#77 寝ている間のこと
「起きないねぇ……」
こまちは、湯気の立つカップを手に、ソファに横たわるたぬまりを見つめていた。
昨日からずっとこの調子。呼吸は穏やかで、顔色も悪くない。けれど、声をかけても、肩を揺すっても、まるで夢の奥に沈んでいるようだった。
「たぬまりちゃん……」
そっと声をかける。返事はない。
手には銀の鍵が握られていて、図鑑は見当たらない。まるで、鍵だけが現実に残されているようだった。
「よし、じゃあ起こすぞ!」
ツバキが腕まくりをして、やる気満々の顔で立ち上がった。
「こういうときは、物理でいくしかない!」
「物理って……何する気?」
こまちは、カップを置きながら警戒する。
ツバキは、たぬまりの耳元に顔を近づけて、いきなり叫んだ。
「起きろーっ!!」
店内がびくりと揺れるほどの声量だった。
棚のカップがカタカタと震えるレベルだった。けれど、たぬまりは微動だにしない。
「……だめか」
「そりゃそうでしょ……」
次に、常連のひとりが提案した。
「好きな食べ物で釣ってみたら?」
「たぬまりちゃんって、何が好きだっけ?」
「えーと、焼き芋?」
「ほんとに焼き芋か?」
「じゃあ、焼き芋の香りを再現しよう!」
こまちは、ハーブ棚からスモーク系の茶葉を取り出して、即席で「焼き芋風ティー」を淹れた。
香ばしい香りが店内に広がる。けれど、たぬまりは反応しない。
「うーん……じゃあ、音楽は?」
「戦闘BGM流してみる?」
「それ、逆に寝るやつじゃない?」
誰かが端末を操作して、たぬまりのプレイリストを再生する。
夢見亭に、なぜか壮大なオーケストラが響き渡る。けれど、たぬまりはまるでラスボス戦の最中でも眠っているようだった。
「じゃあ、次は……」
「くすぐり!」
ツバキが、たぬまりの足の裏を指でつつく。
「……反応なし」
「じゃあ、冷たいタオル!」
「それ、風邪のときのやつじゃん」
「でも、冷たいのって目覚めるよね?」
誰かが冷水で絞ったタオルを額に乗せる。
たぬまりは、ほんの少し眉をひそめたような気がしたが、すぐに元に戻った。
「……あれ?今、ちょっと動いた?」
「気のせいじゃない?」
「いや、確かに……」
みんながざわざわと集まってくる。
こまちは、たぬまりの手をそっと握り直した。その手は、少しだけ温かくなっていた。
「……何か、届いてるのかも」
そのとき、ツバキが銀の鍵を見つめて言った。
「これ、刺したらどうなるんだろ」
「え、刺すって……いやいやいや」
「でも、図鑑って鍵で動くんでしょ?もしかして、外から起動できるとか」
「それ、ちょっと怖くない?」
「でも、何も起きないよりは……」
ツバキは、みんなの視線を受けながら、そっと銀の鍵を持ち上げた。
たぬまりの手の中に握られていたそれは、まるで呼吸するように微かに光っていた。
「……いくよ」
誰も止めなかった。
ツバキは、銀の鍵をたぬまりの胸元にそっと押し当てた。刺すというより、触れさせるように。何かが起きるかもしれない、そんな期待と不安が入り混じった手つきだった。
カチリ。
音がした。
図鑑が震え、たぬまりの体がふわりと浮いたように見えた。空気が揺れ、店内の温度が一瞬だけ変わった気がした。
「え、ちょっと待って、本当に反応した?」
ツバキが慌てて手を引く。
けれど、鍵はたぬまりの手の中に戻っていて、図鑑はどこかへ消えてしまっていた。
「やばいやばいやばい……!」
「ツバキさん、何したの!?」
「いや、ちょ~~っと触っただけで……!」
騒ぎの中、こまちはたぬまりの腕に目を向けた。
その指先が、ほんの少しだけ、ピクリと動いた。
「……動いた?」
みんなが息を呑む。
たぬまりの腕が、確かに反応した。目はまだ閉じたまま。けれど、何かが変わった気がした。
「とりあえず、落ち着こう。お茶、淹れるね」
こまちは、カウンターに戻って湯を沸かし始めた。
ツバキは、ソファの前で正座して反省中。常連たちは、静かに椅子に腰掛けている。誰もが、少しだけ疲れていた。
「だめかな……」
「どうだろう……」
「たぬまりちゃん、戻ってくるよね?」
「うん。きっと」
湯気が立ち上り、ハーブの香りが店内に広がる。
こまちは、カップに湯を注ぎながら、たぬまりの方を見た。
その瞬間——
「……ん……」
たぬまりが、目を開けた。
「……あれ……ここ……?」
こまちは、カップを持ったまま固まった。
ツバキが、正座のまま跳ね上がる。常連たちが、一斉に立ち上がる。
「たぬまりちゃん!!」
「おかえり!!」
「目、覚めた!!」
たぬまりは、ぼんやりと周囲を見渡した。
「……なんか、すごい夢見てた気がする……」
こまちは、そっとカップを差し出した。
「おかえり。お茶、飲む?」
たぬまりは、少しだけ笑って、うなずいた。
「……うん。飲む。あと、寝る。ユリウスは……明日でいいや」
夢見亭の午後は、ようやく本来の静けさを取り戻した。
どうやら、たぬまりは何か達成したらしい。とにかくたぬまりが無事なようでよかった。
彼女は何かと巻き込まれやすいから、今回もなにか重大なことが起きていた気がしてならない。
しかし、今はただ——お茶を飲んで、深く、深く、ため息をつくだけ。
「……もう、ああいうのは懲り懲りだよ……」と、たぬまりはぼそりと呟いた。
こまちは、笑いながらカップをもう一つ用意した。




