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メイドさんのマモノ図鑑  作者: 吉良 鈴
はじまりの大陸

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58/107

#56 巣

夢見亭の裏庭で、たぬまりは荷物を整えていた。ポーチの中には空の小瓶が一つ。図鑑はいつも通りふわりと浮かび、彼女の肩の後ろを漂っている。こまちが差し入れてくれた干し果物の包みを入れ、最後に深呼吸をひとつ。


「三匹目。行ってくる」


ユリウスのメモには、こう記されていた。“繊維状の体皮を持つマモノ。地下の巣穴に生息。素材の性質は未確認。危険度は高め。”


たぬまりは、メモを折りたたんでポーチにしまった。谷でのエコーハウンドとの追いかけっこが脳裏をよぎる。あの時の咆哮、耳の奥に残る痛み、そして——死に戻りの記憶。


それでも、足は止まらなかった。あの経験は、ただの恐怖ではなく、今の自分を形づくる一部になっている。たぬまりは、ポーチの留め具を確かめ、図鑑の光を頼りに歩き出した。


目的地は、ユメノネ郊外の廃坑跡。かつて鉱石を掘っていたという坑道は、今では封鎖され、地図にも載っていない。けれど、マモノの気配は確かにそこにあるらしい。


入口は、崩れかけた木の柵の向こう。たぬまりは、足元の石を踏まないように慎重に進み、暗い穴の前に立った。風はない。空気は湿っていて、奥から微かに土と鉄の匂いが漂ってくる。


図鑑がふわりと前に出て、坑道の暗闇を照らすように淡く光った。たぬまりは、その光を頼りに、ゆっくりと中へ入っていく。


坑道の中は、思った以上に広かった。壁には古びた木材が打ち込まれ、ところどころに崩れた道具が散らばっている。天井からは、細い糸のようなものが垂れていた。


「……糸?」


たぬまりは、指先でそっと触れた。冷たい。けれど、粘り気はない。まるで乾いた繊維のようだった。


奥へ進むにつれ、糸は増えていった。壁にも、床にも、天井にも。まるで坑道全体が、何かに編まれているようだった。


「巣……だよね、これ」


たぬまりは、足音を殺しながら進んだ。図鑑の光が、糸の間を縫うように揺れる。空気が変わった。湿度が高くなり、匂いが濃くなる。何かが近い。


坑道の奥、広間のように開けた空間に、糸が渦を巻いていた。中心には、何かが蠢いている。細長い体。節くれだった皮膚。動きはゆっくりだが、確かに生きている。


たぬまりは、図鑑の光を少し絞り、岩陰に身を隠した。マモノは、糸を吐きながら壁を這っている。音はない。けれど、空気が震えている。何かが、始まりそうだった。


マモノは突然動きを止めた。そして、頭部らしき先端を持ち上げ、空気を嗅ぐように揺らした。たぬまりは、息を止めた。マモノの体が、ゆっくりとこちらに向かって伸びてくる。糸を引きずりながら、壁を這い、天井を這い、床を這う。


たぬまりは、ポーチから小瓶を取り出した。素材の正体は分からない。けれど、マモノの体表に何かが付着しているのを見つけられれば、手がかりになるかもしれない。


マモノが、岩陰のすぐそばまで来た。たぬまりは、瓶を構えたまま、身を縮めて待った。そして——マモノが糸を吐きながら、岩の上に乗った瞬間。たぬまりは、瓶を差し出し、体表の繊維が舞い上がるのを狙った。


風が吹いた。マモノの体から、細かい繊維状の粒子がふわりと舞い上がる。瓶の口がそれを捉え、吸い込む。


その瞬間、マモノ図鑑が震え、淡い音とともにアナウンスが表示された。


【マモノ登録完了】 新規マモノが図鑑に追加されました。


■登録マモノ:スレッドワーム

種族:繊維潜行型 属性:土/闇

特徴:全身が乾いた繊維で覆われており、糸を吐いて巣を形成する。体は細長く、節ごとに微細な振動器官を持つ

生態:地下の坑道や廃墟に巣を張り、糸を感知網として獲物の接近を察知する。単独行動を好み、巣の中心で待機することが多い

性格:静寂を好み、外部の刺激には即座に反応する。縄張り意識が強く、侵入者には攻撃的になるが、巣の外には出ない

保有スキル:

《スレッドウェブ》:周囲に糸を張り巡らせ、振動で感知範囲を拡張する

《シルクラッシュ》:糸を一斉に震わせて空間を撹乱し、敵の動きを封じる

《コイルスライド》:糸を巻き取りながら高速移動することで、奇襲と回避を両立する

コメント:糸の動きが本体より速い。巣の中では空間感覚が狂うから、焦らず冷静に動くのが正解だった。素材は繊維の抜け殻みたいなもので、風に乗る瞬間を狙うのがコツかも


マモノが咆哮のような振動を発し、糸を一斉に震わせた。坑道全体が揺れ、繊維が空気を裂くように舞う。


たぬまりは、立ち上がった。逃げるのではなく、動きを読む。糸の流れ、マモノの軌道、壁の構造。すべてが、彼女の目に入っていた。


「……通れる」


たぬまりは、糸の間を縫うように走った。マモノが追ってくる。けれど、たぬまりは止まらない。死に戻りの記憶がよぎる。だが、それは恐怖ではなく、経験として刻まれている。


「私は、もう知ってる。だから、行ける」


糸が絡む。マモノが吠える。それでも、たぬまりは前を向いて走った。


そして——坑道の出口が見えた。たぬまりは、最後の一歩を踏み出し、光の中へと飛び込んだ。


外の空気は冷たかった。たぬまりは、しばらくその場に立ち尽くした。息は荒く、腕には繊維の跡が残っていた。けれど、無事だった。素材は採取できた。図鑑は登録された。


図鑑がふわりと近づいてきた。たぬまりは、指先でページをなぞった。


「三匹、完了。……やりきった」

たぬまりは、図鑑を閉じた。風が谷を抜け、糸の残り香が空に溶けていく。坑道の入り口に立ち、振り返る。暗闇の奥には、まだ糸が揺れていた。けれど、もう怖くはなかった。


ポーチの中には、三つの瓶が並んでいる。どれも、簡単には手に入らなかったもの。けれど、確かに自分の手で掴んだものだ。図鑑がふわりと回転し、彼女の背後に戻る。その動きが、どこか誇らしげに見えた。


たぬまりは、夢見亭への帰路についた。足取りは軽く、けれど静かだった。次に何が待っているかは分からない。でも、今はそれでいい。


途中、道端の草に触れながら歩く。風が吹き、木々がざわめく。谷の音とは違う、穏やかな音。命のある音。


ユリウスの温室で見たあの黒い粉。エコーハウンドの耳から採れた粒子。グリムスパインの背棘の根元にあった粉末。そして、スレッドワームの繊維の抜け殻。


それぞれが違う性質を持ち、違う環境で生まれたもの。けれど、どこかで繋がっている気がする。ユリウスが言っていた「共鳴素材」という言葉が、ふと頭をよぎった。


夢見亭の灯りが見えてくる。 こまちが軒先を掃いていて、精霊たちがその周りをふわふわと漂っている。たぬまりが姿を見せると、こまちは顔を上げて笑った。


「おかえり。無事だった?」

「うん。全部、揃った」

「そっか。じゃあ、報告だね」


たぬまりは頷き、ポーチを抱え直した。 図鑑がふわりと前に出て、ページを一枚めくる。三匹のマモノが並んだページが、淡く光っていた。


「……次は、何が起きるんだろう」


それは不安ではなく、期待だった。 素材を集めるだけじゃない。そこから何かが始まる。誰かの命を救うかもしれないし、世界の仕組みを少しだけ変えるかもしれない。


たぬまりは、夢見亭の扉を開けた。 その先に待つものは、まだ知らない。けれど、もう逃げるつもりはなかった。

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