#58 濡れ鼠
海辺に座るたぬまりの手には、借り物の釣り竿が握られていた。
竿の先端が波に揺れ、糸が静かに海へと伸びている。風は穏やかで、潮の香りが鼻をくすぐった。
「おっとと……結構引いてる?」
竿がぐぐっとしなる。たぬまりは慌てて手元を握り直した。
釣りなんて初めてだったが、意外と釣れるものなんだなと驚いている。入れ食いというほどではないが、全く釣れないわけでもない。のんびり過ごすには、ちょうどいい。
「ツバキさんに持っていったら、どんな料理になるかな」
思わず口元が緩む。夢見亭のキッチンといえば、ツバキ。彼女の手にかかれば、どんな魚も美味しくなる。煮ても焼いても、干しても漬けても、何かしらの魔法がかかるようだった。
ここは、タコンを崇める教団の漁村があった場所からほど近い海だ。
教団は今や解散し、元信者たちは浮上神殿ルールイエで元気に活動している。たぬまりも何度も顔を出しているが、今日は違う。
少し、疲れてしまったのだ。
素材を集め、図鑑が進化し、次の旅の気配が漂っている。けれど、今はまだ動きたくなかった。一人でのんびり過ごしたくなって、散歩していたらたどり着いたのがこの海辺だった。
飽きたら夢見亭に戻ってこまちに星採り網が出来てるか聞いてみよう。出来てても出来ていなくても今夜は星空の散歩すると決めた。昼も夜ものんびり過ごしたい。
漁村の倉庫に釣り竿が残っていたので、勝手に拝借してみた。 釣りはのんびりしてると思うし、やってみたかった。誰も使っていないようだったし、風化した木の棚にぽつんと置かれていたそれは、まるで「使ってくれていいよ」と言っているようだった。
「……あ、また引いてる?」
竿が微かに揺れる。けれど、引きは弱い。うーん、いる?よね?自信がない。
何か居る気はするけど、小さい魚だろうか。だったらリリースしたほうがいいんだよね?
いや、異世界ではどうか分からないし、そもそも釣りしたことないけどさ。
「ええい、思い切って引っ張ってみよう」
たぬまりは、竿をぐっと持ち上げた。
糸が水面を切り、何かが跳ね上がる。
「せーの!」
水面上に引き上げると、そこには——
「……え?」
一匹の、濡れ鼠が居た。
毛がぺったりと張り付き、尻尾がぐったりと垂れている。目は閉じていて、動かない。
まさに“濡れ鼠”という言葉を見たままの意味で使ったのは今回が初めてだった。
「……死んでる?」
たぬまりは、そっと地面に横たえた。
人間にやるように、人差し指で軽く胸元を押す。心臓マッサージのつもりだった。何度か、軽くぎゅっぎゅっと。
すると——
「ぴゅーーーーっ!」
口から海水を吐き出し、ネズミが飛び起きた。
たぬまりは思わずのけ反る。
ネズミは、全身をブルブルブルッと震わせたら一瞬で毛並みがふわっと乾き、まるで何事もなかったかのように立ち上がった。
「た、助けていただきありがとうございまチュ!」
ぴょこっと頭を下げるその姿に、たぬまりは目を丸くした。
毛はふわふわ、目はぱっちり、口元はにこにこ。
「ほわ……え、ええと……生きてたんだね。よかった」
「はいでチュ! あのまま海に沈んでたら、ネズミ生終わってたでチュ!」
たぬまりは、ネズミの言葉に笑いそうになりながらも、真面目に頷いた。
「しゃべるんだ……」
「もちろんでチュ! あのー、お礼に何か困ってることはないでチュか?」
「困ってること……」
たぬまりは、少し考えた。
素材集めは終わった。図鑑は進化した。次の旅の気配はあるけれど、今はまだどこに行くか分からない。困っていると言えば困っているが、このネズミに言うことではない気がする。何かしたいことは——
「星を、がさーって採りたい」
「星を……がさーって?」
ネズミは、首を傾げた。
「それって、なにかを使って、がさーっとでチュ?うーん、虫取り網とかでチュか?」
「そうそう。空に浮かんでる星を、網でがさーって採りたいの。」
「なるほどでチュ! それなら、案内できる場所があるでチュ! 星が近くに見える丘があるでチュ!」
たぬまりは、目を輝かせた。
「じゃあ、今夜はそこに行ってみようかな」
「はいでチュ! 案内するでチュ!」
ネズミは、胸を張った。
その姿があまりにも可愛くて、たぬまりは思わず笑ってしまった。
見た目も愛らしすぎるし、語尾にチュがつくタイプなのが可愛すぎる。
「……あのー、お話聞いてまチュか?」
「あ、全然ちゅうちゅう《集中》……釣られて噛んじゃった。全然、集中できてなかった!ごめん!」
ネズミは、ぷくっと頬を膨らませた。
「もう一回説明するでチュ!」
たぬまりは、正座して耳を傾けるとネズミは、ちょこちょこと前足を動かしながら、懸命に話し始めた。
「星が近くに見える丘があるでチュ! 夜になると、空がぴかーって光って、手に届きそうな星がたくさん見えるでチュ!」
「それなら、がさーって採るのに向いてるってこと?」
「そうでチュ! がさーっでチュ!」
たぬまりは、ふっと笑った。
「じゃあ、今夜は付き合ってもらおうかな」
海辺の風が、少しだけ強くなった。
波が寄せては返し、空がゆっくりと色を変えていく。夕暮れが近い。
たぬまりは、釣り竿を片付け、ネズミをそっと肩に乗せて歩き出した。




