#82 生まれたもの
夢見亭の畑は、朝露を吸ったカミノキの葉が静かに揺れていて、空気はほんのりと甘い。 たぬまりは、ハンギングチェアに身を預けていた。 ゆるやかに揺れるその椅子は、カミノキの枝から吊るされていて、座ると包み込まれるような安心感がある。 膝の上には、あのたまご。淡く光る、たぬまりの魔力を帯びたマモノのたまごだ。 何日も前に受け取ってから、ずっと一緒に過ごしている。
店内シフトの日は、カウンターの隅で読書をしながら、膝の上に乗せて紅茶を飲んだ。 シフトがない日は、こうして畑に来て、ハンギングチェアで揺られながら、たまごを抱えてうとうとする。 魔力を注ぎ続けるという名目で、たっぷりゴロゴロだらだらできる。最高だった。 一生この建前で過ごしたいくらいだった。いや、ほんとに。
その朝も、陽射しは柔らかく、風は肌を撫でるように通り過ぎていく。 夢と現の境目が曖昧になっていく感覚。 たぬまりは、まぶたの裏に浮かぶ光の粒を眺めながら、意識を手放しかけていた。
──そのとき。
掌の中で、小さな音がした。
ピキ……ピキピキ。
たぬまりは、はっとして目を開けた。 たまごの表面に、細かなひびが走っている。 「えっ……?」 声に出す間もなく、殻が割れた。
ぬるり、と。 黒い触手が、殻の隙間から顔を出した。いや、顔はない。たぬまりにはそう見えただけだ。 その動きは、ゆっくりと、しかし確実に這い出てくる。 全体的に黒いが、光が当たる部分は虹色にきらめいていた。 アスファルトに浮いた油膜のような、あの独特な色の揺らぎ。 不定形で、動くたびにタコのような形をとる。 ぬめりはあるのに、服が汚れる気配はない。不思議だった。
「……どちら様?」
たぬまりは、膝の上に乗ったそれをじっと見つめた。 触手は、たぬまりの体温を受けて、生暖かくなっている。 時折、小さな声で「リリ……」と鳴いた。鳴き声らしい。 その声は、どこか頼りなくて、でも懐いているようにも聞こえた。
「……ふーむ」
たぬまりは、指先でそっと触れてみた。 ぬるりとした感触。冷たくはない。むしろ、ほんのり温かい。 名前をつけよう。ルルと語感が似ているし、「リリ」でいいだろう。 名前を呼ぶと、ウゴ……ウゴ……と動いた。 可愛い。気に入った。
その瞬間、ふよふよと浮かんでいたマモノ図鑑が、ぴたりと止まった。 表紙がぱかりと開き、淡い光が広がる。 登録アナウンスが表示される。
■登録マモノ:ショグ=ナイト (リリ)
種族:軟質変態体
属性:闇/変異
特徴: 黒く不定形な軟体構造で、光を受けると虹色の油膜のような輝きを放ち、触手を自在に形成する。
生態: 高魔力環境下で孵化し、最初に接触した個体に執着しながら成長し、知性と簡易的な意思疎通能力を獲得する。
性格: 静かで従順、宿主に強く愛着を示し、外部には警戒心が強く控えめな行動をとる。
保有スキル:
《模倣核》:周囲の形状・質感・動きを観察し、触手や体表を通じて模倣する。完全な変身ではないが、視覚的・触覚的な擬態が可能。
《再構成触手》:損傷した部位を即座に再構成する能力。魔力を媒介にして再生・再接続が可能。宿主との接触状態にあると再生速度が向上する。
《防衛反射膜》:宿主に対する物理的衝撃を感知すると、瞬時に触手を展開し、衝撃を吸収・逸らす膜を形成する。防御は自動で発動する。
コメント: 鳴き声がかわいい。
たぬまりは、図鑑の表示を眺めながら、リリをもう一度見た。 虹色の膜が、朝の光を受けてきらめいている。 リリは、たぬまりの膝の上でぬるりと動いた。 その動きは、どこか甘えているようで、たぬまりは思わず笑った。
「よし、みんなに見せようか」
そう言って立ち上がろうとした瞬間、リリが素早く動いた。 黒い触手が、たぬまりのメイド服の内側にもぐりこむ。
「ちょ、ちょっと……!?」
腹から太ももにかけて、ぴったりと巻き付いてくる。 触手が広がり、ぴたっと固定される。
「……ここが定位置なのね……」
動かれるとくすぐったい。 でも、リリは満足げに「リリ……」と鳴いた。 たぬまりは、ため息をひとつついて、スカートの裾を整えた。
「じゃあ、行こうか。……リリ、あんまり暴れないでね」
触手は、ぬるりと動いた。 虹色の光が、朝の空気の中で、静かに揺れていた。
夢見亭の扉を開けると、店内はまだ朝の準備中だった。
カウンターにはこまちがいて、丁寧にカウンターを拭いている。 ツバキは厨房の奥で、何かを煮ているらしく、鍋の中から甘い香りが漂っていた。 たぬまりは、そっと足を踏み入れる。スカートの裾が揺れるたび、リリの触手がぬるりと動く。
「……おとなしくしててね」
小声で言うと、リリは「リリ……」と鳴いた。くすぐったい。
「おかえり、たぬまり」
ツバキが顔を出す。
「畑で昼寝してたのか? 顔がゆるんでるぞ」
「うん、ちょっとね。……それより、見てほしいものがあるんだけど」
たぬまりが一歩踏み出すと、スカートの下から黒い触手がぬるりと伸びた。
……こんにちは!と言っているかのようにスカートからまろび出る触手。
ツバキの目が見開かれる。
「うわっ!?はぁ!?触手!?!?」
「これたまごの!リリなの!新しいマモノ!」
こまちが動揺して棚にぶつかる。
「ちょっと待って!?それ、なに!?寄生!?」
「ち、ちが!たまごから生まれたリリなの!可愛いの!」
触手は、たぬまりの太ももに巻き付きながら、ぬるりとスカートの裾から顔を出す。いや、顔はない。 「リリ……」と小さく鳴いた。 その声に、店内の騒ぎが一瞬だけ静まった。
「……鳴いた」
「……いや、でも触手が鳴くか?」
「……でも、鳴き声かわいいね……」
たぬまりは、そっとリリを撫でた。
「ほんと大丈夫。この子は、くっつくのが好きなだけだから」
触手は、たぬまりの手に応えるように、ゆるく動いた。 虹色の膜が、光を受けてきらめく。 たぬまりは、少しだけ笑った。
「ね、リリ。みんなに、ちゃんと挨拶しようね」
マモノ図鑑がふよふよと浮かび、気を利かせて登録情報を表示する。 こまちがそれを覗き込み、目を細めた。
「……虹膜触性体?」
「触手って聞くとびっくりするけど、見た目よりずっとおとなしいな」
「でしょ? ちょっとくすぐったいけど、悪い子じゃないよ」
リリは「リリ……」と鳴いて、たぬまりの腹にぴたっと張り付いた。 その動きが、どこか甘えているようで、たぬまりは思わず笑った。
「……ねえ、ツバキ。ドーナツ、まだある?」
「あるぞ。焼きたてだ。リリにも見せてやれ」
たぬまりはカウンターに座り、リリを膝に乗せたまま、ドーナツをひとつ受け取った。 虹色の触手が、興味深げにぬるりと動く。
「食べるのかな……? いや、食べないっぽいな……?」
こまちが紅茶を淹れてくれる。
「リリちゃん、紅茶はどう?」
「たぶん飲まないと思うけど……香りは好きかも」
カップの縁から立ちのぼる香りに、リリが「リリ……」と鳴いた。 たぬまりは、紅茶を両手で包みながら、ふと考える。
この数日、たまごを抱えて過ごした時間は、確かに充実していた。 ゴロゴロして、だらだらして、でもちゃんと魔力を注いで、そして今日──リリが生まれた。
「……ねえ、リリ。これから先も色々見せてあげるね」
触手が、たぬまりの手にそっと巻き付いた。 その感触は、なまあたたかくて、優しかったが、リリを見た店長やお客さん、みんなが驚いたのは言うまでもない。




