#87 お休み
夢見亭のホールは、昼下がりの柔らかな光に包まれていた。
カップの音、注文の声、笑い声。
いつも通りの穏やかな空気の中で、たぬまりはテーブルを拭きながら、次の撮影スケジュールを頭の隅で確認していた。
動画出演が続いている。夢見亭チャンネルの再生数は好調で、店の賑わいも増している。
大学の課題は山積み。提出期限は迫っている。
それでも、たぬまりは顔に出さなかった。
出さないようにしていた。
それが、いつもの自分だった。
「たぬまりちゃん、こっちお願い──」
こまちの声が届いた瞬間、視界がふっと揺れた。
足元が抜けるような感覚。
次に気づいたときには、床の冷たさが頬に触れていた。
「たぬまりちゃん、大丈夫!?」
こまちの声が、すぐそばで響いていた。
他にも誰かが駆け寄ってきていた気配があった。
けれど、たぬまりの目に映ったのは、こまちの顔だけだった。
心配そうに覗き込む瞳。
その奥に、焦りと優しさが混ざっていた。
病院の待合室で、たぬまりはぼんやりと天井を見つめていた。
店長が隣に座っている。
無口で、ぶっきらぼうで、でも手際よく受付を済ませてくれた。
診察の結果は、扁桃腺の腫れと発熱。
流行り病ではなかったのが救いだったが、身体はまるで鉛のように重かった。
「少しお腹に入れて薬飲んだ方が良いな。ツバキに作ってもらうから少し休んでな」
店長の声は、いつも通りの調子だった。
でも、たぬまりにはそれが妙に安心できた。
彼は独身で、彼女もいない。
面食いだけど、たぬまりに変な目を向けてくることはない。
ただ、必要なことを淡々とこなしてくれる。
普通の家のお父さんって、こんな感じなのかもしれない。
そんなことを考えながら、たぬまりは寮の自室に運ばれていった。
布団に横たわると、頭の中がぐるぐると回り始めた。
明日の予定、未提出の課題、夢見亭のシフト、次の動画の撮影。
考えなくていいことまで、次々と浮かんでくる。
でも、身体は動かない。
まぶたが重くなり、いつの間にか眠っていた。
どれくらい眠ったのかは分からない。
生活音が耳に入ってきて、たぬまりはゆっくりと目を開けた。
部屋の灯りは柔らかく、窓の外はすっかり夕方の色に染まっていた。
「起こしちゃった?ちょうどご飯持ってきたから食べようね」
こまちが、湯気の立つ器を手にして立っていた。
たぬまりは、言われるままに布団の中で身体を起こす。
まだ頭がぼんやりしていたが、こまちから何かを受け取るのは不安ではなかった。
彼女は、いつも優しくて、信頼できる人だった。
「ちょうど良いくらいの熱さになってると思う」
こまちは、器をそっと差し出す。
塩昆布の入った卵雑炊。
湯気がふわりと立ち上り、鼻先にやさしい香りが届く。
昆布の旨味が溶け込んだ出汁の香りに、ふわふわの卵がとろりと絡んでいる。
表面には細かく刻まれた青ねぎが散らされていて、見た目にも優しい。
スプーンを口に運ぶと、まず昆布の塩気が舌に触れ、すぐに卵のまろやかさが広がった。
喉を通るたびに、身体の奥がじんわりと温まっていく。
米粒は柔らかく、けれど崩れすぎず、ひと口ごとにほっとする。
「……おいしい」
声にするのも少しだけ億劫だったが、こまちはにっこりと笑ってくれた。
その笑顔が、たぬまりの胸の奥にすっと染み込んでいく。
弱ったときに、誰かがそばにいてくれる。
それが、こんなにも安心することだなんて、知らなかった。
雑炊を食べ終え、薬を飲む。
こまちは器を片付けようと立ち上がる。
その背中を見た瞬間、たぬまりは思わず手を伸ばしてしまった。
「……あっ、ごめん。つい」
こまちの裾を引っ張ってしまったことに気づき、慌てて手を引こうとする。
けれど、こまちは器を置いて、何も言わずに隣に座ってくれた。
「大丈夫、大丈夫。そばにいるからね」
その言葉に、たぬまりはそっとこまちの手を握った。
指先はあたたかくて、やわらかくて、先ほどまでのざわついた気持ちがすっと落ち着いていく。
ぽつりぽつりと、他愛のない話をした。
夢見亭のこと、最近の動画の撮影、こまちの好きな紅茶の話。
何を話していたのかは、もう覚えていない。
ただ、こまちの声が耳に心地よく響いていた。
まぶたが重くなり、言葉が途切れていく。
こまちの手を握ったまま、たぬまりは再び眠りに落ちた。
その夜は、静かで、やさしかった。
夢の中で、誰かがそばにいてくれるということが、こんなにも心強いものだと知った。
そして、たぬまりは、少しだけ自分を甘やかしてもいいのかもしれないと思った。




