第10話 剥がれないテープ、一行の壁
四月の第三週の土曜、午前十一時。下北沢の空は晴れているのに、路地の影はまだ冷たかった。ピンクサンドホライズンの階段を上がると、ロビーのガラスに外の光が薄く反射して、閉館の貼り紙だけがやけに白い。
陽咲は手帳を開いて、今日の欄を指で押さえた。
「紙の余白を、壁にする」
書いた直後、消しゴムに手が伸びかけて、途中で止まる。代わりに、ページの端に小さく丸を一つ描いた。丸は目標の数だ。ひとつ終わったら、塗りつぶす。
「壁?」
萌愛花が首を傾けて、紙袋の中からテープを三本取り出した。色つきのマスキングテープ、透明なセロハンテープ、太いガムテープ。どれも、家の引き出しから連れてきた顔をしている。
「剥がれないの、どれ」
智砂が短く言って、スマホを開く。画面には「29」。残量が三十を切ったら断っていい、と自分で決めたルールの、ぎりぎりのところだ。
光希は黙って、太いガムテープを手に取った。指先で端を探し、探し当てると、少しだけ慎重に引いた。勢いよく引くと、必要な分まで伸びる。伸びた分は無駄になる。言わなくても、手がそうしていた。
「太いのは、紙が泣く」
星樹がノートを抱えたまま言った。言い終えてから、ノートの表紙を指で二回叩く。叩くと、気持ちが整うらしい。
「紙、泣くの? じゃあ、私が笑わせる」
洋利が胸の前で両手をぱん、と叩いた。音がロビーに小さく響いて、館長がカウンターの奥から顔を出した。目の下に、昨日の上映の疲れが薄く残っている。
「何が始まるんですか」
館長の問いに、陽咲はチラシの束を持ち上げた。第九話で集まった、一行のあるチラシだ。白い枠に、たった一行。けれど、紙を持つ手の重さが違う。
「これを、貼ります。……書いてくれた人が、また来たときに、自分の一行が残ってたら、ちょっと嬉しいかなって」
館長は一瞬、閉館の貼り紙の方へ目をやった。目が戻るとき、ほんの少しだけゆっくりだった。
「貼る場所、あります。……でも、剥がれますよ。ここ、夜になると冷えるから」
「じゃあ、剥がれないようにする」
光希が短く言った。言っただけで、ガムテープを置く。置いた先は、床ではなく、カウンターの端。使う道具は乱さない。乱すと、途中で探す時間が増える。
萌愛花が「じゃあ、テープ会議」と言いかけて、途中で言い直した。
「じゃあ、テープ選び」
言い直しただけで、洋利が「助かる」と泣き笑いの顔をした。萌愛花は「泣くの早い」と笑って、マスキングテープを一本、陽咲の手に渡した。
壁は、ロビーの奥の柱だった。ポスターの並ぶ壁の、ちょうど半分だけ空いている。そこに、陽咲は一枚目を貼った。枠の中の文字が、目の高さに来るように。テープは細く、端を丁寧に折り返して、次に剥がす人の指がかかるようにする。
「優しい」
館長が言った。褒め言葉に聞こえないほど小さい声だった。陽咲は「剥がすときに破れたら悲しいので」と言って、言い終えたあと、自分の言葉の温度を確かめるように息を吐いた。
二枚目、三枚目。貼るたびに、ロビーの白が少しずつ埋まっていく。星樹は貼る前に、どの位置がいいかを一度ノートに目で測ってから、黙って指を差す。萌愛花は貼りながら、紙の裏を覗いて「こっちにも書けばよかったのにね」と勝手に続きを作りそうになるのを、口の中で止めた。智砂はスマホの残量を「27」にして、「ここまで」と短く言ったのに、次の一枚に手が伸びてしまい、伸びた指を自分で叩いて引っ込めた。
「無理しなくていい」
光希が言う。声は強くない。けれど、言葉を置く場所が、いつも決まっているみたいにぶれない。
智砂は「言われたから、やめる」と言って、壁から二歩下がった。下がった場所で、残っている紙の束を二度整える。整えると、手はもう動いていないのに、手伝った感じが残る。
貼り終えたところで、館長が引き出しから小さなコルクボードを出してきた。古い画びょうが刺さったままのやつだ。
「これ、使えます。前に、上映後のアンケートを貼ってたんですけど……最近、貼る余裕がなくて」
余裕、という言葉だけが、少し硬く落ちた。陽咲は拾わずに、ボードの端を両手で持った。
「ここに、新しい枠を作ります。……書ける人だけで」
「枠?」
館長が聞き返すと、陽咲はチラシの白い枠を指でなぞった。紙の上の余白を、今度はボードに移す。枠の中に、誰かの一行が入る前の、白だけの場所を作る。
そのとき、ロビーの扉が開いた。風と一緒に、昨日の客の女性が入ってくる。ショルダーバッグの肩が少し上がっていて、息が弾んでいる。後ろには、同じ映画を観た男性もいた。二人とも、手に何かを持っている。
「ここ……まだ、あるんだ」
女性は、壁の一行を見つけて、足を止めた。自分の字が目に入った瞬間、肩がすとんと落ちる。落ちた肩が、少しだけ軽く見えた。
男性が紙袋からペンを取り出し、陽咲に差し出した。
「昨日、ペン借りた人がいたって聞いたから。家にあったの、持ってきた」
持ってきた、と言うだけで、照れて笑う。笑うと、洋利が勝手に「泣ける」と言って、萌愛花が「泣くな、今は貼るとき」と突っ込んだ。
女性は壁の前に立って、もう一枚のチラシを取り出した。白い枠に、新しい一行が書かれている。昨日の一行の隣に貼ってほしい、と手で示す。
「これ、昨日帰ってから書いた。……月、じゃなくて、帰り道の段差」
陽咲は受け取り、枠を読む。
『段差でつまずいて、笑った』
たったそれだけで、陽咲の胸の奥がふっと温かくなった。映画の中の段差ではなく、現実の段差。現実のつまずきが、笑いに変わっている。
光希が、女性の一行の隣に、空白のままの枠を一つ貼った。そこだけ、まだ白い。
「次、ここ。……書けるときに」
女性は驚いた顔をして、でもすぐ、頷いた。頷いたあとで、館長の方を見た。
「……閉館って、本当に?」
館長は答えかけて、言葉を飲んだ。飲んだまま、喉が動く。光希が先に口を開いた。
「本当。でも、最後まで、やる。……ここで、三本」
言っただけで、館長の目が少し潤む。潤んだのを誤魔化すみたいに、館長はカウンターの下に身を隠し、戻ってきたときには紙コップを六つ持っていた。
「コーヒー、淹れておきました。……今日、手伝ってくれる人に。砂糖、いる人は、ここ」
カウンターの端に、砂糖の小袋が置かれる。陽咲の手帳の、前のページの二袋が頭をよぎって、思わず笑ってしまう。
星樹は紙コップを受け取りながら、閉館の貼り紙の端を見た。左下の角が、ほんの少し浮いている。夜の冷えでテープが痩せたのだろう。
彼はポケットから、さっき余っていたマスキングテープを一本取り出した。角を押さえ、端をほんの少し折り返して貼る。剥がす人の指がかかるように。
「……落ちたら、また貼ればいいけど。落ちた音って、心臓に来る」
言ってから、星樹は自分の言葉をノートに写すように、指先で空中をなぞった。反省ではない。明日のためのメモだ。
洋利が「砂糖で泣く」と言い、萌愛花が「泣くなら溶ける前に飲め」と言って、ロビーが一度、ふっと明るくなる。
陽咲は手帳を開き、丸を一つ塗りつぶした。今日の目標のひとつが終わった。
その隣に、新しい一行を書く。
「白い枠は、埋まるまで残す」
消しゴムは使わない。代わりに、ペン先を少しだけ強く押して、文字の線を太くした。太い線でも、気持ちは伝わると、誰かが紙に丸を三つ描いた夜を思い出しながら。




