第9話 境界の判断
喉が潰れ、息が絡む。
熱を吐こうとすれば、胸の奥で音が割れた。
高く舞い直すには時間がいる。時間は敵だ。
それでも――私の縄張りの境界は、門前にある。
獣の背が立つ。
重い棍。ぶれない足。
押せば折れる背もあるが、あの背は押すほど太る。厄介だ。
剣の者は怒りで速い。
鎖の者は笑いでしぶとい。
誰も私を助けない。それでよい。私も誰も助けない。
鼻先を下げる。
前脚で石列を掘り、体ごと押す。
重さは裏切らない。
鼻梁に棍が当たる。骨が震え、視界が一瞬傾く。
喉へ刃が来る。
顎を閉じ、首を捻ってかわす。
鎖が顎下をかすめ、皮膚が裂ける。
痛みは境界を守れている印だ。私は間違えていない。
尾を振る。
横の家が倒れ、粉塵が視界を濁す。
濁りは利だ。私は匂いで追える。
鉄と火のにおい――剣。
汗と土――獣。
血の泡――鎖。
濁りの向こうで、三つの位置がはっきり立つ。
もう一歩、深く踏む。
門の残り半分の基礎を、爪で探る。
ここを抜けば、縄張りの境界を押し広げられる。
爪を潜らせ、石を持ち上げる角度にした、その瞬間――
棍が真横から顎を押し上げた。
喉が詰まり、熱が逆流する。
刃が目の縁を擦り、視界に赤が走る。
鎖が顎を下げるように引く。
三つが揃う。
私は翼で地を叩き、三者まとめて弾いた。
距離が空く。
息を吸う。喉が鳴る。
上へ、と胸が言う。
だが今上がれば、落とされる。
首の傷は深い。
上で押せないときは、地で割る。
地で割れないときは――境界を残して退く。
退くのは負けではない。
縄張りを守るための一時撤退だ。
境界は今日だけの線ではない。
明日も、明後日も、同じ風で引ける境界であるべきだ。
鼻先を下げ、砂を大きく巻き上げる。
濁りで視界を隠し、その中で身をひねる。
体を門から斜めに外し、石列から重さを外す。
爪で地を二度、三度刻む。
ここまで。
今日はここで終える。
残すのは、私の匂いと爪痕。
次に来るとき、境界の位置を迷わないために。
視界の端に、白い外套が揺れた。
剣の者はまだ前だ。怒りの匂いが濃い。
棍の者は体を起こす。背の匂いが太い。
鎖の者は笑う。血の匂いが泡立つ。
全員、まだ動く。
だから私は、今日の縄張りをここで結ぶ。
翼を広げ、強い風を一度だけ送る。
視界がたわみ、音が押し返される。
その間に、私は境界の外へ身を抜いた。
追わせない。
追えば、後ろが死ぬのは彼らだ。
私の縄張りは、今日のここまで。
喉は焼け、目は濁る。
それでも帰る空はある。
空がある限り、私はまた境界を引き直せる。
――記憶は、ここまで。
――暗転。
杯を置き、私は神々に申し上げた。
「この龍は、勝ち負けよりも縄張りの境界を守ることを選びました。
いま押し切れないと見て、境界を残すための一時撤退をしています。
境界は今日だけのものではなく、明日も守り直せる位置であることが肝要。
ゆえに彼は風と爪痕を残し、**『ここから先は私の領分だ』**と示して去りました。」
「なるほど、潔い退きだ」「境界を守るための撤退、理がある」
「王は追うか?」「英雄は追いたい顔だ」「狂人は当然追う!」
「追えば街がもたぬぞ」「それでも誰かは行くな」
「次は“追う者”の記憶か?」
杯の底で光がほどけ、熱がまた立ちのぼる。
四つ巴の場は切れたが、胸の中では誰も終われていなかった。