第13話 名刺は二枚、言葉は一枚足りない
四月の第四週の月曜、正午。下北沢の空は薄い雲で、陽射しがコーヒーの湯気みたいにぼやけていた。ピンクサンドホライズンの裏口から入ると、ロビーに貼ったチラシの白い枠が、昨日より少しだけ増えて見える。気のせいではない。パン屋の店主が、角をきちんと揃えて貼ってくれたからだ。
陽咲は手帳を開き、今日の欄に短く書いた。
「館長に、昨日のお礼を言う」
書いたあと、消しゴムは出さずにページを閉じる。紙の端が指に触れて、柔らかい。
上映のない昼間の館内は静かで、機械の低い唸りだけが奥で続いている。受付の横の小さな事務室の扉が半開きになっていた。中から、紙をめくる音がする。
「館長、いますか」
光希が声をかけて、先に覗いた。
机の上に、見慣れない名刺が二枚、きちんと揃えて置かれていた。白地に黒い文字。社名の横に、細い金色の線が一本引いてある。名刺の下には、ホチキスで留めた契約書のコピーが数枚。端の紙が、めくり癖で少しだけ反っていた。
「……これ、なんだ」
光希が言い切る前に、萌愛花が名刺をつまみ上げた。
「えーっと、読むね。『東都シネマサポート 法人営業 ——』」
声が必要以上に朗々として、洋利が「やめて、急に宣言みたい」と肩をすくめた。
智砂は名刺の角を見て、指で軽く押した。
「机に置く位置が丁寧。館長の癖じゃない」
言いながら、彼女はスマホを取り出し、メモの数字を更新する。
「今、三十八」
「数字、そんなに下がる要素あった?」
洋利が眉を上げると、智砂は画面を見せずに言った。
「下がったのは、空気」
背後で、靴音が一つだけ近づいた。星樹が、リュックの肩紐を片手で押さえたまま立っていた。ノートの端が、リュックの口から少し覗いている。彼は名刺を見て、目を細くした。
「それ、俺が集めた」
声は小さいのに、言葉がロビーの床に落ちるみたいに重かった。
萌愛花が名刺を握ったまま、前へ出る。
「誰のため? 館長のため? それとも……」
言いかけて、口を尖らせた。言葉の先が見つからない。
星樹は、机の角に目を落とした。
「残りの期間が短い。手を増やせば、残る確率が上がる」
言い方が、算数みたいに整っている。
光希が机に手をつき、まっすぐ見た。
「館長に、直接言った?」
星樹は一拍遅れて、首を振った。振り方が小さすぎて、否定にも肯定にも見える。
洋利が、喉の奥で笑いかけて、途中で泣きそうな顔になった。
「俺さ、こういうの、苦手。隠し事があると、頭の中で勝手に最悪の映像を編集しちゃう」
自分で言って、自分で「編集って言葉が出た」と照れて、頬を掻く。
陽咲は、星樹のリュックの口を見た。ノートの端に、鉛筆の跡が何本もついている。書いて、消して、また書いた跡だ。自分の手帳と同じ跡に見えて、胸の奥が少しだけ痛む。
「星樹くん」
陽咲は呼びかけてから、次の言い方を選んだ。小さな目標は、怒鳴らないこと。責める言葉を、先に置かないこと。
「昨日、パン屋さんに置かせてもらえた。店主さん、チラシの角を押さえて貼ってくれてた。……だから、今は、紙が増えるのは嬉しい。だけど、名刺は、紙の種類が違う」
萌愛花が「そう、紙の種類が違う!」と勢いよく復唱し、勢いのせいで名刺を落とした。名刺は床で一回だけ跳ねて、ひらりと裏返る。洋利が「名刺に跳ねられたことある?」と真顔で言い、智砂が「ない」と即答した。
星樹は落ちた名刺を拾い、指で埃を払った。
「悪かった」
そう言ってから、彼はもう一枚の名刺を机の上に戻す。戻し方が、置くというより、片付けるに近い。
「悪かった、だけ?」
光希が言う。声は強いけれど、語尾が刺さらないように少しだけ丸い。
星樹は、ノートを引き出しかけて、やめた。
「今、言うと……余計に壊れる」
そのまま、事務室を出ようとした。
萌愛花が追いかけ、口を開きかけて閉じた。しゃべることで埋める癖が、今日は役に立たないと分かったからだ。代わりに、彼女は星樹のリュックの肩紐を指でつまみ、すぐ離した。触れたのは一瞬なのに、手のひらが熱い。
廊下に出た星樹が、扉を押さえた拍子に、リュックの口が開いた。中から、ノートに挟んでいた紙が数枚、ふわっと滑り落ちる。白い紙が、館内の薄暗さの中で、雪みたいに舞った。
「うわ、紙吹雪!」
洋利が言って、慌てて拾いに走る。智砂も無言でしゃがみ、番号のついた端を揃える。萌愛花は拾いながら「この館、冬じゃないのに雪が降る」と訳の分からないことを言い、光希が「口、動かしながら手動かせ」と小さく返した。
陽咲が拾い上げた一枚に、太い鉛筆で書かれた文字があった。
『契約書 第七条 更新の相手 署名欄が空白』
その下に、矢印と、館長の名前の書き方の癖までメモしてある。まるで、誰かが言い出せない穴を、紙の上で先に埋めようとしているみたいだった。
陽咲は紙を握り、星樹の背中を見た。彼は廊下の先で立ち止まっていた。振り返らない。振り返れば、言わなくていいことまで言ってしまうと知っている人の止まり方だった。
「星樹くん」
陽咲がもう一度呼ぶと、星樹の肩がほんの少しだけ動いた。
光希が、拾い集めた紙を揃えて一束にし、両手で持った。
「これ、館長に渡す。名前は出さない。……でも、いなくなるな。ロビーで、ちゃんと椅子を並べろ」
命令みたいなのに、最後が妙に生活の話で、洋利が「椅子が生活って何」と笑いながら鼻をすすった。
星樹は、やっと振り返り、頷いた。頷き方が、小さくて、でも確かだ。
「……金曜まで」
それだけ言って、彼は外へ出ていった。
扉が閉まる音が、館内に短く残った。陽咲は手帳を胸に当て、深呼吸する。今日の目標は、館長にお礼を言う。もう一つ増えた。星樹が戻れる席を、ロビーに残す。
「名刺は二枚で、言葉が一枚足りないね」
萌愛花がぽつりと言い、智砂が「足りない分は、手で埋める」と返した。
光希は紙束を抱えたまま、受付のカウンターへ向かった。陽咲も歩き出す。
受付の裏から、館長が紙袋を下げて現れた。コンビニの弁当と、割り箸が一本、袋の口から覗いている。彼は袋を揺らして、軽く笑った。
「今日は昼の上映がないから、油ものを食べても許される日なんです」
洋利が「許される日、いいな」と言い、萌愛花が「館長、許可証出して!」と両手を差し出す。館長が「許可証は……胃袋に」と返して、三人の間に変な拍手が起きた。智砂が小さく指を立てて「残量、三十五」と更新し、陽咲はその数字を見て、笑いながらも背筋を伸ばす。
光希は弁当の匂いに負けない顔で、紙束を差し出した。
「これ、机にあった。名刺と、契約書のコピー。……見せたい」
館長の笑いが一拍止まった。袋を持つ手が、ほんの少しだけ強くなる。紙袋が、しわっと鳴った。
「それは……どこから」
声が低くなった。
陽咲は、拾った一枚をそっと前に出す。
「星樹くんのメモが挟まってた。第七条の、署名欄」
言いながら、相手の目を見すぎないように視線を少しだけ下げた。責めているように見えない角度を、体が覚え始めている。
館長は紙を受け取り、文字を追った。追いながら、指先が震えた。震えを隠すように、彼は親指で紙の端を押さえた。
「……穴、ありますね」
それだけ言って、息を吐いた。吐く息が長くて、館内の暗さが少しだけ軽くなる。
光希が、言葉を選びながら言う。
「残す方法は、一つじゃない。でも、誰にも言わないまま決めるのは、違う」
直球なのに、前より少し柔らかい。陽咲はその変化に、こっそり頷く。
館長は弁当の袋を床に置き、両手で紙を持ち直した。
「僕は、閉める貼り紙を出した時点で、もう皆さんに迷惑をかけていると思っていました。だから、これ以上は……」
言いかけて、喉が詰まった。彼は笑おうとして、笑えなかった。
洋利が鼻をすすって、でも声は明るくした。
「迷惑って、こっちが勝手に来てるんだよ。金曜の夜、泣いたり笑ったりする場所、欲しいから」
萌愛花が「そうそう、私のしゃべり場!」と手を挙げ、智砂が「それは少し抑えて」と即座に落とす。館長の口元が、ようやく少しだけ上がった。
陽咲は手帳を開き、今日の欄に小さく書き足した。
「館長に、お礼を言う。穴を一緒に塞ぐ」
書いたあと、消さない。紙の上に残す。
館長は紙を胸の前で揃え、深く頭を下げた。
「ありがとう。……金曜のトークの前に、一度だけ話します。僕が隠していたことと、これから何をするかを」
そして、光希に目を向ける。
「五分の中で、映画三本の話をしながら、僕の話も入れられますか」
光希が即答しそうになって、いったん唇を閉じた。余計な一言を飲み込んでから、言った。
「入れる。編集は得意だ」
ロビーの白い枠は、まだ空いている。空いているから、そこに、次の一行が入る。




