第1話 貼り紙の前で口が滑る
四月の第一週の火曜、夕方の下北沢は、雨上がりの匂いがしていた。駅前の踏切が鳴るたびに、濡れたアスファルトが光を弾き、細い路地の先で小さな看板が灯っている。
ミニシアター「ピンクサンドホライズン」の扉を押すと、暖房の残り香と、古いポスターの紙の匂いが混ざって鼻に届いた。受付横のガラスケースには、過去の上映作品のチラシが何年分も重なり、端が少し丸くなっている。光希は肩にかけたバッグを直しながら、いつもの癖でロビーの壁を見た。次に観たい映画の告知を探すとき、彼の目は自然と貼り紙を拾う。
白い紙が、やけに目立っていた。
「家賃滞納のため、五月末をもって閉館いたします」
文字の下に、閉館日と問い合わせ先が淡々と並び、最後に「これまでのご愛顧に感謝申し上げます」とだけ添えられている。笑い声もポップコーンの弾ける音もないロビーで、その一枚は、音のない鐘みたいに見えた。
光希は、息を吸うより先に口が動いた。
「……残りの上映回数が決まってるなら、今からでも客席は増やせるでしょ」
言い終えてから、自分の声が天井で跳ね返ったのが分かった。途端に、背中の汗が冷える。
「ちょ、声」
横のソファで手帳を開いていた陽咲が、身体ごと振り向いた。ペン先が宙で止まり、消しゴムを持つ指だけが忙しなく動く。手帳のページには、鉛筆で何度も書いては薄く消した跡が残っていて、真ん中にだけ、まだ濃い文字が残っていた。
「今日、知らない場所で一つ話しかける」
陽咲は、その文字の上に消しゴムを当てかけて、やめた。代わりに光希の袖を引き、声を細くする。
「今の一言、館長に聞かれたら……心臓止まる」
「いや、止まらないだろ。心臓は止まったら大変だし」
「そういう言い方……」
陽咲が肩を落とす間にも、ロビー奥の小窓が開いた。事務室の方から顔を出したのは、四十代くらいの男性だった。髪に少し白いものが混じり、目の下に寝不足の影がある。彼は貼り紙を一度見て、それから光希と陽咲に視線を移した。
「あの……いま、何か……」
光希は、逃げ道を探すより先に、足が勝手に前に出た。直球で言った分、直球で謝るしかないと、頭のどこかが決めていた。
「すみません。俺が、余計なこと言いました」
陽咲も慌てて立ち上がり、頭を下げた。手帳を抱えたまま、肘が少し震えている。
「すみません、今の、聞こえて……ましたよね」
館長は、驚いたように瞬きをしてから、苦笑いに近い顔をつくった。
「聞こえました。余計、というより……そうですね、言われると痛いです」
痛い、という言葉が、柔らかいロビーの空気に残った。光希は喉を押さえたくなったが、手は出さなかった。代わりに、掲示を指差す。
「これ、ほんとに……もう、決まってるんですか」
館長は、返事の前に小さく息を吐いた。紙の角を親指でなぞり、張り替えたばかりのテープを確認する。誰にも見られない時に、何度もここを触ったのだろう、と光希は思った。
「決まってます。五月三十一日で、鍵を返します。もう、延ばせる余地がない」
「上映は、あと何回ですか」
質問を投げたのは陽咲だった。声は小さいのに、言い切りだけが妙にまっすぐだ。館長はその目を見て、事務室から一冊の厚いファイルを持ってきた。背表紙に「4-5月」と書かれている。
「ここから閉館まで、上映は残り百二回。金曜の夜の最終回だけ数えると、あと八回です」
「八回……」
陽咲が小さく繰り返した。指先が手帳の角を撫で、ページの端がふわりと浮く。
光希は、その数字を聞いた瞬間、頭の中に編集のタイムラインが引かれる感覚がした。曜日が並び、金曜の夜に印が付く。彼にとって「間に合うかどうか」は、いつも「切ってつなげるかどうか」だった。
「八回あるなら、やれます」
また声が大きくなりかけて、陽咲が肘で軽く突いた。光希は咳払いしてから、言い直す。
「……やれること、あります。閉館までの金曜夜、上映後のロビーで、五分だけ、話して録音します。『みんなにオススメしたい映画三選』って」
館長の眉が上がった。
「え、録音? ここで?」
「ここです。五分。長くしない。客が帰る導線を塞がない。……あと、翌日、近所の店に紙チラシ置いてもらう」
言いながら、光希は自分の言葉が急に職場の打ち合わせみたいになっているのに気づいて、少しだけ恥ずかしくなった。だが止められない。思いついたら、形にしたくなる。
陽咲が一歩前に出た。
「手作りの紙にします。店の人が、手に取った人に一言添えて渡せるように。……ここ、近くに、カフェと古着屋があります。私、行きつけです」
行きつけ、という言葉が出たとき、陽咲は自分でも驚いたように瞬きをした。いつもなら「たぶん」と付け足して逃げるのに、今日は言い切っている。手帳の「今日、知らない場所で一つ話しかける」の文字が、ふいに浮かび上がる。
館長は、二人を交互に見た。貼り紙、ファイル、そしてロビーの椅子。椅子は十脚ほどで、どれも少し軋む。けれど、映画が終わった後に、ここで誰かが立ち止まって笑ったり、泣いたりした時間は、確かにある。
「五分、ですか」
「五分です。俺、編集の仕事してるんで、音が割れたらその場で止めます。撮るのはスマホで十分。……ご迷惑は、かけません」
最後の一文を言う時だけ、光希は言葉を選んだ。自分の直球が、今ここで一番危ないと分かっている。
陽咲も続ける。
「私、金曜までに……三本、選びます。自分の中で、ちゃんと理由も。小さくても、守ります」
館長は、少しだけ口元を緩めた。その笑いは、元気な笑いではなく、長い間背中に背負っていた荷物が、一瞬だけ軽くなった時の顔だった。
「……じゃあ、今週の金曜から、やってみますか」
「いいんですか」
思わず光希が聞き返すと、館長は肩をすくめた。
「閉館の貼り紙を出した日に、誰かが『客席増やせる』って言うなんて、普通はないです。……痛いけど、嫌いじゃない」
陽咲が、手帳をそっと閉じた。開いたままだと、心がこぼれそうだったのかもしれない。閉じた表紙に、指先でトントンと二回触れて、深呼吸をする。
「金曜の夜、上映が終わったら、ここで。五分。ロビーの端で。……それなら、館長、心臓は止まりませんか」
館長が笑いかける前に、光希が先に言った。
「止まらせない。俺が止まる」
陽咲が吹き出した。小さく、しかし確かに、笑い声がロビーに落ちた。館長も、その笑いに引っ張られるように、少し声を出して笑った。
外で踏切が鳴った。電車の音が遠くから近づき、また遠ざかっていく。ロビーの静けさはそのままなのに、空気が、わずかに動き始めた。
光希は貼り紙をもう一度見た。五月三十一日、という日付は変わらない。けれど、百二回と八回の数字は、ただ減っていく数字じゃなくなる。何を入れるか、何を切るか。誰に渡すか。そういう手がかりになる。
陽咲は、手帳を開き直し、新しいページに鉛筆を置いた。さっきまで何度も消していた「知らない場所で一つ話しかける」の下に、別の行が増える。
「今週の金曜、館長に『よろしくお願いします』と言う」
今度は、消しゴムを出さなかった。




