第14話 録音の行き先
五月第二週の金曜夜。下北沢の路地は、昼の熱が引いたぶんだけ、街灯の光がやけに白く見えた。ミニシアター「ピンクサンドホライズン」の入口には、いつもの紙チラシが三束。端が少し丸まり、誰かの指の跡がついている。
ロビーでは、椅子の数を数える音がする。館長が三脚の横で、手の甲に赤いインクをつけていた。プリンターのトナーが薄くて、何度も押し直したらしい。
「今日は……先に、僕が話します」
小さく言って、喉を鳴らした。言い切るまでに、ひと呼吸かかった。
光希は、録音用のスマホを台の上に置く。置き方が几帳面すぎて、陽咲が横からそっと角度を直した。客席側から館長の顔がよく見えるように、少しだけ、右。
陽咲は手帳を開き、ページの端に小さく書いた。
「今日の小さな目標:館長の言葉を、最後まで聞く」
書いたあと、消さない。鉛筆の芯を少し折ったまま、握り直す。
洋利がマイクを触って、ボリュームのつまみを回す。回しすぎて、スピーカーから「ボフッ」と低い音が出た。
「うわっ、ごめん! 心臓が一回、外に出た!」
胸を押さえて笑おうとして、目の端が湿る。萌愛花がすかさず、紙コップの水を差し出した。
「泣くのは五分トークの後! 水は先!」
言いながら、自分のバッグからペンを五本も取り出し、カウンターに並べる。誰も頼んでいないのに、色が揃っている。
智砂は入口のドアを開け閉めして、外の空気の流れを確かめるみたいに腕を振った。客が一人、二人と入ってくるたびに、彼女は同じ高さで目を合わせて言う。
「ロビー、走らない。約束できる?」
子どもがうなずくと、彼女は指で丸を作って見せた。それだけで、子どもの顔がほころぶ。
星樹は壁際に立っていた。前に出るわけでもなく、完全に引くわけでもない。彼の手元のノートは閉じている。閉じたまま、指先が紙の端を何度も撫でていた。
上映が終わり、客がロビーに流れてきた。館長が一歩前へ出る。背中が少しだけ丸く、でも逃げない角度だった。
「……閉館の貼り紙を出した時点で、僕は、もう決めていました。誰にも言えないまま。だから、契約書の……穴のことも、見ないふりをしていました」
陽咲が、無意識に鉛筆を握る手に力を入れた。紙に爪の跡が残りそうで、指をほどく。光希は、口を開きかけて閉じた。今は、切り込む番じゃないと、喉が判断した。
館長は続けた。
「昨日、皆さんの資料で知りました。穴があるなら、塞ぐ方法がある。……僕は、今日、ようやく相談します。家主にも、契約先にも。怖いけど、逃げません」
言い終えた瞬間、館長の肩が小さく上下した。息を吐いたらしい。
拍手が起きた。智砂が煽らなくても、自然に。
洋利が先に手を叩きすぎて、途中で鼻をすすった。
「うわ、俺も拍手で泣く……」
萌愛花が隣で、わざとらしく鼻を鳴らした。
「泣く前に、鼻をかんで! 音が拾われるから!」
笑いが一瞬だけ走り、ロビーの空気が軽くなる。
光希がスマホを手に取り、五分トークを始めた。
「映画三本の共通点を、一行で言う。……今日も、やります」
言いながら、陽咲を見る。陽咲は小さくうなずき、手帳の端に「呼吸」とだけ書いた。
ところが、二本目の話に入ったあたりで、館長のポケットが震えた。館長は一度だけ身を固くして、慌ててロビーの隅へ移動する。通話ボタンを押す指が、うまく滑らない。
数秒の沈黙。光希は話を続けようとして、言葉が詰まった。館長の横顔が、白くなっていくのが見えたからだ。
館長は通話を切って、戻ってきた。戻ってきても、足がロビーの床に馴染まない。靴底が、きゅっと音を立てる。
「……すみません。今、電話が……」
館長は視線を落としたまま、スマホの画面を見せた。そこには、音声ファイルの波形が並んでいる。タイトルに、見覚えのある日付と、「ピンクサンドホライズン」と入っていた。
陽咲の背中が冷たくなる。指先が勝手に手帳を閉じた。紙が「パタン」と鳴って、やけに大きく響いた。
光希が、声を落とす。
「それ……俺たちの、録音?」
館長はうなずいた。うなずき方が、謝るときの角度だった。
「相手は……『宣伝に使うから提供してくれ』と。僕は、誰にも渡していない。……なのに、向こうは『もう何本もある』と」
智砂が前へ出た。客がいるのも忘れたみたいに、一直線だった。
「誰が渡したの?」
問いが短い。短いほど、逃げ道がない。
星樹が、壁際で目を伏せた。ノートを持つ手が、ほんの少し震えた。萌愛花が一歩だけ前に出て、言葉を探すみたいに口を開き、閉じた。洋利は、笑う顔のまま、目だけが揺れていた。
光希が星樹に向けて言った。直球が、いつもより鈍く重い。
「星樹。……お前がやったのか」
星樹は答えなかった。答えない代わりに、頷きもしなかった。沈黙が、答えの形を作っていく。
客の一人が、小さく息を呑む音がした。別の客が、椅子を引く音を立てて、身を乗り出した。ロビーは舞台じゃないのに、視線が一斉に集まる。
智砂の声が跳ねた。
「裏切者!」
言った瞬間、自分の声の大きさに気づいて、唇を噛んだ。それでも、戻らない。胸の中に溜めていたものが、先に外へ出た。
萌愛花が、間に入ろうとした。笑いに変えようとして、でも舌が回らない。彼女はカウンターのペンを掴んで、意味もなく持ち替えた。
「ね、ねえ、ここ……お客さんいるし。今は……」
言い終える前に、洋利が涙声で続けた。
「星樹……なんで……。俺、あんたのノート、信じてた……」
最後の言葉が、泣き声に溶けた。
陽咲は、手帳を抱えたまま、胸の内側を探る。感情の残量を数字にしようとして、数字が出てこない。喉が狭くなる。狭いところに、言葉が詰まる。
それでも、彼女は一つだけ言った。
「渡す前に……館長に、言えたよ」
声が小さく、でも消えなかった。違う角度から刺す言葉は、余計に痛い。
星樹は、ようやく一歩前に出た。足音は小さかった。彼は館長に向けて、頭を下げた。深く、長く。顔が見えないほど。
そして、短く言った。
「……すみません」
言ったあと、言い訳を探さなかった。探すふりもしなかった。頭を上げ、ロビーの出口へ向かった。
光希が、止める言葉を飲み込んだ。飲み込んだせいで、喉が痛い。追いかけたら、客の前で、もっと壊れる気がした。
星樹がドアを押す。外の冷たい空気が一瞬だけ入ってきて、紙チラシがふわりと揺れた。ドアが閉まる音が、妙にきっぱりしていた。
館長は、その場に立ち尽くした。目が泳ぐ。泳いで、最後に床を見た。床を見ると、何か落ちていないか探せるからだ。落ちていれば拾える。拾えば、手が動く。手が動けば、気持ちも動く。そんなふうに、彼は自分を支えているように見えた。
客の中の一人が、遠慮がちな声で言った。
「……今日は、もう、終わりですか」
館長は返事が遅れた。遅れて、ようやく頷いた。
「……申し訳ありません。今日は、ここまでで」
言いながら、深く頭を下げた。頭を下げたまま、動けなくなった。
客が少しずつ帰っていく。靴の音が、階段へ消える。ロビーに残ったのは、六人の呼吸と、ペンのキャップを閉める音だけだった。
館長がカウンターの奥へ行き、白い紙を一枚取り出した。手が震えて、紙がカタカタ鳴る。彼は太いマジックで「明日の上映は休館」と書いた。字が歪んで、途中で線が太くなる。太くなったのは、押しつけたからだ。
貼り紙をガラスに貼るとき、彼の指が粘着テープにくっついて離れなかった。
陽咲が近づいて、そっと指を添えた。テープの端を押さえる。押さえるだけで、言葉が出なかった。
光希は貼り紙の前で立ち止まり、息を吸う。吸った空気が喉の奥で引っかかる。声にしたら、また何かを壊しそうで、彼は口を結んだ。
洋利が、泣きながら笑う癖を、今日は出せなかった。萌愛花はペンを片付けようとして、一本だけ床に落とし、拾う動作で時間を稼いだ。智砂は自分の叫びを反芻しているのか、壁を見つめたまま、指を丸くできずにいた。
ロビーのガラスに貼られた「休館」の二文字は、閉館の貼り紙より短いのに、胸に重く乗った。今日、誰かが外へ出した録音は、戻ってこない。戻ってこないから、明日、何を戻すべきかを、六人はまだ言葉にできない。




