#76 門
扉をくぐった瞬間、たぬまりの頬に湿った空気が触れた。
ガラス張りの天井から差し込む光が、葉の影を床に落としている。温室だった。天井は高く、壁一面が透明なガラスで覆われている。外の景色は見えない。霧が張りついていて、まるで世界の端にいるようだった。
中は静かで、湿度が高い。空気に植物の香りが混ざっている。
棚には奇妙な形の草花が並んでいた。茎が螺旋状にねじれたもの、葉が金属のように光るもの、花弁が脈打つように動くもの。どれも見たことがあるようで、ないような、不思議な既視感があった。
たぬまりの目は、中央のテーブルセットに向いた。
白い布がかけられ、ティーカップが二つ並んでいる。椅子は三脚。ひとつは空席、ひとつは倒れていて、もうひとつは誰かが座っていたような形にクッションが沈んでいた。
「ここは……ユリウスの温室……」
呟いた声が、葉の間に吸い込まれていく。
けれど、違う。ここでもない。なんというか、まだ夢の中のような、そんな感じがする。空気が現実の重みを持っていない。足元の感覚も、少しだけ浮いている。
「おかしくなったのは、いつからだろう」
変化の魔女は何も言わず、次の扉へと歩き出した。
たぬまりはその背を追う。
霧を抜けた先に広がっていたのは、尖塔とステンドグラスが並ぶゴシック調の街——なのに、そこかしこにカボチャランタンがぶら下がり、リボンや紙飾りが風に揺れていた。
通りには仮装した住人たちが行き交い、骸骨がケーキを売り、幽霊が郵便配達をしている……はずだった。
通りの名は「パンプキン通り」。両脇の店にはカボチャの飾りが溢れ、帽子屋、菓子屋、仮装用品店が並んでいる。
どこも楽しげな音楽が流れていて、陽気な声が響いていたはずなのに——今は誰も生きた気配がない。
ガランとしていた。
椅子に腰掛けているのは、物言わぬ骸のみ。仮装のまま、動かない。目も開いていない。音楽は流れているのに、誰も踊っていない。
「?」
たぬまりは首を傾げた。
ここは何か違う。前と違う。陽気な雰囲気の住人が居ない。
街並みを歩くと、だんだんと街の様子が変わっていく。知っている街から、知らない街へと。建物の形が歪み、色が褪せていく。
動いているものは、猫くらいだった。
黒猫、白猫、縞猫。通りを歩き、店の中を覗き、椅子に座る。まるで住人のように振る舞っている。数は、だんだんと増えている気がする。最初は一匹だったのに、今は十匹以上が通りを歩いている。
「ここは……どこだ?」
たぬまりは、周囲をキョロキョロと見渡した。
「変化の魔女さん、ここかも……知らない場所だ」
魔女は、立ち止まった。
「この街は、記憶の端にある。誰かが忘れた街。君が知っているようで、知らない場所だ」
たぬまりは、猫たちの間を抜けて、通りの奥へと進んだ。
すると、路地の隅に、何かが落ちているのが見えた。銀色に光る、小さな鍵。たぬまりは、息を呑んで駆け寄った。
「……銀の鍵」
手に取ると、図鑑が震えた。
どこから現れたのか、たぬまりの手元に図鑑が戻ってきていた。表紙の鍵穴が、銀の鍵を待っているように光っていた。
たぬまりは、鍵を差し込んだ。
カチリと音がして、図鑑が開く。ページがめくれ、風が巻き起こる。空気が震え、地面に光の輪が広がった。
門が、創造された。
円形の光の門。中心には、夢見亭の店内がぼんやりと映っている。こまちがカウンターに立ち、常連たちがソファに座っている。誰かがたぬまりの名前を呼んでいる。
「……帰れる」
たぬまりは、門に向かって歩き出した。
その瞬間、背後から空気が裂ける音がした。振り返ると、犬の怪物が現れていた。あの、悍ましい影。目がない。口が裂けている。足音がないのに、確かに迫ってくる。
変化の魔女が、たぬまりの前に立った。
「お前だけ行け。私はこの世界の変化の魔女だ」
たぬまりは、目を見開いた。
「でも……!」
「流星の魔女、いや、銀の魔女。私は、ここに残る。君は、現実へ戻れ」
その声は、風に乗って届いた。
たぬまりは、魔女の背を見つめた。彼女のローブが揺れ、髪が光を受けて銀色に輝いていた。犬の怪物が唸り声を上げる。変化の魔女は、静かに構えた。
「また、現実で」
光の門をくぐった瞬間、たぬまりの視界は白く染まり、風が耳元を通り過ぎた。
足元がふわりと浮いたような感覚のあと、次に感じたのは木の床のぬくもりだった。
夢見亭の店内。
午後の光が窓から差し込み、棚の精霊たちは丸くなって眠っている。カウンターではこまちが、驚いた顔でこちらを見ていた。
「たぬまりちゃん……!」
その声に、たぬまりはゆっくりと顔を上げた。
手には、銀の鍵。図鑑が静かに浮いている。夢の街は、もう遠い。けれど、胸の奥には、変化の魔女の声が残っていた。
「ただいま」
こまちが駆け寄ってくる。
「お、おかえり!本当に、帰ってきたんだね……よかった……」
常連たちも集まってくる。
誰もが、安堵の表情を浮かべていた。けれど、たぬまりの目は、まだ図鑑に向いていた。ページが、静かに一枚めくれていく。
そこには、見慣れた素材欄が並んでいた。
グリムスパインの黒粉。エコーハウンドの粒子。スレッドワームの繊維。
そして——
【登録完了:第四波動体】
「……え?」
たぬまりは、目を凝らした。
確かに、そこに記録されている。素材の性質、採取日時、反応の記録。すべてが揃っていた。
いつの間に?夢境領域のどこかで、図鑑が自動的に記録したのか。
「……手に入れてたんだ。知らないうちに」
こまちが、図鑑のページを覗き込む。
「これって、ユリウスさんのクエストの最後の素材?」
たぬまりは、ゆっくりとうなずいた。
「うん。これで、報告できる。やっと……終わりが見えた」
図鑑を閉じる。
「次は……ユリウスのところへ行こう。ちゃんと、報告しなきゃ」
そう言いながら、たぬまりはソファに深く沈み込んだ。
背もたれがやけに柔らかくて、体が吸い込まれていく。
夢見亭の午後は、いつも通り穏やかだった。窓から差し込む光が、床に模様を描いている。こまちがカウンターで湯を沸かしている音が、遠くで聞こえる。
でも、たぬまりの頭の中は、まだぐるぐるしていた。
温室、パンプキン通り、猫の街、変化の魔女、犬の怪物……あれもこれも、現実だったのか夢だったのか、もう判別する気力もない。
「……はぁ」
深いため息が漏れる。
肩の力が抜けて、図鑑がふわりと浮いたまま、たぬまりの頭の上を漂っている。まるで「お疲れさま」と言っているようだった。
「もう……ああいうのは懲り懲りだよ……」
誰に言うでもなく、たぬまりはぼそりと呟いた。
こまちが、ちょうどハーブティーを持ってきてくれた。湯気が立ち上り、レモンバームの香りが鼻をくすぐる。
「たぬまりちゃん、お疲れ様。お茶、飲む?」
「……飲む。あと、寝る。ユリウスは……明日でいいや」
こまちは笑って、カップをそっとテーブルに置いた。
図鑑が、たぬまりの頭の上でくるりと一回転してから、静かに棚の上に戻っていった。
午後の光は、少しずつ傾いていく。
たぬまりは、カップを両手で包みながら、目を閉じた。夢境領域の記憶が、遠くで波のように揺れている。
そして、次の旅のことは——今は、考えないことにした。
シリアスは長く続かない……!次回、こまち視点が入ります。
次回は10/6 12:00更新とさせていただきます。




