#54 夜行
夢見亭の裏庭は、夕暮れの光に包まれていた。
たぬまりは、腰を下ろしてポーチの中身をひとつずつ確認していた。空の小瓶が三つ、ユリウスから渡されたメモ、マモノ図鑑、そして非常食のクッキー。夜行性のマモノを相手にするなら、まずは静かに動ける準備が必要だった。
「グリムスパイン……骨が外に出てるって、どんな見た目なんだろ」
図鑑にはまだ空白のページが残っている。調査対象のマモノは未登録。つまり、現地で初めて出会うことになる。
「よし、準備完了。行ってきます」
こまちが店の奥から顔を出し、精霊たちが布の隙間からぴょこっと覗いた。
「気をつけてねー」
「うん、なるべく静かに行ってくる」
たぬまりは、図鑑を胸元にしまい、ポーチを肩にかけて立ち上がった。
空はすでに茜色から群青へと変わり始めていた。森へ向かうには、ちょうどいい時間だった。
森に入ったのは、日が沈みきった頃だった。
木々の間を冷たい風が抜け、葉のざわめきが耳に残る。たぬまりは、足音を殺しながら慎重に進んでいた。空には雲がかかり、月明かりは頼りない。けれど、目が慣れてくると、木々の輪郭がぼんやりと浮かび上がってくる。
「この辺りのはず……」
メモに記された座標を頼りに、たぬまりは森の奥へと向かう。
途中、枝を踏まないように足元を選びながら、息を潜めて進んだ。夜の森は、昼間とはまるで違う。音が吸い込まれるように静かで、風の気配すら鋭く感じる。
ふと、遠くの茂みががさりと揺れた。
たぬまりはすぐに木の陰に身を隠し、息を止める。
「……来た」
現れたのは、背の低い四足のマモノだった。
体は灰色の皮膚に覆われ、背中からは骨のような棘が突き出している。目は小さく、光を反射して青白く光っていた。動きは鈍いが、地面を嗅ぎながら、ゆっくりと移動している。
「グリムスパイン……間違いない」
たぬまりは、図鑑をそっと開いた。ページはまだ空白だ。
この瞬間を記録するために、彼女は静かに観察を始めた。
マモノは、倒木の下に鼻先を突っ込み、何かを探しているようだった。
その動きは、まるで地面の匂いを辿っているかのようで、時折立ち止まっては耳を動かしている。
「音に敏感……でも、視覚は弱そう」
たぬまりは、さらに静かに距離を詰めた。
マモノの背中に目を凝らすと、棘の根元に黒い粒のようなものが付着しているのが見えた。風が吹くと、それはふわりと舞い上がる。
「……これかも」
たぬまりは、そっとポーチから小瓶を取り出した。
風の流れに合わせて瓶の口を開き、黒い粒が舞い込むのを待つ。マモノは、たぬまりの気配に気づいたのか、ゆっくりと顔を上げた。青白い目が、じっとこちらを見ている。
「……ごめん、ちょっとだけ素材もらっただけだから」
たぬまりは、そっと後ずさりしながら距離を取った。
マモノは、しばらくたぬまりを見つめていたが、やがてまた地面を嗅ぎ始めた。敵意はない。むしろ、興味を失ったようだった。
その瞬間、たぬまりの図鑑が微かに震えた。
ページが一枚、自動的に開き、空白だった欄に情報が浮かび上がる。画面には、淡い音とともにアナウンスが表示された。
【マモノ登録完了】
新規マモノが図鑑に追加されました。
■登録マモノ:グリムスパイン
種族:骨獣型
属性:闇/風
特徴:背部に露出した骨棘を持ち、体表に黒粉状の粒子が付着している
生態:夜間に活動し、地面の振動や音に反応して移動する。群れず、単独行動が多い
性格:警戒心が強く、静かな環境を好む。敵意は薄いが、刺激には敏感
保有スキル:
《サウンドトラップ》:音を感知し、反射的に棘を展開して威嚇する
《ダストシェル》:体表の粒子を拡散し、視界と感覚を撹乱する
《ノクターナルステップ》:夜間に限り、足音を消して移動できる
コメント:見た目はちょっと怖いけど、静かにしてれば意外と平和。素材は風に乗るから、瓶の扱いは慎重に
たぬまりは、瓶をポーチにしまい、静かにその場を離れた。
森の出口が見える頃、図鑑のページに“調査完了”の印が浮かび上がった。
「一匹目、完了。あと二匹……」
夜の空気は冷たかったが、たぬまりの足取りは軽かった。
ユリウスの温室で見た黒い粉。その正体に、少しだけ近づけた気がした。
森を抜けると、空には星が瞬いていた。
たぬまりは、図鑑をそっと閉じて、夢見亭への帰路についた。次のマモノに向けて、また準備を整えなければならない。けれど、今は少しだけ、達成感に浸ってもいいだろう。




