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メイドさんのマモノ図鑑  作者: 吉良 鈴
はじまりの大陸

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88/107

#87 お休み

夢見亭のホールは、昼下がりの柔らかな光に包まれていた。

カップの音、注文の声、笑い声。

いつも通りの穏やかな空気の中で、たぬまりはテーブルを拭きながら、次の撮影スケジュールを頭の隅で確認していた。

動画出演が続いている。夢見亭チャンネルの再生数は好調で、店の賑わいも増している。

大学の課題は山積み。提出期限は迫っている。

それでも、たぬまりは顔に出さなかった。

出さないようにしていた。

それが、いつもの自分だった。


「たぬまりちゃん、こっちお願い──」


こまちの声が届いた瞬間、視界がふっと揺れた。

足元が抜けるような感覚。

次に気づいたときには、床の冷たさが頬に触れていた。


「たぬまりちゃん、大丈夫!?」


こまちの声が、すぐそばで響いていた。

他にも誰かが駆け寄ってきていた気配があった。

けれど、たぬまりの目に映ったのは、こまちの顔だけだった。

心配そうに覗き込む瞳。

その奥に、焦りと優しさが混ざっていた。


病院の待合室で、たぬまりはぼんやりと天井を見つめていた。

店長が隣に座っている。

無口で、ぶっきらぼうで、でも手際よく受付を済ませてくれた。

診察の結果は、扁桃腺の腫れと発熱。

流行り病ではなかったのが救いだったが、身体はまるで鉛のように重かった。


「少しお腹に入れて薬飲んだ方が良いな。ツバキに作ってもらうから少し休んでな」


店長の声は、いつも通りの調子だった。

でも、たぬまりにはそれが妙に安心できた。

彼は独身で、彼女もいない。

面食いだけど、たぬまりに変な目を向けてくることはない。

ただ、必要なことを淡々とこなしてくれる。

普通の家のお父さんって、こんな感じなのかもしれない。

そんなことを考えながら、たぬまりは寮の自室に運ばれていった。


布団に横たわると、頭の中がぐるぐると回り始めた。

明日の予定、未提出の課題、夢見亭のシフト、次の動画の撮影。

考えなくていいことまで、次々と浮かんでくる。

でも、身体は動かない。

まぶたが重くなり、いつの間にか眠っていた。


どれくらい眠ったのかは分からない。

生活音が耳に入ってきて、たぬまりはゆっくりと目を開けた。

部屋の灯りは柔らかく、窓の外はすっかり夕方の色に染まっていた。


「起こしちゃった?ちょうどご飯持ってきたから食べようね」


こまちが、湯気の立つ器を手にして立っていた。

たぬまりは、言われるままに布団の中で身体を起こす。

まだ頭がぼんやりしていたが、こまちから何かを受け取るのは不安ではなかった。

彼女は、いつも優しくて、信頼できる人だった。


「ちょうど良いくらいの熱さになってると思う」


こまちは、器をそっと差し出す。

塩昆布の入った卵雑炊。

湯気がふわりと立ち上り、鼻先にやさしい香りが届く。

昆布の旨味が溶け込んだ出汁の香りに、ふわふわの卵がとろりと絡んでいる。

表面には細かく刻まれた青ねぎが散らされていて、見た目にも優しい。

スプーンを口に運ぶと、まず昆布の塩気が舌に触れ、すぐに卵のまろやかさが広がった。

喉を通るたびに、身体の奥がじんわりと温まっていく。

米粒は柔らかく、けれど崩れすぎず、ひと口ごとにほっとする。


「……おいしい」


声にするのも少しだけ億劫だったが、こまちはにっこりと笑ってくれた。

その笑顔が、たぬまりの胸の奥にすっと染み込んでいく。


弱ったときに、誰かがそばにいてくれる。

それが、こんなにも安心することだなんて、知らなかった。


雑炊を食べ終え、薬を飲む。

こまちは器を片付けようと立ち上がる。

その背中を見た瞬間、たぬまりは思わず手を伸ばしてしまった。


「……あっ、ごめん。つい」


こまちの裾を引っ張ってしまったことに気づき、慌てて手を引こうとする。

けれど、こまちは器を置いて、何も言わずに隣に座ってくれた。


「大丈夫、大丈夫。そばにいるからね」


その言葉に、たぬまりはそっとこまちの手を握った。

指先はあたたかくて、やわらかくて、先ほどまでのざわついた気持ちがすっと落ち着いていく。


ぽつりぽつりと、他愛のない話をした。

夢見亭のこと、最近の動画の撮影、こまちの好きな紅茶の話。

何を話していたのかは、もう覚えていない。

ただ、こまちの声が耳に心地よく響いていた。


まぶたが重くなり、言葉が途切れていく。

こまちの手を握ったまま、たぬまりは再び眠りに落ちた。


その夜は、静かで、やさしかった。

夢の中で、誰かがそばにいてくれるということが、こんなにも心強いものだと知った。

そして、たぬまりは、少しだけ自分を甘やかしてもいいのかもしれないと思った。

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― 新着の感想 ―
もういっその事、店長がたぬまり引き取って育てればいいのに  店長のイメージがもうたぬまりの親に固定されてしまったよ
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