小さく揺れた。

 拭いた跡が、光の筋みたいに床に残っていく。彼はそれを、わざと端から端まで揃えるように、角度まで同じにしていく。


 陽咲の喉が、きゅっと鳴った。

 先週の金曜、客の前で飛び出した言葉。誰かの声。止める手。引いた椅子の音。

 思い出が、ロビーの隅にまだ落ちている気がして、拾うには手が足りない。


 星樹はモップを壁に立てかけると、受付横のチラシ棚へ向かった。

 棚の上には、紙チラシがきれいに揃っている。端が少し丸まったものだけ、きっちり角を合わせ直されていた。


 彼は、棚の一番上の束を持ち上げ、机の上に置いた。

 次に、ポケットから小さなカウンターを出す。指で押すと「カチ」と鳴る、数を数える道具だ。

 静まり返ったロビーで、その「カチ」が妙に大きい。


 カチ。

 カチ、カチ。


 星樹は紙を一枚ずつめくりながら、カウンターを押していく。途中で一度だけ、指が滑って「カチカチカチ」と三回鳴り、彼はぴたりと手を止めた。

 誰に言うでもなく、小さく息を吐き、机の上のメモ帳にペンを走らせて、数字を書き直した。


 陽咲の口元が、勝手に持ち上がりそうになる。

 笑っていいのか、わからないのに、身体は笑い方だけ覚えている。


 星樹のメモ帳は、開いたページの上半分が表になっていた。

 店の名前が、短い字で並んでいる。


 「駅前の古着屋」

 「線路沿いの喫茶」

 「坂の下の花屋」

 「北口の銭湯」


 その横に、配った枚数と残りの束の数。日付まで細かく。

 表の下には、別の欄があった。箇条書きが、まっすぐ並んでいる。


 ・入口ドアの取っ手

 ・ロビーの椅子 六脚

 ・棚の角

 ・トイレの鏡


 それぞれの横に、小さな丸。

 丸の中身は、もう黒く塗りつぶされていた。


 陽咲は、思わず手帳を胸に押し当てた。紙が、彼のやり方みたいに固い。

 自分の手帳には、できたことを丸で囲む余裕がない日もある。囲む前に消してしまう日がある。その日の紙は、いつもざらざらする。


 星樹は、次に棚の二段目の束を取る。

 カウンターが、また鳴る。


 カチ。

 カチ。


 そのたびに、ロビーの壁が少しずつ近づくみたいで、陽咲は肩をすくめた。

 声をかければ、音は別の形に変わる。変わった音が、また誰かを刺すかもしれない。


 陽咲は手帳を開き、今日の欄にペン先を置く。

 書く。止まる。消しゴム。書く。止まる。

 紙の上に、二つの言葉が並んだ。


 「星樹に」

 「ありがとう」


 消しゴムで消した。

 消し跡が、さっきより深く紙を白くした。


 そのとき、入口のベルが鳴った。

 チリン、と小さな鈴の音が、いつもより明るい。


 宅配の人が、段ボールを抱えて立っていた。「清掃用品です」と短く言い、伝票を差し出す。

 星樹は「……ありがとうございます」と受け取り、サインをする手がほんの少し震えた。伝票の紙が、ペン先に引っかかって、線が一度だけ歪んだ。


 宅配の人が出ていくと、星樹は段ボールを壁際に寄せ、ガムテープを剥がした。

 中から出てきたのは、漂白剤と雑巾と、折り畳みの小さな椅子。どれも安いものなのに、星樹は丁寧に箱の角を押さえて、静かに取り出していく。


 陽咲は、その動きを、ただ見ていた。

 言葉が、胸の中で渋滞している。通したいのに、出口が見つからない。


 星樹は雑巾を一枚手に取り、洗い場へ向かう途中で、ロビー中央の椅子を一脚だけ動かした。

 ほんの数センチ。足の向きを揃えるだけ。

 それだけで、客が座ったときの視線が、スクリーンの中心に集まる。


 椅子の脚の下には、細いテープの切れ端があった。椅子の位置を示すための印だ。

 陽咲は、足先でうっかり踏みそうになって、寸前で止めた。剥がしてしまったら、星樹はまた貼り直す。貼り直す時間は、きっと誰にも見えないところから削られる。


 洗い場から水の音がした。蛇口をひねる音。雑巾を絞る音。

 陽咲はそのあいだに、受付の小さな掲示板を整えた。上映時間の紙をまっすぐ貼り直し、端の浮いたテープを押さえる。指に粘着が残る。

 客が来るまでに、できることだけ、やる。


 スマホが一度だけ震えた。

 グループの通知が一件。光希から短い文が来ていた。


 「昼前に行く。ロビー、無理するな」


 陽咲は返信欄を開いて、「了解」と打ちかけ、消した。

 自分の指は、消しゴムみたいだ。消すのは上手い。


 洗い場のドアが開き、星樹が出てきた。濡れた雑巾を折りたたみ、バケツを持っている。

 すれ違うとき、漂白剤の匂いが一瞬だけ強くなる。星樹は陽咲を見なかった。見ないようにしているのか、見る余裕がないのか、陽咲には判別がつかない。


 星樹はそのまま裏口へ回り、黒いごみ袋を二つ抱えて出ていった。

 袋が床をこすって、ガサ、と鳴る。ドアが閉まる。足音が階段を下りる。

 音が遠ざかるほど、陽咲の口の中の言葉が増える。


 陽咲は、スマホのメモを開いて、さっきの残量の下に一行足した。


 感情のバッテリー いま、61。

 減ったチラシの数だけ、戻った。


 彼女はペンを握り直し、今日の小さな目標を、今度は消さずに書いた。


 「背中を見送る」


 裏口の方から、またガサガサという音がして、星樹が戻ってきた。空になった袋を丸め、手を洗い、何事もなかったみたいにモップを握る。

 陽咲は、そこにいるのに、いないふりをした自分の足を見下ろした。


 星樹がモップを引くたび、床に新しい線が一本ずつ増える。

 陽咲はその線の先に、小さく頭を下げた。声は出さない。紙の上の目標みたいに、形だけ残す。


 見送り方なんて、いくらでもあるのに。

 陽咲は、それを選んだ自分の手の形を、しばらく見つめていた。



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