#55 音の谷
谷に入った瞬間、たぬまりは息を止めた。風が吹き抜けるたび、岩壁が低く唸る。音が跳ね返り、何重にも重なって耳に届く。谷全体が、巨大な楽器のように響いていた。
「……ここか」
岩壁に囲まれた細長い谷。空は開けているが、音が逃げ場を失って渦巻いている。たぬまりの背後では、マモノ図鑑がふわりと浮かび、一定の距離を保ちながら彼女の動きに追従していた。
ユリウスから渡されたメモには、こう記されていた。“この谷に出現するマモノの素材が、例の粉に似ている可能性がある。正体は不明。現地で確認してほしい。”
たぬまりは、ポーチの留め具をそっと押さえた。些細な音が命取りになる。谷の空気は張り詰めていて、息をするだけでも気配が漏れそうだった。
岩陰を選びながら、谷の奥へと進む。途中、風が吹き抜け、岩肌が低く唸った。その音に混じって、別の音が聞こえた。低く、濁った唸り声。たぬまりはすぐに身を伏せ、岩の影に隠れた。
現れたのは、犬のような姿をしたマモノだった。体は細く、毛はなく、皮膚は滑らかな灰色。耳が異様に大きく、頭部の両側に広がっている。目は小さく、ほとんど見えていないようだった。
マモノは、地面に鼻を近づけることなく、耳を動かして周囲の音を探っていた。風が吹くと、耳がぴくりと反応し、体がそちらに向く。
たぬまりは、息を潜めて様子をうかがった。だが、次の瞬間——
岩壁の上から、小石が一つ、コロリと転がった。その音が谷に反響し、何倍にも膨らんで響いた。
エコーハウンドの耳が跳ね上がり、頭がそちらを向く。そして、吠えた。音が爆ぜるような咆哮。たぬまりは反射的に耳を塞ぎ、岩陰に身を縮めた。
「まずい……!」
マモノは、音の発生源を探して動き始めた。たぬまりの位置を正確に把握しているわけではないが、反響音を辿って近づいてくる。その動きは素早く、地形を把握しているかのようだった。
たぬまりは、ポーチから小瓶を取り出した。素材の正体は分からない。けれど、マモノの体表に何かが付着しているのを見つけられれば、手がかりになるかもしれない。
「……やるしかない」
たぬまりは、岩陰から飛び出した。マモノが反応し、耳を広げて咆哮する。その音波が空気を震わせ、たぬまりの体が一瞬、硬直する。
「っ……!」
足元がぐらつき、膝をついた。だが、マモノは咆哮の直後、耳を震わせて周囲の音を探っていた。たぬまりは、その隙を狙って瓶を耳の近くに差し出した。
風が吹いた。マモノの耳の内側から、微細な粉のようなものがふわりと舞い上がる。瓶の口がそれを捉え、吸い込む。
「……入った!」
その瞬間、マモノ図鑑が震え、淡い音とともにアナウンスが表示された。
【マモノ登録完了】新規マモノが図鑑に追加されました。
だが、たぬまりにはそれを確認する余裕はなかった。エコーハウンドが吠え、音波が岩壁に跳ね返る。たぬまりは耳を塞ぎながら、岩陰へと転がり込んだ。
「逃げる……!」
マモノは、反響音を辿って追ってくる。たぬまりは、谷の地形を利用して音を散らしながら、出口へと向かった。足音を殺し、息を浅くし、岩を蹴らないように注意しながら——それでも、マモノはしつこく追ってくる。
そのときだった。たぬまりの脳裏に、あの瞬間がよみがえった。
——意識が落ちる寸前の、あの冷たい感覚。——目を覚ましたときの、夢見亭の天井。——死に戻り。あれは、確かに一度、死んだのだ。
「また……あれが来るかもしれない」
足が震えた。喉が乾いた。このまま捕まったら、またあの感覚に沈むのか。
「……いやだ」
たぬまりは、歯を食いしばった。「私は……!」
マモノの咆哮が背後から迫る。たぬまりは、最後の力を振り絞って岩壁の外へと飛び出した。風が吹き抜け、音が広がる。マモノは、反響の消えた空間に戸惑ったのか、谷の中で動きを止めた。
たぬまりは、しばらくその場に座り込んだ。息が荒く、心臓が跳ねている。耳の奥がじんじんと痛む。けれど、無事だった。素材は採取できた。図鑑は登録された。
ようやく、マモノ図鑑がふわりと近づいてきた。たぬまりは、震える指でページをめくった。
■登録マモノ:エコーハウンド
種族:音獣型
属性:風/精神
特徴:異常に発達した聴覚器官を持ち、視覚に頼らず音のみで行動する
生態:谷や洞窟など、音が反響しやすい地形に生息。単独行動を好み、縄張り意識が強い
性格:警戒心が強く、音に対して過敏。静寂を好むが、好奇心も強い
保有スキル:
《エコーサーチ》:周囲の音を反響させ、地形や生物の位置を把握する
《サウンドブレイク》:強い音波を発生させ、対象の聴覚を一時的に麻痺させる
《ミュートステップ》:自身の足音を完全に消すことで、奇襲性能を高める
コメント:静かにしてれば気づかれないけど、音を立てたら即アウト。素材は耳の奥にあるから、採取はタイミング勝負
「……二匹目、完了。あと一匹」
たぬまりは、図鑑を閉じた。風が谷を抜け、音が遠ざかっていく。彼女は立ち上がり、夢見亭への帰路についた。
次はギリギリのスリルなんて味わいたくないな、と思っていても、最後の調査が待っている。
何度も確認して直したはずなんですけど、図鑑の詳細に改行が反映されていなくて申し訳ないです。




