#62 お祝い
※現実メインのお話です。
梅雨の雨は、容赦がない。
窓の外では土砂降りが続き、アスファルトを打つ音が部屋の中まで響いていた。じめじめとした空気が肌にまとわりつくようで、たぬまりはソファに沈みながら、ぼんやりと天井を見上げていた。
「ようやく目標達成〜」
小さく呟いた声は、雨音に紛れて誰にも届かない。
夢見亭で働き始めてから、衣食住の心配はなくなった。寮暮らしで家賃もかからず、まかないもある。けれど、大学の学費や携帯料金など、現実の支払いは容赦なく押し寄せてくる。ずっと苦労してきた。何度も計算して、何度もため息をついた。
ようやく、少し余裕が出てきた。
財布の中に残る金額を見て、初めて「安心していいかも」と思えた。その感覚が、たぬまりには何より嬉しかった。
机の上のカレンダーに目をやる。
一週間後についた赤い印。その日付を見て、ふっと笑みがこぼれる。
こまちの誕生日だ。
ゲーム内では常駐の日。現実世界では夢見亭の閉店後、寮でご飯を食べて備えるはず。つまり、どこかに出かけたりはしない。たぬまりはその隙を狙って、こまちを自室に招く計画を立てていた。
ツバキさんには、料理をお願いしてある。
「誕生日のご飯ってことで、ちょっと豪華にしたいんです」と言ったら、「任せとけ」と快く引き受けてくれた。メニューはまだ秘密だけど、きっとこまちも喜んでくれるはず。
あとは、プレゼント。
たぬまりは立ち上がり、財布を確認してから傘を手に取った。
雨は強いままだったが、気持ちは軽かった。こまちのために何かを選ぶというだけで、胸が弾む。
けれど、現実はそう甘くなかった。
最初に目をつけていた雑貨屋では、目当てのアクセサリーが品切れ。
「昨日、まとめて買われちゃって……」と店員さんが申し訳なさそうに言う。たぬまりは「そっかぁ」と笑って店を出たが、内心はがっかりだった。
次に向かったのは、こまちが好きそうな小物を扱うセレクトショップ。
けれど、そこでは店内改装中で臨時休業。シャッターの前で立ち尽くすたぬまりの傘に、雨粒が容赦なく打ちつけた。
三軒目では、店内でナンパされた。
「雨の日って、なんか運命感じません?」と声をかけてきた男に、たぬまりは「感じません」と即答して逃げた。気まずさと気疲れで、足取りが重くなる。
四軒目では、レジが故障していて会計ができず。
五軒目では、店員さんが新人で、商品の説明がうまく伝わらず、結局買う気になれなかった。
六軒目では、たぬまりが滑って転び、傘が壊れた。
「もう……なんなの……」
濡れた髪をかき上げながら、たぬまりは近くのベンチを探して腰を下ろした。
雨は止む気配がなく、靴の中までじっとりと濡れている。プレゼントはまだ見つからない。気持ちだけが空回りしているようだった。
ふと、目の前の公園に目をやると、テントが並んでいるのが見えた。
雨の中でも営業しているらしい。手作りの看板には「ハンドメイド市」と書かれている。
たぬまりは、ぼんやりと立ち上がった。
濡れた靴のまま、テントのひとつに近づいてみる。布小物やアクセサリーが並ぶ中、ひとつのヘアアクセに目が留まった。
淡い水色のリボンに、小さな銀の星が縫い込まれている。
雨粒を受けて、星が微かに光っていた。
「……こまちに、似合いそう」
思わず口にした言葉に、自分でも驚いた。
こんなに疲れて、こんなに探し回って、結局ここで見つけたものがこれでいいんだろうか。もっと高価なものを選ぶべきだったんじゃないか。そんな迷いが、胸の奥に浮かんだ。
けれど、このヘアアクセを見て、こまちが思い浮かんだのだから、これでいい。
そう言い聞かせて、たぬまりはそれを手に取った。
誕生日当日。
雨はまだ続いていたが、たぬまりの部屋は暖かかった。ツバキさんが届けてくれた料理は、見た目も香りも完璧で、たぬまりは何度も「ありがとうございます!」と頭を下げた。
こまちは、夢見亭の閉店後にたぬまりの部屋へ招かれた。
「こまちちゃん、今日は一緒に夕飯食べよう」
そう言って、テーブルに並んだ料理を見せると、こまちは目を丸くした。
「えっ、これ……全部たぬまりちゃんが?」
「ツバキさんにお願いしたんだけどね。誕生日だから、ちょっと特別に」
こまちは、少し照れたように笑った。
「ありがとう。嬉しい……ほんとに」
食事のあと、たぬまりは小さな箱を差し出した。
「プレゼント。探すの、ちょっと苦労したけど……」
こまちは箱を開けて、ヘアアクセを見つめた。
「……かわいい。これ、私に?」
「うん。こまちに似合いそうだなって思って」
こまちは、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりと呟いた。
「たぬまりちゃんが、こんなに気を遣ってくれるなんて……ちょっとびっくりした」
「えっ、そんなことないよ。いつもお世話になってるし」
「でも、嬉しい。ほんとに」
こまちは、ヘアアクセを髪に当ててみた。
たぬまりは、思わず「似合う!」と声を上げた。こまちは照れ笑いを浮かべながら、鏡を覗き込んでいた。
その夜は、静かに過ぎていった。
ふたりでお茶を飲みながら、ゲームの話をしたり、最近の出来事を語り合ったり。雨音が窓を叩く中、部屋の中だけは穏やかだった。
「また、ゲーム内で会おうね」
こまちがそう言って帰っていったあと、たぬまりは部屋の片付けをしながら、ふと窓の外を見た。
雨は少しだけ弱まっていた。
苦労して手に入れたプレゼント。
それを喜んでくれたこまちの顔。たぬまりの胸の中には、じんわりとした温かさが広がっていた。
「……感謝の気持ち、ちゃんと伝わったかな」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いて、たぬまりはそっと窓を閉じた。
外の雨音が少し遠ざかり、部屋の中に静けさが戻る。こまちが帰ったあとの空気は、ほんの少し寂しくて、でも満ち足りていた。
テーブルの上には、空になったティーカップと、こまちが残していった笑顔の余韻。
たぬまりは椅子に腰を下ろし、頬杖をついてその場にしばらく座っていた。カレンダーの赤い印は、もう過去になった。けれど、今日の出来事は、たぬまりの中でずっと光り続ける気がした。
「……次は、どんなことして喜ばせようかな」
ぽつりと呟いた声は、誰にも聞かれないまま、部屋の空気に溶けていく。
雨はまだ降っていた。けれど、たぬまりの心の中には、晴れ間が広がっていた。
こまちの誕生日は、たぬまりにとっても特別な日になった。
苦労して選んだプレゼント。雨の中を歩き回った時間。すべてが、こまちの「嬉しい」という一言に報われた気がした。
そしてまた、ゲームの世界で会える。
現実と仮想が交差する場所で、ふたりはまた笑い合うだろう。
たぬまりは立ち上がり、部屋の灯りを落とした。
窓の外では、雨粒が街灯の光を受けて、星のようにきらめいていた。
大人になると誕生日のお祝いって自分のは適当になるけど、やっぱり大切な誰かのお祝いはちょっとしたことでも気持ちを込めたいものですね




