第11話 レジ横の二枚、言い直す三回
四月の第三週の土曜、午後一時。ピンクサンドホライズンのロビーに差す光が少し傾き、ガムテープの匂いがまだ指先に残っている。陽咲は手帳を閉じ、塗りつぶした丸を指で撫でてから、チラシの束を抱え直した。
「じゃあ、行こう。紙が温かいうちに」
言うと、萌愛花が「紙は温度で味が変わるの?」と聞き返し、洋利が笑いながら「変わる。俺の顔が変わる」と頬を押さえた。智砂はスマホの数字を一度見てから、画面を伏せてポケットに滑り込ませる。数字を見た顔が少しだけ硬くなったのを、星樹がノートの角越しに見て、何も言わずに歩幅を合わせた。
六人は階段を下り、下北沢の路地へ出た。古着屋の看板の下をくぐると、コーヒー豆を炒る香りが風に混ざる。陽咲は自分の靴紐を結び直して、結び目に視線を固定した。目標の一つ目は、店に入って「置かせてください」と言う。簡単な言葉なのに、喉の奥で小さく引っかかる。
「……俺が言う」
光希が先に言った。言った後で、口の中で言い直すみたいに、唇を一度閉じる。陽咲は頷き、頷いたついでに紙の白い枠を見た。まだ誰の字も入っていない。埋まるまで残す、と自分が書いた線が、ちゃんと残っている。
最初に入ったのは、駅に近い小さなカフェだった。ドアベルが鳴ると、カウンターの向こうの店員が顔を上げ、スチームの音を止めた。カップの湯気がふわりと立つ。
「すみません、これ」
光希はチラシを一枚差し出した。差し出した手が、途中で止まる。言葉の続きが見つからないらしい。店員の視線がチラシの白い枠に落ちた。
「これ、空いてるの、なんでですか?」
陽咲が先に口を開いた。
「ここに、店の人の一行が欲しくて。……お客さんに渡すとき、言葉があると、紙が捨てられにくいから」
自分の言葉に、自分で少し驚いた。光希の指が、チラシの端をきゅっとつまむ。店員はチラシを受け取り、指先で枠をなぞった。
「レジ横に置くなら、二枚ぐらいがちょうどいいです。多いと散らかるんで」
萌愛花がすかさず「散らかっても喋ってれば片付く!」と言い、洋利が「片付く前に怒られる!」と肩で笑った。店員の口元が一瞬だけ上がり、すぐ真面目な顔に戻る。
「一行、書くなら、今でもいいです?」
陽咲はペンを差し出した。星樹がノートから別のペンを取り、二本まとめて差し出す。店員は迷った末に、チラシの白い枠へ短く書いた。
「砂糖二袋まで。泣くのは一回まで」
書き終えると、店員は自分の字を見て吹き出しそうになり、咳払いで誤魔化した。萌愛花が「泣く回数まで決められるの、うちの親だけだよ」と言い、洋利が「じゃあ泣く前に飲め」と返した。ロビーではなくカウンターの前で、笑いが小さく跳ねる。
次に向かったのは古着屋だった。ハンガーが並ぶ店内で、布の匂いと古い木の匂いが混ざっている。店主はレジの前に立ち、届いた段ボールを開けていた。星樹が一歩前に出かけて、途中で止まる。智砂がポケットからスマホを出し、画面を見てから、すぐしまった。数字は見えなかったが、しまう速さが答えだった。
「ここは、俺が言う」
萌愛花が急に言った。段ボールのテープを見て、手を伸ばす。
「開けるの、手伝う。手伝ったら、チラシの話、三十秒で終わらせる」
店主が眉を上げた。光希が思わず「三十秒は無理」と口を挟み、萌愛花が「じゃあ二十秒でいく!」と返す。陽咲は胸の内で秒数を数え始め、星樹はノートの端に小さく「二十秒」と書いた。
萌愛花は段ボールの角に、さっき星樹が折り返したテープの端を真似して作った。爪がかかる。テープがすっと剥がれ、段ボールが開いた。店主の手が止まり、萌愛花の手元を見た。
「そういうの、よく気づくね」
萌愛花は返事の代わりに、ポケットからチラシを二枚出してレジ横にすっと置いた。
「映画館、五月末で貼り紙出ててさ。うち、あそこの椅子の音が好きなんだ。だから、紙だけでも置かせて。……お客さんが一人増えたら、店主さんの段ボール一個分、気持ちが軽くなると思う」
言い終えたとき、陽咲は自分の秒数が二十を越えているのに気づいた。だが、店主は段ボールの中から古い映画のパンフレットみたいな紙束を取り出し、チラシの白い枠を見た。
「一行、書いていい?」
店主は書いた。
「試着のあと、暗い席へ。帰りは軽い」
書き終えると、店主はレジの横にチラシを立て、パンフレットの束を脇へ寄せた。置き場所を作ったのだ。
店を出ると、智砂が急に足を止めた。路地の角で、息を一度吐く。スマホの画面が光って「28」と見えた。彼女はその数字を見たまま、指で画面を消す。
「帰る」
短く言った。言い訳はない。陽咲は頷き、光希も頷いた。頷いた後で光希は、言い直すみたいに口を開いた。
「……今日は、ここまで。無理は、次の紙を減らす」
智砂は返事の代わりに、カフェでもらった砂糖の小袋を二つ、陽咲の手のひらに置いた。袋が軽く鳴る。萌愛花が「泣く回数、残ってる?」と聞き、智砂は肩をすくめて背中を向けた。歩き出す足取りは、速くない。速くないことが、彼女の「行ける」の印だった。
残った五人は、ピンクサンドホライズンへ戻る途中、路地の小さな花屋の前で立ち止まった。ガラス瓶の中の花が揺れ、店主が水を替えている。陽咲は一歩踏み出し、今日は自分の目標をもう一つ増やした。
「チラシ、ここにも置けますか。……一行、書いてもらえたら、嬉しいです」
店主は手を止め、濡れた指をエプロンで拭いた。
「映画館、閉めるの? あそこ、若い子が泣きながら出てくるの、よく見るよ」
陽咲は「泣きながらでも、来てくれる」と言いかけて、途中で止めた。代わりに、白い枠を指で叩く。
「泣いた跡が、紙に残るなら、残してほしいです」
店主は笑って、枠に書いた。
「花は持ち帰れる。気持ちも」
光希がその字を見て、何か言いかけて飲み込んだ。飲み込んだ代わりに、チラシをもう一枚、丁寧に畳んでポケットに入れた。カメラの編集で必要なカットだけ残す手つきに似ていた。
陽咲は手帳を開き、丸をもう一つ塗りつぶした。今日の目標が、二つ終わった。
残った丸の横に、短く書く。
「言い直して、渡す」
消しゴムは出さない。線を太くして、文字を残す。路地の向こうで、ピンクサンドホライズンの看板が見えた。まだ貼り紙は白いままなのに、レジ横に二枚の紙が立ったことだけで、胸の奥の重さが少しだけ移動した気がした。
ピンクサンドホライズンの階段を上がると、ロビーのガラスに、外の空が少しだけ青く映っていた。館長はカウンターの奥で伝票をめくっていて、五人の足音に顔を上げた。
「戻った?」
陽咲がチラシを広げ、白い枠に増えた三つの一行を見せる。館長は眼鏡を押し上げ、声を出さずに口の形だけで読んだ。読んだあと、指先で紙を軽く叩いた。
「……これ、いい。誰の字?」
萌愛花が胸を張って「私が二十秒で口を滑らせた結果!」と言い、洋利が「二十秒じゃなくて二分半だ」と数えていた指を折った。星樹はノートを開き、店ごとの一行を写す欄を作った。欄の上に、今日の上映タイトルと上映時刻も書き足していく。書くたび、ペン先が少しだけ落ち着く。
光希は印刷用の元データを開き、白い枠の位置を二ミリだけ動かした。レジ横に置いたとき、指がかかる余白を確保するためだ。誰にも言わないで、直す。だが、陽咲が横から覗き込み、「そこ、いい」とだけ言った。光希は「うん」とだけ返し、画面の保存ボタンを押した。言葉を足す代わりに、作業で返す。
館長がチラシを一枚、ロビーの掲示板に貼った。角を押さえる手つきが、さっき星樹が折り返した端に似ている。貼り終えると、館長は小さく言った。
「来週の土曜、上映のあと、ロビーで……映画3選、またやってくれる? 今度は、君らの一行も添えて」
陽咲は手帳を開き、来週の土曜の欄に小さな丸を一つ描いた。消さない丸だ。洋利が「泣く回数は一回まで!」と叫び、萌愛花が「じゃあ笑いは無制限で!」と返し、ロビーの空気がまた少し動いた。




