#74 夢境領域
夕焼けが空を染める頃、たぬまりは夢見亭の裏庭に立っていた。
片手にはマモノ図鑑、もう片方には銀の鍵。どちらも彼女にとって馴染み深い道具であり、今や旅の一部だった。けれどこの瞬間、たぬまりはそれらを「道具」としてではなく、「扉」として見ていた。
風が頬を撫でる。
図鑑が微かに震え、銀の鍵が夕陽を受けてきらりと光る。たぬまりは、自然な動作のように鍵を宙に掲げた。口元が動き、声が漏れる。
「■■ ■■ ■■■■■ ■■■■ ■■ ■■ ■■ ■■……」
その言葉に意味はなかった。少なくとも、彼女自身には。
けれど、図鑑が反応した。ページが一枚、音もなく開き、鍵穴が光を放つ。たぬまりの目は虚ろになり、意識がゆっくりと混濁していく。
視界が白に染まった。
——夢見亭の店内。
午後の静けさ。カウンターではこまちがハーブティーの葉を選んでいる。窓から差し込む光が、木の床に模様を描いていた。
ソファには、たぬまりが転がっている。
端末を片手に持ち、画面を見つめたまま、うなり声を漏らしている。
「うぬぬぬ……」
画面には、赤い文字が浮かんでいた。
【未登録素材:第四波動体 位置不明】
ユリウスから受けたクエスト。
素材名と必要数だけが記されていて、たぬまりは順に集めてきた。グリムスパインの黒粉、エコーハウンドの粒子、スレッドワームの繊維。どれも手間はかかったが、図鑑と足を使ってなんとか揃えた。だが、最後の「第四波動体」だけが、どこを探しても見つからない。
「たぬまりちゃん、大丈夫?」
こまちの声が届く。
けれど、たぬまりは返事をしない。ただ、端末を持ったまま、ソファに沈んでいる。
常連たちがざわめき始める。
「また変な素材で詰まってるのか?」
「第四波動体って、聞いたことある?」
「波動って、魔力系か?それとも音響系?」
その声が遠ざかる。
違う。これはもう見た景色だ。たぬまりの視界がぐにゃりと歪む。
まばゆい光のあと、広がったのは——白い砂浜。
粒の細かい砂が、足元でさらさらと音を立てる。裸足で踏みしめると、ひんやりとした感触が心地よい。遠くには、透明度の高い海が広がっていた。波は穏やかで、陽光を反射してきらめいている。
空は澄み渡り、雲ひとつない。
潮風が髪を揺らし、南国の香りが鼻をくすぐる。
背後には、ジャングルのような草木が生い茂っていた。
濃い緑の葉が風に揺れ、鳥の声が遠くから聞こえてくる。木々の間には小道があり、奥へと続いている。
そして、島の中央には山がそびえていた。
頂上は雲に隠れていて、どこか神秘的な雰囲気を漂わせている。山肌には滝が流れ、陽光を受けて虹がかかっていた。
あぁ、イベントの景色か。
本当にこれはやったことなのか。たぬまりが爆走してマモノボスをコテンパンにして?これも見た。ここじゃない。一体いつから……。
またしても、景色が歪んで変わっていく。
ピシャリと雷鳴が轟き、視界が光でいっぱいになる。
夏のはずなのに、館の空気は冷たい。
嵐に閉ざされた洋館の中は、外の湿気とは違う、石造り特有のひんやりとした静けさに包まれていた。窓の外では風が唸り、雨が容赦なく打ちつけている。雷鳴が遠くで鳴り、時折、稲光が館の影を揺らした。
いや、嘘でしょ。これは現実のはず。現実?これ、も夢?
違う違う、いつから、一体いつから私は夢境領域に居た?私はとっくに夢境領域に入って居て、ずっと夢を見ていた……?
そんなバカな。
……ゾッとした。
私は夢境領域に入るのではなく脱出しなければいけないのでは?
そう思考した瞬間、初めて歯車が噛み合った気がした。
カチリ——。
たぬまりちゃんは昨日からソファにぐったり寝たままだ。
店長やツバキさんが起こそうとしても全く起きなくて、これはちょっとおかしい。いつもなら、図鑑がそばに浮いているはずなのに、それも見当たらない。
「たぬまりちゃん……どうしたの……」
こまちは、そっとたぬまりの手に触れようとした。
その瞬間、彼女の指が何かを握り込んでいることに気づく。
「これ、銀の鍵……?」
銀色の小さな鍵。図鑑の表紙に差し込むためのもの。
それが、たぬまりの手の中にあった。
たぬまりは、まるで眠っているようで、けれど夢を見ているようでもあった。
「なにか助ける方法、あるかな……」
こまちは、たぬまりの手をそっと握り直した。
その手は、いつもより少し冷たく、けれど確かに生きていた。指先には銀の鍵が握られている。小さな鍵穴にぴたりと合う形をしたそれは、図鑑の表紙に差し込むためのもの。今は図鑑も見当たらない。まるで、鍵だけが現実に残されているようだった。
「たぬまりちゃん……」
声は届かない。まつげが微かに震えている。何かを見ている。何かと向き合っている。
こまちは、胸の奥がざわつくのを感じた。不安ではない。けれど、静かな焦りのようなものが、じわじわと広がっていく。
「図鑑がないってことは……彼女、今、図鑑の中にいるのかも」
誰かがそう言った。
店内にいた常連たちが、言葉を交わすこともなく、自然と集まってくる。誰もが、たぬまりの異変を感じ取っていた。
「特殊なクエストに入ってる可能性がある」
「外からの干渉が必要なタイプかも」
「でも、どうやって?」
議論は静かに続く。
けれど、こまちはそれを聞きながら、たぬまりの顔を見つめていた。彼女がどこにいるのか、何を見ているのか、それを知る術はない。けれど、確かにここにいる。夢見亭のソファに、銀の鍵を握って。
「……私たちで、できることを探そう」
その言葉に、誰かがうなずいた。
誰かが、図鑑の記録を調べ始める。誰かが、ユリウスに連絡を取ろうとする。誰かが、夢境領域についての資料を探しに行く。
夢見亭は、静かに動き始めた。
たぬまりの旅は、今、誰にも見えない場所で続いている。けれど、彼女を待つ人たちがいる。手を伸ばし、扉を探し、鍵を見つけようとする人たちが。
こまちは、たぬまりの手をもう一度握った。
その手の中の銀の鍵が、微かに熱を帯びていた。まるで、遠くから返事が届いたように。
「……待ってるからね」
その声は、静かに店内に溶けていった。
そして、夢見亭の午後は、少しだけ違う色を帯びていた。
以前、後書きでクトゥルフ要素が出て来ますとお伝えしました。大丈夫ですよ、怖くないですからね。優しくしますから。




