第12話 焼きたて三本、袋は二枚、残量は二十九
四月の第三週の日曜、朝八時。下北沢の商店街はまだシャッターが半分眠っていて、代わりにパンの匂いだけが先に歩いていた。ピンクサンドホライズンから徒歩七分の角にある小さなパン屋の前で、陽咲は手帳を胸に当て、息を一つ吐いた。
「今日の小さな目標、二つ。店に入って、置かせてくださいと言う。……それと、匂いで負けない」
萌愛花が「匂いに勝つのは無理だよ。匂いは目に見えないくせに強いもん」と言いながら、ショーケースの奥を覗き込もうとして、ガラスに額をぶつけた。カン、と小さく鳴る。
「静かに。開店前の音、響く」
智砂が一歩引いて、スマホの画面を見せた。メモには数字が一つだけ書いてある。
「今、二十九。だから、入るのは十分だけ」
「十分で交渉は終わらないだろ」
洋利が言うと、智砂は肩をすくめてポケットにしまった。言い争いの代わりに、店のドアノブに手をかける。冷たい金属が朝の指先にくっつく。
開店の札が裏返り、ベルが一回だけ鳴った。店の奥から、トレイを抱えた店主が出てくる。トレイには、焼きたてのバゲットが三本。湯気が薄く揺れて、店内の空気がふっと柔らかくなる。
「いらっしゃい……あ、昨日の映画の子たちか」
店主はトレイを棚に置き、手を拭いた。言いながら、彼は入口横の掲示板を指でトントン叩く。小さな告知がいくつか貼ってある。町内清掃の日時、近所の喫茶店の新メニュー、迷子犬の写真。
光希が、持ってきた紙の束を両手で揃えた。角が揃う音が、紙の呼吸みたいに静かだ。
「これ、映画館の……チラシです。置かせてもらえますか。レジ横に、二枚だけ」
店主の目が紙に落ちる。白い枠が三つ。上に上映タイトルと時刻。下に短い地図の矢印。枠の一つは、まだ白いまま残してある。
「白い四角、なんだ」
店主が聞くより先に、萌愛花が肩で息を吸った。
「そこはね! お客さんの一行を書く場所! 昨日ね、『段差でつまずいて、笑った』って書いてくれた人がいて——」
「朝から情報量が多い」
洋利が笑いながら突っ込み、陽咲は慌てて言葉を整えた。
「……紙を手に取った人が、映画の帰り道に、何か一行だけ残せるように。書きたくない人は、白いままでいい。白いままでも、置いておく」
店主は一度、白い枠を指先でなぞった。指が粉で白い。パンの粉が紙の白と重なって、境目が見えなくなる。
「油がつく。レジ横は、バターでベタベタだ」
店主が言うと、光希は即座に、透明のクリアファイルを一枚出した。昨日、光希が切って角を丸めたものだ。切り口が痛くないように、ほんの少しだけ落としてある。
「これに入れます。曲がらない。……油も、吸わない」
言い終えてから、光希は唇を一度閉じた。余計な一言が出ないように、喉の前で止めたのが分かった。陽咲はその動きを見て、手帳のページを小さくめくった。目標の一つ目が、今、進んでいる。
店主はクリアファイルを受け取り、角を押してみた。
「手ぇ切れないな。よし。二枚なら、ここ」
レジ横の小さな箱の隣に、透明な立てかけがある。そこへ二枚、すっと入った。紙が立っただけなのに、店の空気の中に細い道が一本できるように見えた。
その時、ドアが開き、作業着の男性が入ってきた。財布を握ったまま、ショーケースを指差す。
「いつもの、あんパン。あと……」
言いかけて、掲示板のチラシに目が止まった。
「映画館、閉まるって……」
声が少しだけ低くなる。
洋利が、反射で「まだ閉まってない!」と大きめに言い、萌愛花が「泣く前にパン食べよ!」と追い打ちをかけた。店主が「順番」と指で示し、二人は口を閉じる。陽咲はその沈黙を拾い、ゆっくり言った。
「……五月末に、いったん。だから、今、来てもらえたら。来たあと、また来たくなるように、紙、作ってます」
言った瞬間、陽咲は「作ってます」を噛み直したくなった。けれど、今日は消しゴムを使わない日だ。飲み込んだまま、相手の顔を見る。
男性はチラシの白い枠を覗き込み、指で空白を指した。
「ここ、書くのか」
星樹が、少し遅れて頷いた。彼はいつの間にか店の棚の端に立ち、ノートを開いている。話す代わりに、ペン先を紙の上で止めて、相手の返事を待った。
男性はパンを受け取り、袋をぎゅっと握った。
「……じゃあ、帰り道に書く。段差のことでも書く」
自分で言って、自分で少し笑った。洋利がその笑いに釣られて鼻を赤くし、萌愛花が「段差仲間が増えた!」と小声で喜ぶ。
智砂がスマホを見て、指で二回叩いた。
「二十九が、二十七。……十分、終わり」
言い置いて、智砂は店の外へ出た。止める暇もない速さだ。
陽咲は追いかけたい気持ちを、手帳の背で押さえた。追いかけたら、自分の残りも減る。代わりに、店主の方へ向き直る。置かせてもらえた。次は、店の人の一行だ。
「……もしよかったら、店の一行、書いてもらえますか。レジの人が、紙を渡すときに添えられる一行」
店主は一瞬だけ眉を上げ、笑った。
「朝から、面倒くさいこと言うな」
萌愛花が「面倒くさいは誉め言葉!」と返し、店主は「違う」と言いながら、レジの下からペンを出した。白い枠の端に、迷いなく書く。書き終わると、ペン先を軽く振り、陽咲へ渡した。
『映画の帰りに、パンの層を数えろ』
陽咲は読み上げそうになって、慌てて口を閉じた。読み上げたら、意味が変わる気がした。光希が横から覗き、「……いい」と短く言った。洋利が「数えたら泣くかも」と言い、萌愛花が「泣いたらクロワッサンで拭けばいい」と言って、店主が「拭くな」と突っ込む。朝の店の中で、小さな笑いが一回だけ弾けた。
外へ出ると、智砂が角の自販機の前で腕を組んでいた。足元に、紙袋が二つ置かれている。袋の上からも匂いが漏れている。
「帰ったんじゃないの?」
陽咲が聞くと、智砂は袋の片方を持ち上げた。
「帰る前に、買った。……残り二十七でも、パンは別枠」
言い切って、袋を光希の胸に押しつける。光希は受け取り、少しだけ戸惑ってから、袋の取っ手を握り直した。
「……ありがとう」
言葉が短い。けれど、袋を抱える腕の力が少しだけ緩む。
ピンクサンドホライズンへ戻る道で、陽咲は手帳を開き、今日の丸を一つ塗りつぶした。二つ目の目標の横に、店主の一行を小さく写す。写すだけで、胸の奥に層が一つ増える気がした。
ロビーに戻ると、館長が掲示板の前で腕を組んでいた。新しい紙を見つけると、目尻が少しだけ動く。
「増えたね。……店の一行?」
館長が聞く。
陽咲は頷き、店主の一行を見せた。館長は声を出さずに口の形で読み、最後に、ぽんと紙の角を押さえた。
「来週の土曜、ロビーで話すとき、この一行も読んでいい。……店の匂いごと、持ってきて」
光希が袋を持ち上げた。
「匂いは、ここに」
萌愛花が「匂いで客席を埋めるのは反則!」と言い、洋利が「反則でも勝ちたい!」と叫ぶ。星樹はノートに、今日の改善点を一行だけ書いた。
『次は、ベルの音が割れない位置で話す』
書き終えた指先で、彼はチラシの白い枠を一度だけ撫でた。空白がまだ一つ、残っている。残っているから、次の人が座れる。
陽咲はその空白を見て、ペン先を握り直す。消しゴムは出さない。代わりに、胸の奥で、次の小さな目標を一つだけ決めた。
「来週の土曜、三本の映画のあとで。白い枠に、私の一行も残す」




